11/23は、JR九州ウオーキングで「麻生大浦荘」に行ってきました。
JR天道(てんとう)駅を出発。麻生大浦荘まで約9kmを歩きます。
途中、民家の庭先で見つけた「含羞草(おじぎそう)」。1本の木から、白と赤の花が咲いていました。ねむの木によく似ていますね。
約1時間半で「麻生大浦荘」に到着。大浦荘は、「筑豊御三家」の一つに数えられた麻生家の別邸です。
和風入母屋書院造の邸宅は大正末期に建てられました。春と秋に一般公開されています。
ここの紅葉は、見事なんですが、今年の九州の紅葉は、やはり暖かいせいでしょうか、寒暖の差がなく色づきが悪いですね。
下記は、2012年の同時期に行った「麻生大浦荘紅葉」のデジブックです。この時は、きれいでした。クリックしてご覧ください。
http://www.digibook.net/d/5395adb3909fa418ac68cd1236bb1b0e/?viewerMode=fullWindow
JR九州ウオーキングのコースは、ここまで。
早々と大浦荘を後にし、飯塚歴史資料館に行きました。ここでは、NHK朝ドラ「あさが来た」の主人公「広岡浅子と明治時代の筑豊炭鉱」の企画展が開かれています。
残念ながら、館内は、撮影禁止でした。
広岡浅子(ドラマでは、白岡あさ)は、京都・出水三井家の出身で、大阪の豪商・加島屋に嫁ぎ家業を立て直し、筑豊の炭鉱経営を経て、日本女子大学の創設に尽力し、大同生命の設立に携わりました。
江戸時代末期・明治・大正の激動の時代を駆け抜けた浅子の生涯の中で強烈に印象付けるものは、筑豊の炭鉱・潤野炭鉱(ドラマでは、加野炭鉱)とのかかわりです。
明治19年(1886年)に夫の広岡信五郎(ドラマでは、白岡新次郎)は、福岡県穂波郡潤野村(現 福岡県飯塚市潤野)にあった潤野(うるの)炭鉱(ドラマでは、蔵野炭鉱)を買収し炭鉱主となりました。
潤野炭鉱は、明治16年に帆足義方が採掘を始めていた炭鉱でした。
明治初期の筑豊炭鉱は、江戸時代の福岡藩の統制がなくなり、一攫千金を夢見る旧藩士や農民、村役人たちが手がけました。その後国の政策と指導により大手資本が進出し、出炭量は増大し全国有数の
産炭地となりました。然し、当時は、新興産業で小炭鉱の多い筑豊は、群雄割拠の状態でした。明治10年(1877年)代には、600余りの炭鉱がありました。
その後、機械化が進み、大規模化する採掘には豊富な資金が必要でした。大阪や東京にも出資者を求め、浅子もそんな時代の流れに沿って筑豊飯塚の潤野炭鉱にやってきました。(以上飯塚歴史資料館の資料より)
さて、潤野炭鉱は、どこにあったのか、資料館の人に聞くと、現在の福岡県立嘉穂高校の敷地にあったそうです。
車を走らせ、嘉穂高校へ。
嘉穂高校弓道場近くに浅子の炭鉱の立坑があったそうですが、学校の敷地内ですし、許可をもらっていませんので外からの撮影です。
正門の前の墓地には、明治36年(1903年)死者64人を出した爆発事故があった慰霊碑がありました。浅子は、明治32年にこの潤野炭鉱を売却していました。
飯塚には、昨年上半期の朝ドラ「花子とアン」にでてきた「伊藤伝右衛門邸」もありますし、朝ドラブームの再来ですね。