よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥州街道➂2日目「氏家宿~喜連川宿」(栃木県さくら市)

2022-04-13 05:07:20 | 奥州街道(奥州道中)

3/29(火)奥州街道(道中)2日目

宇都宮駅8:02の電車で昨日ゴールした氏家駅へ。今日は、「氏家宿~大田原宿」まで約30kmを予定しています。

【氏家宿~喜連川宿】

8:25氏家駅に到着。氏家駅前のポストには、さくら市の桜がデザインされています。

 

西導寺は、建久2年(1191)氏家(宇都宮)公頼の開基。公頼は、氏家氏の始祖。西導寺は氏家氏の菩提寺です。

  

西導寺の横には、「蔦(つた)地蔵

鎌倉期に宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京都・鎌倉に次ぐ一大地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の女は定家の長子為家に嫁いでいます。

頼綱は法然上人に帰依し蓮生法師と称しました。宇都宮氏の支族氏家公頼も浄土信仰をもち、定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を造立したと伝えられ、以来定家地蔵といわれるように

なったといいます。また、蔦のからまる場所を好んだという伝説と藤原定家と式子内親王の悲恋、定家葛伝説も混ざって蔦地蔵と言われるようにもなったといいます。

高さ1,36m、右手には錫杖、左手は摩尼宝珠を持っています。

  

寛方・タゴール平和公園 荒井寛方(1878~1945)はここに生まれ、日本画家を目指して巣立ちました。仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの

詩聖ダゴールの知遇を受け、日本画の教授として渡印しました。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の懸け橋となりました。

タゴールとはその後も親交がつづき、現在インドにおいて寛方とダゴールへの畏敬の念はますます深まっています。「仏画の寛方」と称された寛方は、晩年には法隆寺金堂壁画の模写にも

従事しました。無念にも完成直前に急死してしまいましたが、その業績は今なお燦然と輝いています。寛方の遺した膨大な資料、遺品とこの地は、故人となった子息の英朗氏と孫の聖也氏が

引継ぎ、寛方顕彰を果さんとしました。英朗氏夫人なみ子氏と子息の孝志氏はその遺志を守り、これらを氏家町に寄贈されました。氏家町は、このご意向を尊重し、寛方とタゴールの偉業を偲び、

二人の友情を永遠に記念するため、この地を公園としました。(さくら市観光ナビより引用)

 

街道に戻ります。上町の信号を右折。その昔、鬼怒川は氏家の中を流れていたそうです。五行川にかかる五行橋も鬼怒川水系だそうです。

 

桜野中の信号を過ぎると左手に大きな屋敷が立ち並んでいます。

村上家は、桜野村の庄屋を勤めました。門には、五十里(いかり)湖決壊による洪水の水位が残されています。

説明文が書かれていますが、文字がかすれて読むことができません。

ネットで五十里洪水を調べました。

天和3年(西暦1683年)9月1日、マグニチュード6.8の大地震が日光・藤原・南会津地方を襲った。昭和24年の今市大地震がマグニチュード6.4と記録にあるがそれと同規模以上のものと推測できる。

   これにより、日光御神領、西川村(現日光市栗山)の葛老山が崩壊し、流出した土砂が男鹿川をせき止めた。崩壊した土砂の量は、現在の地形から判断して約60万立方メートルと推測される。

さらに折からの降雨により男鹿川の水位はみるみる上昇し、五十里、西川地区に住む31軒の村人たちは、上の大地への避難を余儀なくされた。

  当時、会津西街道(国道121号)の交通も遮断され、通行人は山越えとなったが、駄馬の荷は山越えがかなわず、にわか仕立て筏で運搬した。

  土砂崩落後、90日間で村は湖底に沈み、湖は150日間で満水に湛えた。水深は、一番深いところで47メートルに達したといわれている。

西川、五十里村に住む人々は、天災の影響を受けて窮乏生活を余儀なくされた。また、下流地域に住む人々にとっても、万一崩壊した土砂が決壊した時のことを思うと、なみなみ湛えた湖水を

抜くことが切なる願望であったことは容易に想像できる。

  五十里湖の出現から24年を経て、会津藩が水抜き工事の着手に乗り出した。請負額は4,375両、当時としては破格の金額である。

 地元村人達の協力も得、工事が進められたが巨大な一枚岩盤に突き当たった。当時の工法では、岩盤の上でいもがらを燃やし、その後水をかけ岩盤を脆くして掘り進むような方法だったため、

思うようにはかどらず、ついに工事中止となった。

 この工事中止の責任を負い、会津藩士早川上粂之助と高木六左衛門という武士が割腹自殺を遂げた。葛老山崩落地点近くにある小高い丘、布坂山の頂上にこの藩士の墓と伝えられる小さな

祀られている。この伝説から布坂山は腹切山とも呼ばれている。

享保8年(西暦1723年)8月10日、五十里湖出現からちょうど40年度、その一帯が暴風雨に襲われ、五十里湖の水位が著しく上昇した。そして、ついに上昇する水圧に耐えかね、ダム状に堆積していた土砂が押し流された。世にいう五十里洪水である。洪水は下流地方を席巻し、下野国(栃木県)では未曾有の大災害となった。直下流の川治村、藤原村は全村壊滅的打撃を受け、

下流70ヶ村におよび12,000人(推定)もの人命や牛馬を飲みこんだといわれている。

 

 

村上家の隣には、瀧澤家住宅があります。

瀧澤家住宅は、さくら市の櫻野地区の旧奥州街道沿いにあります。通りに面して伝統的な塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、今なお旧家の面影を留め、明治期の重厚な雰囲気を良く

