4/29(月)晴れ。前日ゴール地東武せんげん台を8:30スタート。新方川を渡ると、すぐ春日部市に入ります。
国道4号線一宮信号より左折。粕壁市街地に入ります。東陽寺には、芭蕉宿泊の寺碑「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」があります。
粕壁宿は、古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物産の集散地として栄えた。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると粕壁宿の宿内家数は、773軒、うち、本陣1、脇本陣1、旅籠45軒で
宿内人口は3701人(男1791人、女1910人)でした。粕壁宿はその後町名が粕壁町になり、1944年(昭和19)粕壁町と内牧町が合併し春日部町になりました。その後市制を敷き春日部市に至ります。
中宿の脇本陣は、最初、蓮沼屋庄兵衛が務めていましたが天保元年(1830)現在地で旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が務め、嘉永2年(1849)から幕末までは本陣になりました。
市街地の中心部には、親子の争いで話題になった「匠大塚」(お父さんの方)があります。2015年西武春日部店の後に入居されました。
小沢本陣跡:粕壁の本陣は、最初は、関根次郎兵衛家が務め、その後、関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に4度移転しました。また、日光山法会など公用の通行者が多いときには、
最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもありました。
本陣の履歴:関根次郎兵衛家(仲町郵便局辺り)→関根助右衛門家(げんき薬局辺り)→宝暦4年(1754)見川家(りそな銀行辺り)→嘉永2年(1849)竹内家(金子歯科辺り)
田村家:宿場の北側には白壁が美しい三軒の「田村家」の家があります。「田村本家」は、土蔵造りの2階建て、明治7年(1874)造られた。江戸期の創業で当代八代目にあたる。以前は米穀商。
「田村家」は、明治22年(1889)に土蔵造り2階建てで造られた。当代は三代目。以前は穀物商でした。
「田村荒物店」は、明治8年(1875)に造られ、当代四代目。
田村家の前には、道標(東江戸、西南いわつき)があります。
永嶋庄兵衛商店:慶長年間(1596~1615)創業の米問屋。屋根に鍾馗(しょうき)像を乗せています。
案内板には、日光街(海)道から日光道中に変わった謂れが書いてあります。それによると、1716年のおふれで日光街道は、海のない国を通る為、日光道中に改められたとのことです。
宿場の先の方には、「最勝院」があります。日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸がかり安置されました。境内には、「春日部」の地名由来となった春日部重行公の「墳塚」があります。
春日部重行の墳塚:案内板を見てみると、
南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ、恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを歎ずる時、護良親王の令旨を奉じ勤王の義兵を春日部に挙げ、
建武元年(一三三四年)新田義貞と共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。 更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや大義の血潮渾(さかん)に燃えこれを京に迎え撃つ。
然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(一三三六年)六月三十日鷺の森において恨み深き自刃を遂ぐ。其の長子家縄遺骨を携えて帰郷し、最勝院に墳を築き此処に葬る。
大正七年(一九一八年)其の功を嘉し、特旨を以て従四位を贈らる。
最勝院から街道に戻ります。新町橋は、江戸時代には、大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋でした。長さ16間(29m)、横幅3間(5m)の板橋で、高覧が付いて架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、
往来を妨げないように仮橋が架けられました。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり石垣の一部が現存しています。江戸時代粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い
6月中旬~8月中旬には、小型の高瀬舟などで米や生活物資を運搬しました。
粕壁は、桐ダンスでも有名です。匠大塚がここにお店を出した理由もなんとなくわかる気がします。
しばらく歩くと道標があります。「青面金剛、左日光道」と書かれています。街道は、小渕交差点で4号線と合流します。
(つづく)