よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№21 「吉田宿~二川宿」(愛知県豊橋市)

2017-03-26 11:07:03 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3月11日からの「瀬戸内倉敷ツーデーマーチ」に参加しますが、ついでに東海道を歩こうと思い、3/8~9日と2日間東海道を歩いてきました。

6:08新幹線のぞみで新大阪へ。新大阪から豊橋までは、こだま。豊橋駅に着いたのが10:30になっていました。豊橋から路面電車で前回ゴール地「札ノ木」へ。ここからスタートします。

  

しばらく歩くと「曲尺手(かねんて)」という地名の所に来ました。

曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名同士が道中かち合わないようにする役割も持っていました。 江戸時代、格式の違う大名が擦れ違うときは

格式の低い大名が籠から降りて挨拶するしきたりでした。 しかし、主君を籠からおろすことは行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。 そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、

行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難しました。

東惣門跡

東惣門は、鍛治町の東側に位置する下モ町の吉田城惣門西で東海道に跨って南向きに建てられていました。門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり、門外の西側に

駒寄場十一間がありました。惣門は、朝六ツ(午前6時)から夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は、一般の通行は禁じられていました。

  

東惣門跡の所の歩道橋を渡ると「新町の常夜灯」があります。

案内板を見てみると、この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたものである。

以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれてきたが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。

この状況を憂えた常夜灯保存委員会により昭和55年豊橋公園内に復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。

「多米街道」の案内板があります。ここから多米を通って姫街道に出れます。

   

  

歩いていると瓦町に「寿泉禅寺」があります。寿泉禅寺は、臨済宗妙心寺派のお寺。石造りの楼門や三重塔が印象的でした。幼稚園も併設されています。

  

1号線殿田橋から左折。ここが飯村町。途中、岩西歩道橋の手前に「二川宿」の看板があったので進むと「岩屋観音」の方に出てきてしまいました。

どうも道を間違えたらしい。通りかかった人に聞き、街道に戻ります。

  

二川宿」に入ってきました。

 豊橋市二川町と大岩町は、江戸時代に東海道五十三次中33番目の宿場二川宿が置かれていました。二川宿は、二川宿と加宿大岩町からなっていて、町並の長さ12町16間(約1.3㎞)、

文政3年(1820)の記録では、本陣と脇本陣各1軒、旅籠30、家数合わせて306軒、人数1,289(男666、女623)人でした。

二川には、現在でも江戸時代の町割りがほぼそのままの状態で残り、東海道筋では滋賀県草津市の草津宿本陣田中家(国指定史跡)とここだけに現存する本陣の遺構があります。          

旧本陣のご当主馬場八平三氏は、昭和60年に全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、屋敷地を豊橋市に寄付されました。

市では、これをうけて同62年に二川宿本陣を市史跡に指定し、翌年から改修復原工事に着手し、同時に二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館を建設し、

二川宿本陣資料館として平成3年8月1日に開館いたしました。

また、本陣東に隣接する旅籠屋「清明屋」は平成12年に倉橋家より寄附され、同14年より改修復原工事に着手し、同17年4月29日より公開いたしました。これにより、大名の宿・本陣と庶民の宿・旅籠屋をセットで

見学できる施設となりました。あわせて資料館の増築、常設展の全面改装も行いました。

資料館では、「東海道」「二川宿」「本陣」という3つのテーマで常設展示を行い、随時特別なテーマに基づく企画展を開催しています。また、1階の体験コーナーには、浮世絵刷りや双六ゲームなどがあり、

江戸時代の旅を楽しく学ぶことができます。(二川宿資料館より)

400円の観覧券を購入し、中に入ってみます。常設展示には、「東海道」、「二川宿」、「本陣」の3つのテーマがあります。

今、お雛様のシーズン、館内にもお雛様が展示されていました。

  

向かいには、商家「駒屋」

  

商家「駒屋」、田村家は、元禄4年(1691年)に遠江国敷知郡中之郷村(現在の静岡県湖西市)から二川宿へ移り、初め医師を、後に米穀商・質屋を営みました。

明和7年(1770年)以降に、松音寺門前の瀬古町から新橋町の枡形北側の現在地に移転しました。 屋号は駒屋で、当主は善蔵(ぜんぞう)を世襲名としました。 代々二川宿内随一の有力者として、

宿役人や村役人を勤めました。
 
また、安政2年(1855年)には、幕府への献金によって苗字を名乗ることが許されました。 9代当主の善蔵苗政(みつまさ)(1830年~1891年)は、幹皋(かんこう)と号し、

家業や公務の傍ら、書、遠州流生け花、崋椿系南画、売茶流煎茶、俳諧など、多くの教養を身に付けた文化人としても活躍しました。
 
近代に入ると、10代当主の善蔵(邦三郎 1861年~1921年)は、二川郵便局長や渥美郡会議員などの公職にも就くとともに、 諸種の会社要職を歴任しました。11代当主の憲造(1889年~1953年)は、

薬学の道に進んで東京帝国大学教授・医学博士となり、 心臓注射液ビタカンファーを創製しました。

時間もかかりすぎたので次の宿場を目指します。

 

 

 

 

 

 


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