よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)を歩く1日目「山科~伏見」(京都市)

2022-05-31 14:40:50 | 京街道(東海道57次)

2018年に東海道を踏破しましたが、あとで調べてみると、東海道は、57次だそうです。

京阪電鉄が出しているガイドブックによると、「東海道53次は、実は、❝57次❞だったともいわれています。その理由は、東海道の延長として同じく京と大坂を結んでいた「京街道」にあります。

街道には、伏見・淀・枚方・守口にそれぞれ宿場が設けられており、東海道53次にこれらの宿場を加えた「東海道57次」が本来の姿ではないかというわけです。

湖都、古都、水都をつないできた「みち」と「まち」に思いを馳せてみませんか。

5/21より福井県若狭町で行われる「若狭・三方五湖ツーデーマーチ」に合わせ、この街道を歩いてみることにしました。

本当は、2020年3月に計画しましたが、コロナの緊急事態宣言等があり、今回になりました。この街道は、途中まで「奈良街道」とダブっています。

 

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京街道は、ガイドブックによれば、約60k弱。普通なら4日でいける距離ですが、この街道は見どころ満点のコースですのでさて、何日かかることやら・・・・

5/17(火)博多発6:50の新幹線で大阪へ。大阪のホテルに荷物を預け、京街道の出発点、京都・山科の追分(追分は、滋賀県)からスタートします。

11:15スタート。髭茶屋の所には、蓮如上人の石碑と追分石(道標)があります。(みぎハ京ミチ、ひだりハふしみみち)

  

 

音羽地域は古来より「水不足」で悩んでいたために,明治初期に行われた琵琶湖疏水の開通と,それにつながる「音羽用水路」の完成は,大きな出来事でした。琵琶湖疏水は,技師の田辺朔郎

(たなべさくろう)の綿密な計画のもと,多くの犠牲を出しながらも明治23(1890)年,ついに完成しました。琵琶湖畔の三井寺の近くから長等山トンネルをくぐり,山科盆地の北の山沿いに

走り,九条山を経て京都盆地に入っている。四ノ宮・音羽地域はその通路に当たっているのでした。疏水の完成と共に,疏水から水をひいて山科の田畑を潤(うるお)そうと,用水路が

つくられました。山科には3つの用水路がつくられましたが,その一つが音羽病院の横を流れる「音羽分水路」です(これは後に「洛東用水」と呼ばれます)。疏水の取水所から

約1000mにわたって,四ノ宮・音羽地域を流れており,これによって音羽地域の人たちは,長年苦しんできた「水不足」からやっと救われることになったのでした。この音羽用水路の完成を

記念して,後に「音羽水路紀功碑」が建立されました。

 

 

新幹線のガード下には、道標があります。(みぎうじみち、ひだりおおつみち)

皇塚は、もともとこの地には,直径20mほどの円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていた。6世紀前半ごろのものと推定され,山科区内最古の古墳と考えられるが,原型は留めていない。

その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われる。この石標は,大塚(王塚・皇塚)の跡を示すものである。なお現在,この地は岩屋神社の御旅所と

なっている。(京都市HPより)

  

名神自動車道のガードの前に、「大宅(おおやす)一里塚」があります。この一里塚は、京都市内で唯一残っている一里塚です。

  

自分で作ったマップを見てみるとこの近くに「醍醐天皇後山科陵(やましなのみささぎ)」があります。街道とは離れていますが、ここに立ち寄ってみます。

醍醐天皇は第60代の天皇、ちょうど菅原道真左遷の頃の天皇です。

 

  

第61代朱雀天皇醍醐陵(だいごみささぎ)を通り醍醐寺へ。

 

世界文化遺産「醍醐寺」は、真言宗醍醐派の総本山。874年に、弘法大師空海の孫弟子、理源大師聖宝によって開創されました。醍醐山全体を寺域とし、山上の上醍醐、山下の下醍醐からなる

