11/23~25 旅行会社の格安ツアーがあり、このツアーで途中になっていた京街道「光善寺~高麗橋」を歩きました。
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11/23(水)博多発7:54の「のぞみ」で大阪へ。ホテルに荷物を預け京阪電車で前回ゴールの枚方光善寺駅へ。
12:00 光善寺駅から前回ゴールした府道13号線に向かいます。空を見るといつ雨が降り出すかもしれません。(一応ポンチョと傘を用意しています)
淀川の河川道に来ました。ここから寝屋川迄河川道を歩きます。
「茨田堤の碑」
『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。
この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と
河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。
さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら
偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、
下流へ流れて行ってしまいました。
衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。
仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。
『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、
完成することができたのでしょう。
淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるようになったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として
語り継がれています。昭和49年(1974年)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に「茨田堤」と彫られ、その脇には
「まむたのつつみ」と添え書きされています。(寝屋川市HPより)
淀川新橋を越えると左側に大きな銀杏の木があります。27日の日曜日には、茨田イチョウ祭りがあるそうです。
そういえば、国道沿いにもイチョウ並木があります。
大イチョウの所には、「茨田(まった)樋之碑」があります。
明治38年(1905)に完成した茨田(まった)樋は、幹線水路が運用され始める昭和5年(1930)まで利用されました。この碑は、茨田樋を記念して跡地に建てられました。
現在は、遺構が整備され、茨田樋遺跡水辺公園として憩いの場所になっています。
尚、この辺りの地名は「点野(しめの)」といい、難解地名ですね。
鳥飼仁和寺大橋のガード下を通り国道1号線仁和寺交差点に出ます。
仁和寺というと京都の仁和寺(にんなじ)を思い起こしますが、ここ寝屋川市の仁和寺(にわじ)は、京都仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。
鎌倉時代初期に後鳥羽・後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺殿を管領(寺務を司る権利を所有)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職は室町院(暉子内親王)へ
寄進され、持明院統の所領になりました。
この時の『室町院御領目録』を見ると、仁和寺庄は上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後上下ニ庄として史料にあらわれます。
南北朝時代に入って、持明院統の花園上皇は暦応5年(1342年)に妙心寺を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。しかし、応永6年(1399年)大内義弘が
将軍足利義満に謀反(むほん)を起こし(応永の乱)、敗死した大内義弘と妙心寺の拙堂(せつどう)が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され、事実上の幕府御料所となり、
いわゆる「河内十七カ所」の一部となっていきました。(寝屋川市HPより)
佐太天満宮あたりが、寝屋川市と守口市の境界です。
佐太天満宮の祭神は菅原道真です。「佐太天神宮記」によると、現在当社がある場所は菅原道真の領地であり、道真が昌泰4年(901)の昌泰の変で失脚して大宰府に左遷されることに
なった際にこの地に立ち寄り、しばらく舟をつないで滞在していたが、出立に際して自身の木像と自画像を残したとされている。また、一説によると道真が当地に滞在したのは宇多上皇の
計らいにより無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったとされる。道真没後50年後の天歴年間に、
道真を慕う里人によって道真が残した木像をご神体として祠を建てたのが当社の始まりであるとする。(wikipediaより)
また、佐太は間宿(あいのしゅく)でもありました。江戸時代枚方宿と守口宿の間の休憩所としての「間宿・佐太」が幕府に認められ、宿泊は禁じられていましたが旅人の憩いの地として
賑わいました。
来迎寺(らいこうじ)は、融通念仏宗中興法明上人の弟子・実尊上人によって、正平2年(1347)佐太派の本山として守口市来迎町に建立されました。
本尊は天筆如来(阿弥陀・観音・勢至の三尊のみ影)です。同寺の独特の相続法により、300年余の中で住職が変わるたびに26回も所在地を移していましたが、
延宝6年(1678)に現在の佐太中町に移転し、現在に至ります。来迎寺に伝わる「絹本著色八幡曼荼羅図」は国指定重要文化財で、他に境内裏の「石造十三重塔」は大阪府指定有形文化財
です。また、寛保3年(1743)に寺に現れた女性の幽霊の足跡がついた座具もあり、お寺の法要に合わせて公開されています。後村上天皇の勅願所であり、今なお大方丈に「玉座」が
残されています。
※幽霊の足跡の詳細はこちら→ 江戸の幽霊、大阪まで歩いた? 守口の寺、功徳伝える足跡: 日本経済新聞 (nikkei.com)
來迎寺の横には、「佐太陣屋跡」があります。築城年代は定かではないが貞享年間(1684年〜1688年)に永井伊賀守直敬によって築かれたと云われる。摂津・河内における一万二千石の
所領を管理するための出張陣屋で、枚方の渚から佐太へ移し、明治に至るまで存続した。
永井直敬の家系は最終的に美濃国加納藩となった永井家で、直敬の父尚庸が二万石を分与され諸候に列したことに始まる。尚庸は奏者番、若年寄などを務め、寛文10年(1670年)には
三万石に加増された。
延宝5年(1677年)二代永井直敬が家督を継ぐと度重なる転封となる。貞享4年(1687年)下野国へ三万石で転封、元禄15年(1702年)には三千石を加増され播磨国赤穂へ三万三千石で転封、
宝永3年(1706年)信濃国飯山へ転封、宝永8年(1711年)武蔵国岩槻へ転封となる。宝暦6年(1756年)永井直陳のとき美濃国加納に転封となり、以後明治まで続いた。
15:30ごろ佐太陣屋を出た所から急に雷が鳴り始め、どこか避難する所を探します。ちょうど高架橋の下がありましたのでここに避難します。
雷は,何回も近くでゴロゴロ鳴っています。雨も降り始めました。
30分ぐらい待ち、雷も遠くなりましたのでポンチョと傘をさしてリスタートします。
鳥飼大橋には、一般道路と大坂モノレールが走っています。大阪モノレールは、門真市から大阪空港(伊丹)間21,2kmを結んでいます。
まだ16時過ぎなのに辺りが暗くなってきました。初めての地ですので暗くなったらわからなくなりますので帰路につきます。
17:00ちょうどに京阪守口市駅に到着しました。
スタート時にセットしていたGPSは、扱い方が悪かったのか、記録していませんでした。
※守口市のマンホールは、市のマスコット「もり吉」とサツキ、守口大根が描かれています。
素晴らしいです。我が家も ボチボチですが近場の紅葉を求めて ウオークを楽しめるようになりました。必ず夫の口から出る言葉、磐梯山 五色沼に勝るところはない 元気な時にあれほどの素晴らしい紅葉を見ることが出来たなんて そしてもう一つは京都の紅葉 なぜかよっくん夫妻 kumasan 竜飛岬までは もっと元気にを目指します。我が家は今は維新の道歩きです。
FBを見ていると、いろいろ歩かれていますね。僕らも元気なうちにと思って彼方此方歩き回っています。奥磐梯の紅葉は見事でしたね。また機会があれば行ってみたいです。