よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)を歩く3日目(その1)「石清水八幡宮~御殿山」(京都府八幡市~大阪府枚方市)

2022-06-15 13:55:51 | 京街道(東海道57次)

(前日からの続き)石清水八幡宮駅からケーブルに乗り石清水八幡宮に向かいます。石清水八幡宮は、男山の山頂に位置しています。

 

ケーブルを下り山道を歩きます。

  

男山山上の石清水八幡宮境内にエジソン記念碑が建てられています。これは、発明王トーマス・アルバ・エジソンが八幡の竹を使って白熱電球の実用化に成功したことを記念し、建立されたもの

です。エジソンは白熱電球の点灯時間を飛躍的に延ばすため、動物の爪や植物の繊維など、ありとあらゆる材料を使って実験を繰り返していました。その材料は6,000種を数えたといわれています。

そんな折り、研究室にあった扇に使われていた竹を使って実験すると、思いのほか良い結果を得られたため、世界各国に最良の竹を求めることになりました。
明治13年(1880)夏、エジソンの特命を受け、日本にやって来た助手のウィリアム・H・ムーアは、2代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介され、ムーアによって

男山付近で採取された真竹がエジソンの元へ送られました。結果は驚くべきもので、約1,000時間も明かりを灯し続けました。
以来、男山の竹はセルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの

白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けました。最初のエジソン記念碑は1934(昭和9年)に石清水八幡宮境内に建立されましたが、1958年(昭和33年)に現在の場所に移転され、

1984年(昭和59年)にはデザインを一新し再建されました。

 

 

石清水八幡宮は、貞観元年(859)に奈良の大安寺の僧であった行教が宇佐八幡(大分県)のお告げを受けて平安京の裏鬼門 男山に勧請したのに始まる。

平将門・藤原純友による承平天慶の乱(935 〜 941)の際、朝廷からの勅使が当社へ祈願したところ速やかに平定されたことから国家鎮護の信仰を集めた。

皇室からの崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ国家第二位の宗廟に位置づけられ、天元二年(979)の円融天皇に始まる歴代天皇の行幸は現在に至るまで200回以上を数える。

弓矢の神、戦勝の神として源氏の氏神となったことから武家からも信仰され、織田信長、豊臣秀吉・秀頼も社殿や回廊の修復、再建に尽力している。

現在の本殿も徳川家光によって建てられたもの。

明治維新が始まると官幣大社に列せられ男山八幡宮に改称されたが、由緒ある「石清水」の号を守るべく大正七年(1918)に石清水八幡宮となった。

この「石清水」は境内の石清水社で湧出する冬に凍らず夏に枯れることがない霊泉に由来し、当社創建以前に遡る長い歴史をもつ。

宇佐八幡宮、石清水八幡宮、筥崎八幡宮(福岡県)が日本三大八幡です。※最近は、三大八幡に筥崎宮の代わりに鶴岡八幡宮(神奈川県)を入れる方もありますが、

創建は、筥崎宮が延喜21年(921年)創建、鶴岡宮が治承4年(1180年)創建ですので筥崎宮の方が古いです。

 

折角ですのでご朱印をいただきました。

 

帰りは、ケーブルを利用せず歩いて下ります。展望台の所には、谷崎潤一郎の文学碑があります。

 

展望台からの眺めです。木津川、宇治川、桂川の三川合流が見れます。

私が5年ぐらい前西国街道を歩き、途中天王山に登った時もこの三川合流が見られました。

5月19日(木)京街道3日目。大阪駅から京阪電鉄を利用し石清水八幡宮駅には、9:20到着。ここから枚方宿に向け歩き始めます。

やわた走井餅は、大津宿にも描かれた大津名物走井餅は、明治43年(1910)6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって名水で名高い石清水の麓へ引き継がれ石清水八幡宮のお参りに欠かせない

やわた名物と言われています。

 

