2023年09月17日(日)
『山野歩』
<御在所岳>
<藤内小屋訪問>
[コースタイム]
◆[駐車場] 10:30 → [日向小屋] → 11:30 [藤内小屋] 13:30 → 14:30 [駐車場]
◆所要時間:4時間00分
<橋で脚が震える>
滑落事故を起こした、2013年9月14日以来、10年振りに御在所にやって来た。
それは、10年前の事故時に大変お世話になったという藤内小屋の訪問が主たる目的で、御在所岳に登ることが目的ではなかった。
仕事の関係で、最くんが来られなかったのは残念であったが、安部ちゃんが同行してくれたのは、ほんとうに嬉しいことであった。
なぜなら、滑落当時の様子を僕は殆ど覚えていないゆえ、小屋主の神谷さんに会っても、どのように話せばよいのか分からないので、
往路の車中で、安部ちゃんに色々と訊くこととなった。小屋主さんの名前が神谷さんであることを知ったのも、往路の車中であった。
僕が事故を起こしたのは、前尾根のクライミングを終え、テントへと戻る下山中で、しかも夕刻だったので、釣瓶落としの如く陽が落ちる秋ゆえ、
また、天候が悪化の方向へと向かっている中で、救援救助にかかわってくださった方々は、なかなか大変だったのだろうと思うのだが、
僕が覚えているのは、「歩けるか?」との声掛けがあったのと、タンカーに乗っているという瞬時の記憶のみで、次は、明くる日の病院中であった。
安部ちゃんによると、滑落する途中でバウンドして20㍍落ちて岩角で止まったそうだ。
それより下は滝だったらしく、そこよりも下方へと更に落ちると、命はなかったという。
僕が記憶している、「歩けるか?」と僕に声を掛けたのは、我々の近くで岩登りをしていた、名古屋の山岳会のメンバー3人のうちの一人であったという。
僕はその言葉に促されて、ロープで確保され歩いたそうだ。その場所からの脱出は、僕が歩かなければ不可能だったそうで、僕の肢体に骨折などの怪我がなかったのが、幸いしたようだ。
その後、救援救助に来てくださった神谷さんや、そのときに小屋におられた方々に助けられ、
中でも、ミムラさんという方が、ザックを上手く利用して、僕をおんぶして岩場を歩いてくださったそうなのだが、
残念ながらそのミムラさんは、6年前に病死しておられ、お会いすることができなかった。
藤内小屋では、救援救助にかかわってくださった、消防署職員さんや大勢の方々の為の炊き出しを行って頂いたそうなのだが、
9月14日は、神谷さんの誕生日だったそうで、その祝いの準備をしていたのだが、すべてがパーになってしまったと、神谷さんは笑われた。
半月お世話になった三重県立総合医療センターより、迎えに来てくれた義兄の車で我が家に帰ってから数ヶ月以上が経ったころに、
安部ちゃんから教えてもらった電話番号で、救援救助にかかわってくださった居村さんと、電話で言葉を交わす機会があった。
それは、僕の救援救助にかかった費用にかかわる請求書が届かないと、安部ちゃんから聞いたからであった。
そして、居村さんに電話を差し上げ、「山岳保険に加入しているので、救援救助に要した費用を請求してください」と申し上げたのだ。
事故後より今日まで、当時、救援救助にかかわってくださり、僕が名前を理解している唯一の方が居村さんであった。
居村さんも含めて、救援救助にかかわってくださった方々の氏名や住所を、安部ちゃんに教えてもらった上さんが、
手紙を添えて寸志を送ったりしたそうなのだが、上さんが、保険会社への申告も含め、それらのすべてを行ってくれ、
僕はそれらのことについて知らされることはなかったし、僕の体調からして、それらのことを自ら行うことは不可能なことでもあった,
今日の神谷さんの言葉の中に、丁寧な文面と筆遣いに感心しましたという、上さんの手紙にかかわる嬉しい話もあった。
藤内小屋へと向かう道に二つの橋が架かっている。
一つの橋は立派な橋へと変化していたのだが、もう一つの橋は改修工事中で、ボランティアの5人余りの方がかかわっておられたのだが、
手すりの無い幅が30㌢程で10㍍くらいの長さの木橋を渡るのが怖かった。
自分でも信じられないのだが、踏み外して落ちるのではないかという恐怖で、脚が震えるのだ。
脚が震え始めると、橋自体も震え始めるのだ。
僕の平衡感覚が鈍っているのかも知れないと、思わざるを得なかった。帰りも然り。
ところで、神谷さんとの話の中で、僕がお会いしたかった居村さんが、橋の改修工事をしている方々の中におられると聴いていたので、
橋を渡り終えたところで訊ねると、「体調不良で来ておられません」とのことで、至極残念であった。