残しています。鐵竹堂は明治33(1900)年に、長屋門も同時期に建築されたとされ、蔵座敷は明治20(1887)年に建築された建物に明治天皇の行幸を機に望楼が増築されたといわれており、平成10年(1998年)に、建築遺産として歴史的な価値が認められ県指定文化財になりました。上質な材料と意匠が目立ち、近代和風建築の水準を知ることができる貴重な遺構です。(さくら市観光ナビより)

 

瀧澤家住宅を建築したのが、明治期の栃木県を代表する実業家であった瀧澤喜平治(弘化3(1846)年~大正5(1916)年)です。喜平治は、明治期の日本主力輸出品であった絹製品に着目し、

養蚕業に着手しました。養蚕業のほか、多くの会社・銀行の設立、経営にたずさわり実業家として大きな業績を残しました。喜平治は実業家として活躍する一方、

氏家地区に大きな貢献をしています。上野原の開墾を行い、養蚕技術を教える養蚕伝習所の開設と雇用を行いました。また、氏家小学校の広大な敷地や改築費の提供や、櫻野地区に医師を招いて

病院を開設しています。(さくら市観光ナビより)

 

 

 

村上家、瀧澤家のほかにもこの一帯には、大きな旧家があります。

 

狭間田一里塚 氏家地内には、堂原一里塚と狭間田一里塚がありましたが、堂原一里塚は明治以降消滅しました。

  

日本三大美肌の湯は、嬉野温泉(佐賀県)、斐乃上温泉(岐阜県)とこの喜連川温泉です。

台町の信号の所に大黒天が祀られていますが、工事中の為立ち入りできませんでした。

 

 

台町の信号から早乙女坂という上り坂になります。坂の途中、「早乙女坂古戦場」跡があります。

天文十八年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ

退散したといわれています。

 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で

最も重要な課題でした。このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされましたが、その中でも、天文十八年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に

射殺されるという大激戦でした。弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになりました。

 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示しています。

  

早乙女温泉があります。歩いていると硫黄の匂いがしてきます。残念ながら2月20日から機械の故障で休業中でした。

 

奥州街道古道 急な坂で長らく難所とされていた場所。1880年(明治13年)に迂回路ができ、使われなくなったが、旧道はそのまま残されています。

 

高塩背山の墓入口  代々喜連川神社の神職を務める家に生まれ。歌人を志し若山牧水と親交がありました。

 

 

勝善神の所から右折します。荒川沿いには桜並木があります。開花したらきれいでしょうね。

 

荒川に架かる連城橋を渡ると「喜連川(きつれがわ)宿」です。

喜連川という地名は、源平合戦で武功のあった塩谷氏、その後の足利氏と約800年にわたり中世から江戸時代まで続いた城下町宿場。町には荒川・内川・江川・岩川という四つの河川が南北を

貫流しているが「喜連川」という川はありません。この喜連川の地名の由来には諸説あり、その昔荒川が「狐川」と呼ばれていたのが変化したという説が有力だそうです。

昔 荒川の上流にキツネが住んでいたので荒川はキツネ川と呼ばれていましたが、キツネ川ではあまり格好良くないので、荒川・内川・江川が喜んで連なって流れているということで、

喜連川(キツレガワ)としたのではないかと言われています。

 

 

喜連川藩は、天正18年(1590)足利家の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が古河公方(足利尊氏の次男基氏を祖とする鎌倉公方系統)5代足利義氏の娘と足利義明(古河公方4代足利高基の実弟)の

孫国朝を婚姻させる事で足利家を再興、喜連川領3千5百石の領主にしました。国朝はこれを機に喜連川氏を称し周辺を支配、関が原の合戦では東西どちら側にも兵を出さず中立を保ちましたが、

戦後すぐさま徳川家に使者を送り戦勝祝いを行った事で領地が安堵されます。徳川家は江戸幕府を開く際、朝廷から"源氏長者"(幕府を開く為、作為的に家系図や出生地などを改ざん説がある。)を賜った事で源氏の一族である喜連川家は保護対象となり、1千石の加増の上10万石の格式が与えられ、1万石以下にも関わらず例外的に喜連川藩を立藩しました。

慶安元年(1648)派閥争いから藩主喜連川尊信が幽閉される"喜連川騒動"が起こりましたが改易にはならず12代に渡り喜連川氏が藩主を勤め明治維新を迎えています。

又、明治元年(1868)に藩主聡氏は足利姓に復してその後子爵に列せられています。

 

龍光寺は、足利尊氏の開基で喜連川氏の菩提寺。墓所には歴代藩主の墓があります。

  

町の中に入ります。

 

喜連川宿は、喜連川藩の陣屋町として発展しました。藩主の喜連川氏は、足利尊氏の流れを汲む「古河公方」の為、幕府はその格式を認め参勤を免除しました。

天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、喜連川宿の宿内家数は、290軒、うち、本陣1,脇本陣1,旅籠29軒で宿内人口は、1198人(男611人、女587人)でした。

喜連川宿本陣は、上野太郎平が勤め、問屋を兼ねました。現建物は、大正15年(1926)築の旧喜連川警察署です。

脇本陣は、現芳川屋で、永井家が勤めました。

 

 

 

福岡ではそんなになかったのですが、ここにきて私の花粉症が再発しました。ポケットティッシュがすぐなくなります。薬を持っていましたので休憩して飲みました。    (続く)

 


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