広い境内を持ちます。多くの国宝・重要文化財を含む、建造物・仏像・絵画・文書を伝承しており、世界遺産にも認定。豊臣秀吉が豪華な花見を行った桜の名所としても有名で、

「日本のさくら名所100選」にも選ばれています。

  

醍醐寺三宝院は、豊臣秀吉が慶長3年(1598)の催した「醍醐の花見」を契機として整備されました。その庭園は秀吉自ら基本設計したもので国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

 

 

醍醐寺仁王門を潜って金堂へ。

  

 

醍醐寺から小野小町ゆかりの隋心院に向かいます。隋心院は、真言宗善通寺派の大本山。小野小町がかつて住んでいたという(諸説あり)ゆかりの寺としても知られ、小町が化粧に使った

化粧井戸や、貴公子たちから寄せられた手紙を埋めた文塚、手紙を下張りに使った文張地蔵などがあります。

  

京都市の南東に位置する山科区小野は、平安時代に小野一族が栄えた場所と伝えられています。

小野一族といえば、古くは大和朝廷の外交の任をもって二回も隋に渡った小野妹子、平安初期にあの世とこの世を行き来し閻魔大王に仕えたとの逸話が残る公卿の小野篁、同じく平安時代前期に

和様書道の基礎を築いたといわれる小野道風などを輩出した孝昭天皇の皇子であった天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とする一族です。

この山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山「随心院」は、小野一族の中でも最も世に知られている小野小町ゆかりの寺といわれています。

小野小町は、小野篁の孫にあたり、出羽の国司を勤めた小野良実の娘であるとされています。また、当時の書家小野道風は、小町のいとこにあたる人となります。

美貌の誉れ高い小野小町は、仕えていた仁明天皇が嘉祥3年(850)び崩御され、その翌年に三十歳を過ぎたころ宮仕えを辞め、小野郷へ戻り、朝夕この水で化粧をこらしたと

伝えられています。

  

小町文塚

 

隋心院から街道に戻ります。

勧修寺(かしゅうじ)は、昌泰3年(900)、醍醐天皇の勅願により、天皇の母・藤原胤子の追善の為に創建された寺です。

街道は、勧修寺から名神高速沿いに歩いていきます。

 

 

深草谷口町には、仁明天皇陵があります。街道は、JR奈良線の高架を歩きます。

  

  

墨染(すみそめ)には来ました。墨染の地名は、平安時代、上野岑雄かむつけのみねが友人である藤原基経の死を悼み、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と歌ったところ、

この地の桜が墨染色に咲いたという伝説が由来とも言われる。この地は京街道奈良街道大津街道が交差し、宿場町として栄えた事もあり、1699年元禄12年)、茶屋株(お茶屋の営業権)が墨染の南部(現在の関西電力墨染発電所の西側)で許可される。そこから、撞木町(しゅもくちょう)の花街が生まれ、忠臣蔵でおなじみの大石内蔵助もここのでも遊んだ伝説が語り継がれている

花街としての墨染は明治以降も存続するが衰退し1910年(明治43年)、京阪電気鉄道が開通した翌1911年(明治44年)頃、消滅した。(Wikipediaより)

 

料亭「清和荘」の敷地に「近藤勇遭難の地」という石碑が建っています。

慶応3年(1867)12月16日、朝廷に政権が移ったことに伴い王政復古の大号令が発せられ、新選組は伏見奉行所へ追われた。隊長の近藤勇は18日、二条城での会議からの帰りに随行者らと

伏見奉行所へ向かっていた。一行は伏見の城下町に入る直前で襲撃され、近藤は右肩に銃弾を受けた。現場は伏見街道が大和街道へと名前を変える辺り、現在の京都市伏見区・藤森(ふじのもり)、墨染から丹波橋までの間と伝えられる。大坂にいた徳川慶喜はこれを聞き、医師を伏見まで差し向けたという。

襲撃したのは、近藤暗殺を企て、前月、油小路の変で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の一派。彼らは薩摩藩伏見屋敷(現在の月桂冠大賞蔵、関連会社・松山酒造の場所、京都市伏見区東堺町)に

