よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

西国街道番外編「天王山登山」(京都府乙訓郡大山崎町)

2014-11-28 06:52:18 | 西国街道を歩く

11/23  「天王山」というと、明智光秀と羽柴秀吉の山崎の戦で天下分け目の戦いということで有名ですが、気軽に行けるハイキングコースとしても人気スポットです。

この日、街道歩きの前に登ってみることにしました。標高270m

  

7時55分JR山崎駅をスタート。登山口には、紅葉の紅葉がまぶしいぐらいきれいです。

 

  

急な坂を登ると真っ赤に染まった紅葉が出迎えてくれます。ここは、「宝積寺(ほうしゃくじ)」です。

宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が勅願し、高僧行基が開山したと伝えられ、古い歴史をもつ寺院です。本尊十一面観音は鎌倉時代の作で重要文化財。

  

 

さすが、京都の紅葉ですね。見とれてしまいます。寺の中の登山道を通り再び登り始めます。私たちが登ったのは、車も登れる登山道。「車なんか来ないよね」と思っていたら後ろから4WDの車が私達を追い越して行った。

登ってから約40分。「十七烈士の墓」に着きました。

留米藩士、尊皇攘夷派の活動家である真木和泉守は、脱藩浪士を率いて、この禁門の変の長州軍側に参加、長州軍の京入りにあわせて、300名が船に分乗、淀川を上り6月24日に高槻に上陸し、

25日に山崎の天王山、離宮八幡宮、大念寺、宝積寺 などに布陣します。
 
翌月の7月19日、京都の蛤御門の辺りで、ついに「禁門の変」が発生します。
山崎に陣どった真木和泉守、久坂玄瑞等も向日町、物集女、桂方面に出撃しますが敗退。長州軍は総くずれとなり、残兵200人をまとめて退却しますが、会津藩、新選組等の幕府軍の追撃を受けます。

真木和泉らは、敗軍に長州に落ちのびて再挙を期すように告げると、真木以下、十七名は天王山に踏みとどまり、金の烏帽子に錦の直垂、水干の衣を着て、鉄砲を撃ち、殿軍(しんがり)をつとめます。

こうして、一戦交えた後、陣屋に退却し最後は火をかけて全員割腹自刃しました。(大山崎町観光HPより)

 お墓の上には、「三社宮」があります。三社宮とは、天照大神、月読大神、蛭子神です。

  

三社宮を過ぎると「酒解(さけとき)神社」があります。平安時代に成った延喜式神明帳に記載されている古社で、本殿(江戸時代)の南側に神興庫(鎌倉時代)があり、切妻造、本瓦葺の板倉造で我が国板倉造中、

最古の建造物です。重要文化財に指定。

天王山登山道には、天王山の戦いの案内板が、陶板でできています。全部で6枚。イラストも描かれとてもわかりやすいです。

  

酒解神社から100m、ついに天王山頂上に着きました。秀吉は、天王山の戦いで勝利するとこの山頂に「山崎城」を築きました。しかし、大坂築城が本格化すると、山崎城は取り壊されました。

  

 

しばし休憩の後、下山することにします。

展望台からは、三川(木津川、宇治川、桂川)合流している所が見えると聞いていましたが、眼下を見てみるとモヤがあり、はっきりと見ることができませんでした。

この大山崎から三川が淀川に流れていくそうです。

展望台の所に、「旗立松」があります。天正11年(1582)6月13日、天王山の合戦の時、羽柴秀吉の士気を高めるため、千成瓢箪の大旗を山上の松の樹に高く掲げた。

それによって戦局に変化が起こり、羽柴軍に勝利を導いたといわれており、以来誰いうとなく旗立松の呼び名が起こりました。

  

下山途中、「山崎聖天」がありました。創建は古く、平安時代に寛平法皇の開基と伝えられている。その後、江戸時代初期に、摂津勝尾寺の僧、木食以空が中興開山しました。

観音と合わせ祀る観喜夫は、現世利益で多くの信仰を集めています。

  

    

9時50分JR山崎駅に到着。これから西国街道に出発します。