よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道①(日本橋~梅島駅)その1

2019-05-16 04:59:11 | 奥州街道(日光街道)

2019年4月27日のゴールデンウィークから「日光街道」を歩き始めました。今回は、山と渓谷社発行の「ちゃんと歩ける日光街道」という本を参考に歩きたいと思っています。

この日、福岡発7:00の飛行機で東京に行き、羽田から京急で日本橋に行きました。昨年12月東海道・日本橋ゴールして以来の日本橋です。

  

10:40日本橋をスタート。

長崎屋跡:江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していた

オランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して

江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは4年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、

長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。

鎖国時における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。(中央区の遺跡より)

 

 
郡代屋敷跡:江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。

 関東郡代は、徳川家康が関東に入国したときに、伊奈忠次(ただつぐ)が代官頭に任命され、後に関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。

その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。

伊奈忠尊(ただたか)が罪を得て失脚した寛政4年(1792年)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。

文化3年(1806年)に焼失した後、代官待ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。  

浅草橋を渡ると、台東区です。ここには、浅草見附跡があります。神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が

浅草見附と呼ばれ、寛永13年(1636)に作られ江戸防衛の要でもありました。明暦3年(1657)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出した。

こうした悲しい出来事もあったが、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも

浅草御門付近であります。現在は橋のたもとに碑が立てられています。

  

歩いていると、テレビでよく出てくるところが多く、目をきょろきょろして歩いています。

銀杏岡八幡神社は、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられます。

また、この神社は、子守唄発祥の地です。江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し高く評価される「童謡集」は、釈行智の著によるものです。行智(1778~1841)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同に

より、享和3年(1803)別当寺として勧請された覚吽院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職になります。行智は、子守唄を「寝させ唄」「目覚め唄」「遊ばせ唄」と分類し、子供の暮らしの背景が

よくわかるように書き残すなどして伝承に努めました。

注)「寝させ唄」:♪ねんねのおもりはどこへいた・・・・・♪ 「目覚め唄」:♪お月様幾つ・・・・・♪ 「遊ばせ唄」:♪うさぎうさぎ何見てはねる・・・・♪

このように今でも歌われています。

天文台跡:伊能忠敬の師匠天文方高橋至時は、この地で天文観測を行いました。

  

隅田川越しにスカイツリーが見えてきました。10年前に行ったときはまだ工事中でした。東京は刻一刻変わりつつあります。来年は東京五輪、また変わるでしょうね。

左側に「駒形どぜう」が見えてきました。駒形どぜうは、享和元年(1801)創業のどじょう料理の老舗。文化3年(1806)大火に遭い、それまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いと「どぜう」の3文字に改称しました。

店前には、久保田万太郎句碑「神輿まつまのどぜう汁すすりけり」があります。

  

王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしています。江戸時代には吉原に通う猪牙船で賑わったと伝わります。隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園には、様々な植物が植栽されています。数多くのサクラが育ち、例年3月下旬から4月上旬のシーズンには一面をピンク色に彩り、混雑する隅田公園よりも、隠れた桜の名所として数多くの花見客が訪れます  

山谷堀公園:(さんやぼりこうえん)王子の音無川から隅田川に注ぐ水路の山谷堀を埋め立てて作ったため、細長い形をしています。江戸時代には吉原に通う猪牙船(ちょきぶね)で賑わったと伝わります。

隅田公園から北西に向かって約700mにわたって延びる公園には、様々な植物が植栽されています。

山谷というと、僕らが若いころ、岡林信康さんが歌った「山谷ブルース」を思い出します。現在その歌のイメージとは全然違います。ただ、近くに木賃宿が多いなという印象だけです。

今戸神社に来ました。ここは、新撰組沖田総司の終焉の地です。沖田総司は、当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらずその甲斐なく当地で歿したと伝えられています。享年27歳だったとか。

  

今戸神社は、ご祭神は應神天皇(おうじんてんのう)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、浅草七福神の一神・福禄寿も祀られている。康平6年(1063年)京都の石清水八幡を勧請し

今戸八幡を創建。昭和12年に白山神社を合祀し、今戸神社と改称した。権現造りの社殿は昭和46年に造営されたもの。縁結びの神社として知られ、境内には願いを込めた招き猫の絵馬がたくさん架かっている。

今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼及び楽焼の陶磁器。

日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。言い伝えによれば天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。

 

   

泪橋交差点に来ました。この交差点の先が荒川区になります。

泪橋は、小塚原刑場に引き立てらえる罪人と身内の者がここで涙の別れをした。

  


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