よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥州街道⑧4日目「白坂宿~白河宿」(その1)(福島県白河市)

2022-04-21 17:51:36 | 奥州街道(奥州道中)

3/31(木)奥州街道4日目

朝、宇都宮のホテルをチェックアウトし、宇都宮から新幹線で本日の宿泊地新白河に向かいます。(新幹線だと約25分、東北本線だと約1時間半かかります)

新白河のホテルに荷物を預け、新白河駅から東北本線で白坂駅へ。

余談ですが、新白河駅は、西白河郡西郷(にしごう)村にあります。全国の新幹線で唯一「村」に止まる新幹線の駅だそうです。(ホームの一部は白河市にかかっています)

 

金売吉次(かねうりきちじ)兄弟の墓があります。

吉次兄弟は、奥州平泉の藤原秀衡に仕え、砂金を交易して、平泉と京を往来していました。承安4年(1174)ここで盗賊に襲われ皆殺しになり、里人がそれを憐みこの地に葬り供養したと

伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。

  

白河口にやってきました。ここは戊辰戦争白河口の激戦地でした。「戦死墓」は、会津藩士の墓です。

明治を迎える直前の慶応4年閏4月から7月にかけて白河を戦場とする大戦争「戊辰戦争・白河口の戦い」が行われました。

会津藩・仙台藩などを中心とする奥羽越列藩同盟軍(東軍)の諸藩(兵2500)が、藩主不在の小峰城に集結し、奥州街道を北上する新政府軍(西軍)(兵700)と激突したのです。

稲荷山防塁にて迎撃した奥羽越列藩同盟軍は、惨敗し、小峰城は、落城しました。

約100日間にわたる戦いでは千名を超える死傷者があり、戊辰戦争の中でも激戦地の一つとなっています。

  

 

長州・大垣藩戦死六名墓 長州藩士三名、大垣藩士三名計六名の墓です。

 

会津藩士田邊軍次は、「白河口の戦い」で会津軍が敗れたのは白坂町取り締まりの大平八郎が官軍の道案内をしたためであると信じ込み、明治3年(1870)7月、斗南(青森県下北郡)を出発、

8月に白坂に着き、八郎を旅籠鶴屋に呼び出して斬殺し、自らもその場で自害しました。享年21歳でした。

 

権兵衛稲荷神社 稲荷山に鎮座しています。神社の上の公園には、「戊辰之碑」があります。碑の横には、戊辰戦争白河口の戦い戦死者の銘板には、両軍戦死者全員の名が刻まれています。

 

ここには、会津藩家老「西郷頼母」の歌碑「身をかくすことのできる カタツムリがうらやましい」があります。

余談ですが、西郷頼母の甥でのちに養子になる「西郷四郎 - Wikipedia」は、富田常雄の小説で映画やテレビで放映された「姿三四郎」のモデルと言われています。

 

稲荷山から白河市街地に行きます。道標には、「左 江戸街道(奥州街道)、右 那須湯本道」。

  

小峰城(白河城)は、慶長年間(1596~1615)頃に城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに

石垣を多用した城郭に改修されました。白河藩成立や城郭の改修とあわせて、奥州街道沿いに城下町も発展し、商人や職人が居住して大きな賑わいをみせていました。

城下町は「通り五町」と呼ばれた、天神町、中町、本町、横町、田町を中心とし、その南側、東側にも町屋が広がっていました。

記録によれば、寛文年間(1661~1673)の城下の町人は、7500人余りで武家人口と合わせた城下の総人口は、15,000人ほどと推定されます。

現在の福島圏域では、会津藩に次ぐ規模を誇っていました。

市街地には、多くの歴史遺産とともに当時の奥州街道を中心として町割りが非常によく残されており、今も城下町の姿を残しています。

 

藤屋」(藤田本店)は、味噌・醤油の醸造業店として天保元年(1830)頃に初代藤田彌五兵衛氏によって創業され、現当主で6代目を数えます。

本家である酒造業藤屋は白河藩主松平定信関係の資料にも「白錦」などの銘酒を製造していたと記されています。

 

奈良屋呉服店 明治14年(1881)に阿部家5代金次郎氏によって創業されました。呉服店を営む以前の江戸時代には、油・砂糖を商っていたとされます。

また、明治中期には、自転車を販売する代理店でもありました。店舗は、大正2年(1913)に建築されたもので、店舗兼併用住宅の木造瓦葺です。

 

月夜見の庭 白河石を敷き詰めた庭園。文学の庭。

  

鍍金装笈(ときんそうおい) 龍蔵寺の末寺であった法雲寺に伝来した慶長六年(1601)の名を持つ笈で、寺跡に残った虚空蔵堂に保管されています。

笈は、修験者が布教などで各地を巡る際、仏像や衣服を入れたり、金鋼板などを貼り、仏像を厳かに飾ったりするためのものです。

 

今井醤油店  江戸時代末頃に今井清吉氏によって創業されました。江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823)「天神町絵図」には「肴商売武兵衛」、

天保年間(1830~44)絵図には「肴屋清吉」と記されています。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数えます。

現在の外観は、昭和30年代の改修によるものです。 

 

松河屋  明治期に安田孝之助氏によって創業された味噌・醤油の醸造店で、昭和40年頃まで営業を行い、その後は酒の小売店となりました。

 建造物群は、醸造業を営んでいた時代の蔵が2棟残されています。通りに面した蔵は、明治25年(1892)に建築されたものです。

 

旧松井呉服店は、明治15年(1882)頃、安田清次郎氏が松井呉服店を開業し、明治35年(1902)に本建造物を建築しました。当時は他に2棟の土蔵があり、それぞれ前蔵、中蔵、奥蔵と

呼んでいました。平成10年(1998)に市が取得し天神町の集会所(天神町会館)として使用しています。平成29年(2017)度には集会所建設工事に併せて改修が行われました。

  

松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861~64)に、安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1879)当地に移転しました。2代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら

大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めています。建造物群は、旧奥州街道に面した店舗と並立する蔵を先頭に4棟の蔵、2棟の倉庫の計6棟の蔵・倉庫群が連坦する景観が特徴的です。

 

白河信用金庫本店の建物は、白壁や瓦屋根など城下町の風景に配慮して建てられ」ました。

 

あまり長くなりますのでこの続きは(その2)にて続きます。

 


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