よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥州街道①1日目「宇都宮宿~白澤宿」約12km(栃木県宇都宮市)

2022-04-10 19:17:39 | 奥州街道(奥州道中)

4/2~3までふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチに参加しますが、その前に奥州街道「宇都宮宿~白河宿」まで歩きました。

奥州街道は、陸奥(みちのく)を貫き、津軽、蝦夷地函館に至るまでの日本一長大な街道でした。

古代、陸奥(むつ)は、「道の奥の国」と呼ばれ、今の青森、岩手、宮城、福島を包括する広大さでした。

徳川家康は「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長7年(1602)から取り掛かりました。但し、五街道に制定された奥州街道の道筋は陸奥国白河迄でした。(ちゃんと歩ける奥州街道より)

その奥州街道を3/28から4日間の予定で歩こうと企画しました。

奥州街道は、宇都宮~白沢~氏家~喜連川~佐久山~大田原~鍋掛~越堀~芦野~白坂~白河までの10宿、約90km。

   

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【宇都宮宿~白沢宿】

3/28(月)博多を6時00分の新幹線に乗って一路宇都宮へ。宇都宮には12時ごろ到着しました。

ここ2,3日福岡はぽかぽか陽気で春を感じるのですが、宇都宮は、少し寒く感じます。桜の花もまだ開花してないそうです。(3/28現在)

荷物をホテルに預け、奥州街道のスタートです。

昨年の11月に奥州街道を宇都宮駅まで歩きましたので宇都宮駅から歩きます。

 

旧篠原家住宅

宇都宮を代表する旧家の一つである篠原家は、江戸時代(19世紀初めごろ)から奥州街道口の現在の場所で、しょうゆ醸造業や肥料商を営んでいました。
現在の建物は、1895年(明治28年)に建てられたものです。第二次世界大戦の戦火により、主屋と石蔵3棟を残して焼失してしまいましたが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物です。
国の重要文化財・宇都宮市の有形文化財の建造物に指定されています。

中に入ってみようかと思いましたが、今日は月曜日休館日でした。

八坂神社は、宇都宮城の鬼門除けとして康平6年(1063)創建されました。

  

東北新幹線のガード下を潜ります。潜った先右側の細い道が烏山城(現那須烏山市)があった「烏山道追分」です。

 

長屋門 明治27年(1894)築の岩淵家の長屋門。豪農でした。家の中を見てみると、「大谷石」で造られた蔵などがありました。

  

宝蓮院の北側には、立場(たてば)があり、トコロテンが名物でした。

注)立場(たてば)とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所。もともと杖などを立てて一休みしたのでその名が生じたといわれています。

 

岩曾の交差点の公民館の後ろに「首切り地蔵」があります。

宇都宮藩の刑場跡。根来衆はここで斬首されました。享保8年(1723)造立の「首切り地蔵」は根来塚(首塚)に安置されたものです。

注)根来衆事件:元和元年(1615)二代将軍秀忠の日光社参に先立ち、警護のため「鉄砲組根来同心百人衆」が宇都宮に派遣されました。宇都宮藩主本多正純は、一行に城普請を命じましたが、

お役違いと拒否したため全員を座bb種しました。「宇都宮釣り天井事件」の遠因になりました。

 

県道125号線を進みます。奥州街道は、白沢街道と呼ばれています。

  

遠くに雪を被った日光連山が見えてきます。男体山(2484m)、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)でしょうか?

  

稚児坂に差し掛かりました。1196年、鎌倉幕府から奥州総奉行の任命を受けた伊沢家景が、任地に向かう途中、この坂にさしかかったところで、
同行していた乳幼児の我が子を亡くしました。それ以来、この坂は「稚児坂」と呼ばれる様になりました。

稚児坂の中ほどには茶屋があったそうです。

 

稚児坂を下っていくと、白澤宿の入口です。江戸から30里(約120km)です。私の奥州街道歩きも120kmを越えようとしています。

 

白澤の地蔵堂は、伊沢家景が先ほどの稚児坂(王子製紙あたり)で鎌倉から東北に向かう途中子供が病気になり亡くなりました。そしてこの子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。

この白澤の地蔵堂を含め白澤には、七福神があるそうです。

  

やけん(薬研)坂 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ていることから「やけん坂」と呼ばれるようになりました。

mあた、慶長14年(1609)白澤宿として町割りができる以前から街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があったそうです。

  

 

白澤宿の案内板がありますが、文字がかすれて読めません。同じ文章がネットでありましたのでここに引用します。

「江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白澤宿でした。宇都宮で日光街道と分れて白澤宿から白河宿まで23里(約91km)が

十宿で構成されました。16世紀以前は純農村で我が宿のルーツは、関ケ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めに遡ります。

すなわち、徳川家康が鬼怒川を渡る時、その案内役をかって出たのが、白澤村庄屋「宇加地家」と上岡本村庄屋「福田家」でした。

その功績が認められ、戦いの後、両村共同で白澤宿という往還宿を構成することが許され、慶長14年(1609)には、町割りを完成し両家は御用を勤め問屋になっています。

(本陣:宇加地家、脇本陣:福田家)天保14年(1813)には、本陣1,脇本陣1,旅籠13軒、家数71軒、人口369人(男179人、女190人)を数えていました。

宿場の名物は,鮎と牛蒡汁でした。

白澤宿は江戸から明治になって大いに栄えました。明治18年(1885)奥州街道が現在の国道4号線に移り、おかげで現在の宿場の面影を今にとどめています。

白澤宿がしのばれる由緒ある家並みを保存していくため村おこし事業を契期に用水路に鯉を放流し、環境美に努め、歴史を伝えていきたいと思います。

                                                      昭和62年2月吉日 白澤宿保存会」

 

各家々には、昔の屋号が付けられています。

 

 

 

 

宿場の角の所は、明治元年(1868)創業の下野地酒「澤姫」の蔵元「井上清吉商店」です。

 

 

西鬼怒川を渡った所に「白澤の一里塚」があります。もともとは、鬼怒川の河原にありましたが、度々の洪水で流されたそうです。

 

一里塚の横には、「開田之碑」と白澤の七福神の一つ「福禄寿」がありました。

 

次回は、鬼怒川を渡り氏家宿に入ります。

 

 

 


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