5月19日(木)大阪駅から京阪電車に乗り継いで前日ゴールの石清水八幡宮駅に着きました。今日はここから枚方宿を目指して歩きます。

9:30スタート

 

しばらく歩くと「二宮忠八飛行器工作所跡」の看板があります。二宮忠八は、「飛行原理」を世界の誰よりも早く発見しました。彼の「玉虫型飛行器」の製作を始めた場所がこの地です。

明治22年(1889)烏の翼さばきを見て「飛行原理」を発見。明治24年(1891)烏型飛行機の飛行実験に成功。明治26年(1893)「玉虫型飛行機」の模型を完成。

明治33年(1900)石油発動機があった精米所の当地を買い取り飛行器製作を開始。この付近の木津川には広い砂原があり、飛行機の完成時に試験飛行を予定していました。

明治36年(1903)アメリカのライト兄弟による有人飛行実験の成功を知り、製作を断念しました。

若し、ライト兄弟より先に飛行実験に成功していたら全世界に名が知れ渡っていたでしょうね。彼は大正4年(1915)に航空安全と航空業界の発展を祈願し飛行神社を創建しました。

  

橋本駅周辺に来ると、渡し場の道標があります。

  

橋本駅の近くには、古い民家が立ち並んでいます。ちょっと怪しげな佇まいです。

橋本は、淀宿と枚方宿の中間に位置。橋本の名前は、日本三古橋の1つで、行基が725年(神亀2年)に淀川に架けた山崎橋(山城国山﨑〜橋本間)の最寄りであったことに由来します。

元々、橋本は石清水八幡宮の参拝者が宿泊する場所として賑わっていました。江戸時代(1619年)に京街道の宿場が整備されてからは、淀宿と枚方宿の中間にある宿場として栄えたとのこと。

明治10年(1877)橋本に遊郭が設置されます。昭和5年(1930)に刊行された「全国遊郭案内」では、橋本遊郭が「八幡町遊郭」として次のように紹介されています。

「夜間の不夜城、川岸に弦歌のさんざめくあたりは、実に別世界の感じがある」という表現から遊郭として栄えていた当時の様子が伝わってきます。(千里ニュータウンスケッチより抜粋)

  

マップを見ると、大阪府と京都府の境界がこのあたりですが、看板もありません。勝手にスーパーマツモト付近と決めつけました。

 

街道は、大阪府枚方市に入りました。歩いていると「国史跡楠葉(くずは)台場跡」が見えてきます。

 

①楠葉台場は、京都守護職を務めた会津藩松平容保の建白により江戸幕府が築造し、慶応元年(1865)に完成した砲台場です。「河州交野郡楠葉村開門絵図一分計」という設計図によると、

台場南正面(大坂側)は、西洋の築城様式である「稜堡(りょうほ)式」が採用され、3基の砲台や高い土塁、深い堀などが設けられました。河川台場としては、日本で唯一遺構が残っている

ことなどから平成23年(2011)国の史跡に指定されました。➁造られた目的は、幕末期、開国を求める異国船が大阪湾にも入ってきたので、淀川を遡り京都へ侵入するのを防ぐために築造

されたとされていますが、京都と大坂を結ぶ京街道のルートを曲げて台場内部を通過させていることから実際は、関所として尊王攘夷派らの京都侵入を取締ることにありました。

➂楠葉台場移り変り 慶応4年(1868)1月、大阪城から京都に向けて進軍した旧幕府軍は、鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し戦闘が始まりましたが、旧幕府軍は、後退を続け、戦線を立て直す

ために橋本陣屋(八幡市)と楠葉台場に集結します。そこへ新政府軍に寝返った津藩(藤堂家)が淀川対岸の高浜から砲撃を加えたため、旧幕府軍も対戦したののの退路を断たれることを恐れ、

大坂へ落ち延びていきました。その後、台場は新政府軍が接収、跡地は民間へ売り渡され、明治末期には完全に姿を消したようです。

 

