―小松が瀬とさかさ桑―〔只持・布里小松〕
長篠の戦で大敗した勝頼は、出沢の橋詰で、身代わりに、勝頼に扮した
笠井肥後守と、名代の武将馬場美濃守が壮絶な殿《しんがり》戦をしている間に、
急ぎ寒狭川を北上し只持小松まで辿り着いた。一万五千を誇った武田軍も、
残るは僅か十数名。梅雨時の雨で増水した寒狭川は板橋が流されて渡れない。
勝頼は家来に命じ、両岸の竹を曲げて束結い橋にして渡った。
渡って、布里小松、ここまで来れば一安心。小休止して飯を食う事にした。
家来が、近くの畑の桑を切って箸を作った。勝頼はその桑の箸で飯を食って
いる内に、戦を思い起こし、段々と腹が立ってきた。
『遺恨重なる織田信長、必ずこの地に立ち返り、家康諸共討取ってくれん』
勝頼は、怒りに髪を逆立たせ、手に持つ箸を地面に突き立てた。
(杖という説もある)
勝頼の執念が乗り移ったか、この時突き刺した桑の箸が根付いて芽が出たが、
逆さに刺されていたため、枝葉が下に向かって伸びた。
(この不思議な桑の木は、桑では珍しい二尺ほどの大木になり、
〔小松の逆さ桑〕と呼ばれ、近郷近在の評判になっていたが、明治のはじめ頃
に道路改修のため切られてしまった。只持小松の国道257号線沿いに現存する
ものは、今から50年ほど前に、加藤淳《すなお》さんという人が植えたそうで
ある。飯田線長篠城駅構内のものは、大正15年に医王寺の先住が植えたと
言われている。他に長篠城址の駐車場の横にもある)
その後、勝頼は追手を気にかけながら、布里栃沢を通り、田峯から段戸山を
越して信州へと落ち延びていった。
敗走して行った勝頼を哀れんで、後世の人たちは、
『勝頼や武田の武士の甲斐もなく
小松が瀬にて名をば流しの』
と詠いついでいる。
寒狭峡郷土研究会