『山野歩』
<御在所岳>
<藤内小屋訪問>
[コースタイム]
◆[駐車場] 10:30 → [日向小屋] → 11:30 [藤内小屋] 13:30 → 14:30 [駐車場]
◆所要時間:4時間00分
<橋で脚が震える>
滑落事故を起こした、2013年9月14日以来、10年振りに御在所にやって来た。
それは、10年前の事故時に大変お世話になったという藤内小屋の訪問が主たる目的で、御在所岳に登ることが目的ではなかった。
仕事の関係で、最くんが来られなかったのは残念であったが、安部ちゃんが同行してくれたのは、ほんとうに嬉しいことであった。
なぜなら、滑落当時の様子を僕は殆ど覚えていないゆえ、小屋主の神谷さんに会っても、どのように話せばよいのか分からないので、
往路の車中で、安部ちゃんに色々と訊くこととなった。小屋主さんの名前が神谷さんであることを知ったのも、往路の車中であった。
僕が事故を起こしたのは、前尾根のクライミングを終え、テントへと戻る下山中で、しかも夕刻だったので、釣瓶落としの如く陽が落ちる秋ゆえ、
また、天候が悪化の方向へと向かっている中で、救援救助にかかわってくださった方々は、なかなか大変だったのだろうと思うのだが、
僕が覚えているのは、「歩けるか?」との声掛けがあったのと、タンカーに乗っているという瞬時の記憶のみで、次は、明くる日の病院中であった。
安部ちゃんによると、滑落する途中でバウンドして20㍍落ちて岩角で止まったそうだ。
それより下は滝だったらしく、そこよりも下方へと更に落ちると、命はなかったという。
僕が記憶している、「歩けるか?」と僕に声を掛けたのは、我々の近くで岩登りをしていた、名古屋の山岳会のメンバー3人のうちの一人であったという。
僕はその言葉に促されて、ロープで確保され歩いたそうだ。その場所からの脱出は、僕が歩かなければ不可能だったそうで、僕の肢体に骨折などの怪我がなかったのが、幸いしたようだ。
その後、救援救助に来てくださった神谷さんや、そのときに小屋におられた方々に助けられ、
中でも、ミムラさんという方が、ザックを上手く利用して、僕をおんぶして岩場を歩いてくださったそうなのだが、
残念ながらそのミムラさんは、6年前に病死しておられ、お会いすることができなかった。
藤内小屋では、救援救助にかかわってくださった、消防署職員さんや大勢の方々の為の炊き出しを行って頂いたそうなのだが、
9月14日は、神谷さんの誕生日だったそうで、その祝いの準備をしていたのだが、すべてがパーになってしまったと、神谷さんは笑われた。
半月お世話になった三重県立総合医療センターより、迎えに来てくれた義兄の車で我が家に帰ってから数ヶ月以上が経ったころに、
安部ちゃんから教えてもらった電話番号で、救援救助にかかわってくださった居村さんと、電話で言葉を交わす機会があった。
それは、僕の救援救助にかかった費用にかかわる請求書が届かないと、安部ちゃんから聞いたからであった。
そして、居村さんに電話を差し上げ、「山岳保険に加入しているので、救援救助に要した費用を請求してください」と申し上げたのだ。
事故後より今日まで、当時、救援救助にかかわってくださり、僕が名前を理解している唯一の方が居村さんであった。
居村さんも含めて、救援救助にかかわってくださった方々の氏名や住所を、安部ちゃんに教えてもらった上さんが、
手紙を添えて寸志を送ったりしたそうなのだが、上さんが、保険会社への申告も含め、それらのすべてを行ってくれ、
僕はそれらのことについて知らされることはなかったし、僕の体調からして、それらのことを自ら行うことは不可能なことでもあった,
今日の神谷さんの言葉の中に、丁寧な文面と筆遣いに感心しましたという、上さんの手紙にかかわる嬉しい話もあった。
藤内小屋へと向かう道に二つの橋が架かっている。
一つの橋は立派な橋へと変化していたのだが、もう一つの橋は改修工事中で、ボランティアの5人余りの方がかかわっておられたのだが、
手すりの無い幅が30㌢程で10㍍くらいの長さの木橋を渡るのが怖かった。
自分でも信じられないのだが、踏み外して落ちるのではないかという恐怖で、脚が震えるのだ。
脚が震え始めると、橋自体も震え始めるのだ。
僕の平衡感覚が鈍っているのかも知れないと、思わざるを得なかった。帰りも然り。
ところで、神谷さんとの話の中で、僕がお会いしたかった居村さんが、橋の改修工事をしている方々の中におられると聴いていたので、
橋を渡り終えたところで訊ねると、「体調不良で来ておられません」とのことで、至極残念であった。