戊辰役橋本砲台跡の石碑は、京都の呉服商だった三宅清治郎が、父の安兵衛の遺志に基づき、昭和3年(1928)に建てたものをこの地に移設しています。

幕末期京都から見ると陣屋のあった橋本集落の南に台場があったことから「橋本台場」と呼ばれていました。

 

  

樟葉駅のくずはモールに来ました。ここで休憩します。ちょっとここで気づきましたが、駅名は「樟葉」で町の名は「楠葉」。

調べてみると枚方市と合併する前は、樟葉でした。合併後、楠葉が使われるようになりました。駅名は、樟葉村時代からですのでそのまま樟葉駅です。

  

  

休憩後再スタート。樟葉駅の裏側を歩きます。

 

 

楠葉橋を渡りすぐ左折します。牧野駅の踏切を渡り穂谷川沿いに歩きます。

前島街道の道標があります。前島街道は、京街道と高槻、西国街道を結びます。前島の渡し場跡は、牧野駅西側の淀川の堤防にあり、高槻の渡し場は前島町にあります。

  

阪今池公園の手前から右折しなくてはいけなかったのですが、間違えて直進しました。しばらくして間違っていることに気づき引き返します。

 

民家の庭先には、ブリキで作ったカエルがありました。何に使われるのでしょうか?

 

「三栗」という交差点で府道13号線に合流します。この「三栗」は、「めぐり」と呼ぶそうです。

三栗の先のスーパーで休憩します。あまりお腹はすいてはいませんが、スーパーでサンドウィッチを買いました。

 

休憩後再スタート。踏切を渡った所に「渚院跡」があります。説明文を見ると、

渚院は惟喬親王(844~897)の別荘だとされています。
惟喬親王は文徳天皇(850~858在位)の第一皇子でしたが、立太子争いにやぶれ憂いをはらはすため、しばしば渚の院に来たようです。
【伊勢物語】には親王一行が交野ヶ原に遊猟にかたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じ、歌を詠むばかりであったと記してあります。
『世の中にたえて桜のなかりせは春の心はのどけからまし』業平
この歌はこの時同行した在原業平が『渚の桜ことにおもしろし』と詠んだものですが、失意のうちにあって『のどか』でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されています。
渚の院跡には、観音寺が建立され十一面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、本尊は渚の西福寺に移されました。
今に残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳造で、河内鋳物師として著名であった枚方村金屋田中家信の作です

  

下記写真は、御殿山です。御殿山の由来は、中世の渚城からその跡地に江戸初期に領主永井伊賀守がここに陣屋を構えたことによるそうです。

登ってみようかとも思いましたが、先を考え写真だけにしました。

 

枚方市まであと少しなんですが、私のGPSのバッテリーがなくなり、今回はここまでとします。

 


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2 コメント

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Unknown (ローリングウエスト)
2022-06-15 20:38:55
岩清水八幡はまだ行っておらず憧れです!いつか行かなくちゃ!いよいよ全国的な梅雨入りとなり、太陽の輝く日が少なくなってきました。適度な雨は農業・治水面で必要ですが、豪雨・水害のないまま梅雨明け・夏の青空を迎えたいものです。今日は4月のような気温の低さで寒かったですが明日はまた30度近い暑さだとか・・。エレベーターのような気温変化にはビックリ!お体ご自愛下さい。
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ローリングウェスト様 (よっくん)
2022-06-18 18:02:36
コメントありがとうございます。
全国的に梅雨に入りましたが、昨日から当地は、気温が30度を超え暑いです。
今週は、2回ウォーキングの下見の予定ですが、暑いのも嫌ですが、雨も嫌ですね。
今年もまた大雨が降るのかな?
来月から博多では博多山笠が始まります。
3年間休止していましたので今年は盛り上がるでしょうね。
石清水八幡宮は、私も初めてでしたが、男山の頂上にあり、何かパワースポットみたいな感覚でした。
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