12/13は、ふくおかウオーキング協会の板付遺跡、金隈(かねのくま)遺跡を歩いてきました。
集合場所は、博多駅筑紫口。途中御笠川の下水道処理センターを通り、「板付遺跡」へ。
板付遺跡は、福岡平野の中央よりやや東寄りに位置する。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。遺跡は弥生時代が主であるが、
それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡である。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝がある。
環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が多数掘り込まれている。台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、
水をコントロールできるようにしている。また、土盛り畦畔で囲まれた水田には水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに
日本で最も早く稲作農耕が開始された。弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展している。大正五年に環溝の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土している。
これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示している。このころは環溝周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、
貯蔵穴群や墓地が発見されている。このように、板付遺跡は日本における稲作農耕の開始について重要な問題を提起するとともに、弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、
集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握できる数少ない遺跡である。(福岡市文化財HPより)
また、魏志倭人伝に書かれている「奴国」があった場所とされている春日・須玖岡本遺跡にも近い場所です。
板付遺跡では、当時の水田が復元されています。
板付遺跡弥生館では、当時の人が使った土器、農耕具などが展示されています。入ると弥生時代にタイムスリップしたみたいです。
鍬、鋤、柄振(えぶり)などは、堅い樫の木で作られていますが、その形は現代とほとんど変わりません。、こういった技術は、大陸から渡ってきた人が広めたのではないでしょうか。
弥生人の身長は、男性で161cm、女性、150cmですので意外と背が高いですね。もっともこれは、渡来系弥生人です。
板付遺跡には、弥生人の足形が残されています。図ってみますと20cmぐらい。多分女性の足跡だと思われます。
板付遺跡は、福岡空港(昔は、板付空港と呼んでいた)近くですので、空を見ると飛行機が絶え間なく飛んできています。
板付遺跡から歩いて約30分、「金隈(かねのくま)遺跡」に着きました。
金隈遺跡は、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央にある。
弥生時代の共同墓地の遺跡で、弥生時代前期の中頃(西暦2世紀)から後期の前半(西暦2世紀)までの約400年間にわたって営まれた。
この遺跡からは、348基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘されている。最初に土壙墓が作られ、その後に甕棺墓、最後に石棺墓が作られたものと考えられる。
甕棺墓からは、136体の人骨が出土した。平均身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmで、縄文人と比較すると、顔も面長になり、身長も急に高くなっている。このことから、
朝鮮半島との交流による混血が行なわれていたのではないかと考えられる。墓中の副葬品には、種子島からオーストラリアまでの海中にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や、
石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流を物語っている。
福岡市教育委員会が行なった、これらの発掘調査の結果から、遺跡は、弥生時代墓制の典型的な遺跡として、昭和47年に国指定の史跡として保存されることとなった。(福岡市文化財HPより)
金隈遺跡は、公園になっており、坂を登っていくと、甕棺展示場があります。
136体の人骨の内訳は、1歳~6歳までの死亡率が高く、成人の死亡年齢も低かったそうです。また、60歳以上まで生きた人は、女性のみで女性の生命力が強かったそうです。これは、現代でも変わりありませんね。(笑)
この人骨は、本物です。
この弥生時代の金隈人の身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmです。現代より少し小柄ですね。平均寿命は、40~50代でしょうか?
金隈遺跡を後に、ゴールのJR南福岡駅(旧雑餉隈駅)へ向かいます。
家内は、子供のころ、銀天町商店街近くに住んでいて、久しぶりにここに来たと言って喜んでいます。ここに映画館があった・・・・・、この店は、昔からある・・・・・・など懐かしがっていました。
商店街では、餅つき大会も行われていました。
やはり、搗き立ての餅は、おいしいですね。
日田の方にも隈の文字の付くところがあって、昔から住んでいたものの末裔かなと思ったりして楽しんでいます。
本当に毎日寒いですね
門司港は特に風が強くて、私でも吹き飛ばされそうですよ
板付遺跡、そういえば社会の時間に洗ったな~と思いながらブログを読んでいました
身近な所に古代の歴史が眠っていたのだなぁと改めて感じました
熊本県の熊本も昔は、隈本と書いたそうです。
川が入りこんで曲がった所というのが意味だそうです。
日田の三隈川も曲がって入り込んだ所だったのでしょうか?
この板付遺跡は、登呂遺跡よりも古く縄文末期から弥生初期だそうです。
福岡は、大陸に近かったから昔から渡来人が多く来ていたのでしょうね。
金隈遺跡では、渡来人と昔からの住人の混血も発見されたそうです。
私の生活圏から遠いからでしょうか?九州の方の歴史・名跡などには疎い私ですのでよっくんのブログで、知ることの楽しさを教えてもらっています。
官兵衛…きょうが最終回名残惜しい感じがします。
カブさんにとって、懐かしさが走馬灯のように巡った
一日だったのでしょうね~?