よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)を歩く3日目(その2)「御殿山~枚方宿」(大阪府枚方市)

2022-06-18 07:43:59 | 京街道(東海道57次)

(前回号より続き) 御殿山から街道に戻ってきます。

カササギ橋の所には、枚方なぎさ高校、関西医科大学があります。

 

天の川に架かる「鵲(かささぎ)橋」を渡ります。天の川、カササギ・・・・何か七夕伝説みたいですね。

枚方市から交野市にかけての一帯には、七夕伝説が今も残されています。橋のモニュメントには、カササギが飛ぶ姿をモチーフにしています。

鵲(かささぎ)橋は、七夕の夜、彦星と織姫が会う時、カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋のことです。男女の契りの橋渡しにも使われます。

大伴家持の百人一首「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

意味は、七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために鵲が翼を連ねて渡したという橋ーー天の川にちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを見ていると、

夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。

カササギは、九州北部(特に佐賀県)でよく観察されます。実際我が家の家の前の電柱に巣を作っていました。北部九州では、別名「カチガラス」とも呼んでいます。

 

  

 

天の川を渡り左折すると「枚方宿東見附」です。

 

 

枚方宿(東海道五十六次)の規模の大きさは、京街道の中でも屈指で東見附から西見附まで約1,5kmに及びます。淀川を進む三十石船の乗客に対して、「餅くらわんか、酒くらわんか」と

売りつけに来た小舟は、「くらわんか舟」と呼ばれこの辺りで発展しました。宿の規模は、人口1549人、家数378軒、本陣1,旅籠69軒、でした。

話は、それますが、私、学校を卒業して最初に配属されたのが大阪でした。寮は枚岡(ひらおか)にあり、何も知らない私は、「まいおか」と呼んでいました。(笑)

これと同じ「枚方(ひらかた)」のことを「まいかた」と呼んでいました。「枚」を「ひら」と呼ぶなんて20歳そこそこの私には初めての経験でした。

ここに「枚方」の地名の由来を調べてみました。はっきりとしたことは、わからないということでしたが、候補として、①枚方=「比攞哿駄」説 日本書紀継体天皇24年10月の条に

「比攞哿駄(ひらかた)や笛の吹き上がる近江のや毛野の若子笛吹きあがる」とあり、比攞哿駄が枚方になった説。

②平潟説 河内湖にそそいでいた為、あちこちに潟が入り組んでいた。潟の周囲は平らな入江。③白肩説 神武天皇東征で近畿への上陸地点が白肩之津であった。

話を戻します。

小野平右衛門邸・・・屋号八幡屋。醤油業を営む豪商で岡新町村の年寄・問屋役人を務めました。揚げ見世などが残る幕末期の建物。

 

旧枚方の町は、岡新町、岡、三矢、泥町に分かれていました。

 

枚方橋 現在は暗渠となっていますが、かってここには安居川(中川)が流れていました。江戸時代の枚方宿は、南北2つの「枚方ノ橋」があり、明治時代以降、北の橋は鵲橋、南の橋は枚方橋

と呼ばれるようになりました。現在も「枚方橋」と刻まれた欄干の一部が残っています。

  

宗左の辻 枚方宿は遊郭も栄えたようで「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と詠われ遊郭から客が帰るときに遊女が宗佐の辻まで見送ったそうです。

宗左とは、江戸時代製油業を営んでいた角野宗左(かどのそうざ)のことで、宗左が住んでいた辻は、京街道と磐船街道の分岐点になっていました。

現在の宗佐の辻には京街道と磐船街道の追分を示す文政9年(1826年)建立の追分道標があり、正面に「右大坂みち」、側面に「願主大阪」とあり和泉屋、近江屋、錦屋、小豆嶋屋と、

刻まれています。

  

ビオルネの所に来ました。ここが枚方で一番の繁華街かな?ビオルネは、フランス語のVIE ORNE(生活を彩る)という意味でショッピングセンターとマンションの複合施設です。

枚方は、東海道五十六番目の宿場ということで第2日曜日には、五六市が開かれるそうです。

  

旧岡村に入ります。この地域には、古い商家や旧家が残っています。京街道を山科から歩いてきましたが、このような旧街道の姿は、初めて見ました。

それだけ枚方市が保存に力を入れていることでしょうね。

  

旧街道の中に「常夜灯」がありました。嘉永7年(1854)、能勢妙見宮に枚方宿の安全を祈願しました。「妙見宮」、「天下泰平」、「驛内安全」と記されています。

  

ここから旧三矢村に入ります。高札場は、幕府のお触書などを人々に知らせるための掲示板みたいなものです。この場所は札の辻と呼ばれていました。

  

三矢公園の中にあるのが枚方宿本陣跡です。江戸時代初期は、宇野新右衛門が、享保2年から明治初期までは、池尻善兵衛が経営していました。天保5年(1785)枚方宿が幕府に提出した

書類によると間口20間、奥行き約24間の敷地に建坪215坪の立派な建物がたっていたようです。

枚方宿の常連は、紀州候(6代藩主宗直から。八代将軍吉宗も紀州藩主時代にはここに宿泊しました)、大阪加番大名、長崎奉行、松江藩、高松藩、岸和田藩などです。

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見での敗北によって幕府の影響力は衰えます。すかさず3月に明治新政府は、明治天皇の大坂行業を企て、この本陣が休息所にあてられました。

明治3年(1870)に本陣は廃止されます。明治21年(1888)7月には、浄念寺にあった茨田、交野、讃良郡役所がここに移ってきました。明治29年統廃合により北河内郡役所になりました。

  

  

 

明治30年代の浄念寺前の写真ですが、建物は変わっていますが、道幅は明治時代と同じですね。

  

旧木南邸 屋号「田葉粉屋」庄屋と問屋役人を兼ねた木南家の屋敷。虫籠窓や出格子の伝統的町家で敷地内に4棟の土蔵があります。

 

 

鍵屋:江戸時代、淀川往来の船を待つことができる宿「船待ち宿」を営んでいたのが「鍵屋」です。「鍵屋浦には碇はいらぬ、三味や太鼓で船とめる」と歌われました。

近代以降、「鍵屋」は、料亭、料理旅館として平成9年(1997)まで営業を続けていました。

 

鍵屋の本館は、市立枚方宿鍵屋資料館です。入館料200円を払い館内へ。

 

くらわんか舟

 

朝鮮通信使や琉球使節もこの淀川を通行しました。

享保の象は享保14年(1729)長崎を出発し、4月24日にここ枚方宿に宿泊しました。象を安全に通行させるため、道筋にはさまざまな御触れが出されました。

●川越え 馬が渡れる程度の川は、象も歩いて渡れるので浅瀬を案内すること。歩いて渡れない川は、船を用意すること。

●坂道 雨天の場合、坂道には、滑らないように砂をまくこと。

●路面 石の多い所は取り除くこと。●牛馬犬猫 象が驚いて暴れるので道路から遠ざけておくこと。

●看板提灯 道路の障害物は撤去すること。●見物人 近寄らず騒がないよう注意すること。

当番になった宿は、大変だったでしょうね。

 

 

 

枚方には、私の従妹が住んでいます。連絡すると迎えに来てくれ、従妹の自宅にお邪魔しました。3年ぶりの再会でした。

この日の残りの日程は、明日に持ち越しました。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