かくまわれ、屋敷から持ち出した鉄砲で近藤を返り討ちにしようとした。もともと伊東は新選組の参謀だったが、次第に同調できなくなり組を離れた。坂本龍馬とも親交があり、龍馬暗殺の危険を

内通していたとも言われる。この事件で傷を負った近藤は、年が明けて鳥羽伏見の戦いが始まった1月3日には、大坂城に移り治療を受けていたので、戦の指揮を執ることができなかった。

土方歳三が指揮した。(月桂冠HPより)

  

撞木町京町通沿いにある「撞木町遊郭跡」、今は昔の面影はなく、撞木町遊郭入口の石碑が建っています。通りの中には、大石良雄(大石内蔵助)が山科の閑居から遊興に浸った

よろづや石碑があります。大石良雄(大石内蔵助)(1641~1702)は、播磨赤穂藩主浅野家家老で、元禄14年(1701)主君浅野長矩(1665~1701)が吉良義夫(1641~1702)に

江戸城中で刃傷に及び、切腹を命じられ、領地は没収された。大石良雄は、赤穂藩再興を図りましたが、受け入れられず山科に閑居し、伏見撞木町で遊興に耽るとみせて、吉良邸討入りを

画策したと伝えられています。

  

墨染地区あたりは、お寺が多く点在しています。墨染寺は、墨染の地名に由来します。桜の名所だそうです。

 

勝念寺は、安養山 往生院 勝念寺と号する浄土宗知恩院末の寺院です。織田信長公が深く帰依した聖誉貞安上人によって天正15年(1587)に開創されました。

天正10年織田信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所(烏丸二条)で自刃しました。正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人に信忠刃の地である御池御所を賜り、

信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創しました。同時に、時の天下人である豊臣秀吉の城下町である此処伏見丹波橋に、布教の拠点とするべく一寺を開創して勝念寺と号しました。

貞安上人が織田信長公より安土で賜った仏像が伝わります。釜敷地蔵尊は、地獄で釜茹での責めに苦しむ亡者に代わり自ら釜の中で苦を受ける身代地蔵尊です。

「かましきさん」として江戸時代より信仰を集めています。

 

  

  

天平勝宝2年(750)創建の金礼宮(きんさつぐう)は、伏見において最も古い神社の一つであり、旧久米村の産土神として崇敬されていました。金札宮の祭神は、天照大神、

天太玉命(白菊大明神)、倉稲魂命ですが、御香宮神社の縁起によると、白菊大明神は御鎮座に先立ってこの地に住んでいたと伝えています。
清和天皇が天太玉命の化身白菊翁の名を金礼に記し奉納したことが、「金礼」の由来と言われてます。

 

伏見大手筋商店街にやってきました。商店街には酒にかかわるものが展示されています。伏見は、灘、西条とともに日本三大酒どころと呼ばれています。(残念ながら福岡は入っていません)

豊かな自然風土に恵まれ、京文化に磨きあげられた伏見の清酒。その歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。

以来、脈々と受け継がれてきた酒づくりの伝統が花開いたのは、安土桃山時代のこと。太閤秀吉の伏見城築城とともに伏見は大きく栄え、需要が高まる中で一躍脚光を浴びるようになりました。
さらに江戸時代には、水陸交通の要衡として、伏見はますます発展。酒造家も急増し、銘醸地の基盤が形成されています。そして明治の後半には、天下の酒どころとして全国に

その名とどろかせるようになったのです。まちとともに、人とともに、息づく名酒の歴史がここにあります。

 

伏見宿:伏見城の城下町として発展した伏見宿(東海道五十四次)は、本陣4,脇本陣2,旅籠39軒、人口24,227人、家数6245軒を備えていました。参勤交代の大名たちは、

洛中を通ることが許されなかったため、街道は、ここから山科を抜けて追分を通り、大津へと向かっていきました。

時刻も17時を回ってきました。今日は、京阪伏見桃山駅までとします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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