喜連川宿からの続きです。
台町から桝形の道を通り、内川に架かる「金竜橋」を渡ります。
この辺りは、何の遺構もなく先を進みます。金鶏神社の祭神は、猿田彦命で現在は、喜連川神社に合祀されています。
男女双体祝言道祖神 長野県で、夫婦双体道祖神をよく見かけましたが、栃木県で見るのは初めてです。やはり子孫繁栄を意味しているのでしょうか?
もう田んぼには、田植えが終わっていました。
曾根田の信号を右折します。
明治9年(1876)明治天皇巡幸の際、ここでご休憩されました。横には、男女相体祝言道祖神があります。
江川に架かる「宮下橋」を渡ります。
大田原市佐久山に入りました。武藤酒店は、江戸時代後期の創業で裏庭には、市境にあった馬頭観音があります。
琵琶池ゴルフ場の先にコンビニがありましたのでここで休憩します。
佐久山の始まりは、文治3年(1187)、下野の戦国大名那須氏の一族で、源平合戦に活躍した那須与一宗隆(資隆)の次子泰隆が、佐久山氏を称して集落の南の丘陵地に館(佐久山城)を築いたのが
始まりとされます。佐久山は、地勢が狭く、細長い傾斜地であるところから「狭山」「作山」と表記されていましたが、のちに「佐久山」に変わりました。
その後、佐久山城は代々佐久山氏の居城となりましたが、永禄6年(1563)、同族の福原資孝に攻められたとき城を棄てて逃れたため、佐久山城はいったん廃城となりました。
しかし、130年余りのちの元禄15年(1702)、福原資倍が修復を加え、以後福原氏の佐久山陣屋として明治維新まで存続しました。この城跡は、佐久山小学校裏手付近の台地が本丸跡といい、桜の名所「御殿山公園」となっています。元禄年間(1688~1704)には「花の佐久山御殿よ。春日桜で市をなす」と道中唄に歌われるほど遊女で栄えたといいますが、
明治18年東北本線の開通に伴い、宿場としての使命は失われました。今は山間の静かな町で往時の面影は少ないです。
なお、天保14年(1843)の宿の規模は、人口473人(男230人・女243人)、戸数121軒、うち本陣・脇本陣各1軒、旅籠27軒と、比較的小さな宿場でした。
歩いていると「運用膏」と門に書かれた家があります。ここは、八木沢家で傷薬の家伝薬「運用膏」の老舗です。幕末の戊辰戦争の際、評判を一気に高めました。
豊道春海翁生誕之地碑 豊道春海(ぶんどうしゅんかい)は、大正、昭和の書家。栃木県那須(なす)郡佐久山町(現大田原市)に川上茂平の三男として生まれる。名は慶中。
幼名は寅吉(とらきち)。6歳で仏門に入り、13歳で出家得度、ついで東京・牛込行元寺(ぎょうがんじ)の妙澄尼に請われて豊道家を継ぐ。14歳で西川春洞(しゅんどう)に師事、書を学ぶ。
1914年(大正3)瑞雲(ずいうん)書道会を創立。47年(昭和22)に日本芸術院会員となり、翌年、書道が日展第5科に新設されるとともに、理事に就任、また第二次世界大戦後の書道教育の
復興にも努めた。書は漢字をよくし、気骨ある雄大な書風を樹立。東京国立博物館ならびに栃木県立博物館に遺墨が収蔵されている。天台宗大僧正(だいそうじょう)。67年文化功労者。
弓の達人として有名な「那須与一」は、佐久山の生まれです。佐久山の公衆便所の壁には、那須与一が屋島の戦いで見事に扇の的を射抜いた姿が描かれています。
那須与一は下野の国那須野が原(現在の栃木県北部那須地方一帯)に勢力を持った那須資隆(太郎・須藤宗資の子、後に那須氏を名乗る)の十一男として誕生。10人目以降に生まれた子供は、
十に余るという事から「与一」と名付けられました。本名は、宗高。
幼少の折から弓が達者で修行を積みすぎたため、左右の腕の長さが違ったとも云われています。父を初めとして、9番目までの兄たちは皆「平家」に味方をしていましたが、奥州平泉にいた
源義経が、兄の頼朝に加勢するため、治承4年(1180年)戦勝祈願に「那須温泉神社」を参拝に訪れた際、那須岳で弓の稽古をしていた、兄十郎為隆と与一に源氏方に従軍させる約束を交わしたと
云われています。これが与一と義経の出会いで、その後の那須家一族の運命を左右する事になります。
義経と行動を共にした与一は、屋島の合戦の功労により、源頼朝より11番目の子でありながら、那須家総領の身分と5か所の領地を与えられました。平家に味方していた9人の兄と十朗には
那須の各地を分地して与え、それ以降は、那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていきました。
余談ですが、宮崎民謡「ひえつき節」で出てくる那須大八郎(宗久)は、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高(与一)の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ
平家残党の追討に向かい、元久2年(1205)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を
寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は
其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた
国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
和菓子の「小島屋」は、安政2年(1855)創業。「勘兵衛饅頭」が有名。幕末、大雨で箒川が氾濫し、足止めされた京都からの旅の男性を泊めると、お礼として菓子作りを教わりました。
この縁を機に大島勘平(おおしまかんべえ)が1855(安政2)年に創業し、売り出したのが大田原市佐久山名物の「勘兵衛饅頭(かんべえまんじゅう)」です。
書家の豊道春海もこの饅頭のファンだったそうです。
郵便局横の空き地が佐久山宿本陣跡です。井上家と村上家が勤めました。
跡地には、「村上英俊翁生誕之地」の碑があります。
フランス学者。下野国(栃木県)佐久山の本陣、村上松園の長子として生まれる。江戸で医学、蘭学(らんがく)を修め、信州松代(まつしろ)に移り、佐久間象山(しょうざん)の火薬製造が機縁で
フランス語を独修し、仏学事始の偉業を行う。江戸出府後、『三語便覧』三巻(1854)、『洋学捷径仏英訓弁』(1855)、『五方通語』(1857)、『仏語明要』(1864)、『明要附録』(1870)、『仏英独 三国会話』(1872)など辞書の編纂(へんさん)、ジャック・ルイ・ダニエルの『西洋史記』などの翻訳をし、レジオン・ドヌール勲章を授けられ、東京学士会院会員に選ばれた。
青山墓地に葬られる。(コトバンクより)
桝形の道を進むと「正浄寺」があります。ここの「糸桜」(枝垂れ桜)が綺麗です。
正浄寺は、鎌倉時代、健保2年(1214年)宗祖親鸞聖人が、東北御巡錫の折、佐久山宿箒川の川端の孫八宅に一宿しました。その際に聖人が孫八に阿弥陀如来の尊像を授与されました。
(川越の阿弥陀如来)その尊像を安置するために孫八が御堂を建立したのが正浄寺の起源であります。
箒川の岩井橋を渡ります。大田原宿はあと少しです。
続く
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