年末にゴルフクラブ設計家、フォーティーンの創立者竹林隆光君が都内の病院でなくなりました。
正月早々、ゴルフ場で初めて訃報を聞いて信じられませんでしたが、インターネットを見たら本当だとわかり驚きました。
彼は、大学卒業後、富岡市のヨコオに就職してゴルフクラブを作っていました。
すでに、27歳のときに日本オープンのベストアマということでアマチュアのトッププレイヤーでしたが、
同世代という事もあり、いつも静かにこやかな笑顔でゴルフの下手な私に接してくれました。
やがて、ヨコオがゴルフクラブから撤退したので彼は退職して自分でゴルフクラブを作り始めました。
最初は吉井町の道路傍の小さなプレハブ小屋で神場君と二人だけの手作り工房でした。
当時は、地元プレイヤーも少なくて私たちのゴルフ仲間が彼にクラブを作ってもらうことが多かったのですが、
当時はメーカーとしてはまだ無名でしたので、「フォーティーン」を使っていると珍しそうに見られていたものです。
藤岡ゴルフクラブでプレーをした後にいつも工房によっては何セットもクラブを注文したものです。
ですから、私は当時竹林君のつくったクラブをほとんど持っております。
その後、甘楽カントリーができて、私は最年少の創立メンバーでしたが、
「フォーティーン」のおかげでなんとか、シングルプレイヤーになれました。本当に楽しい時代でした。
「須賀チャン、腕は売ってないけど、クラブは作れるよ・・・・」なんて笑われながら、何セットも作ってもらいました。
やがて、メタルヘッドの時代が来てフォーティーンでも制作を開始することになりました。
本当は、一本一本顔の違うパーシモンのクラブのほうが好いのだけれど、時代の波には勝てません。
竹林君と神場君が最後に作った、本物のオイルハーディンのパーシモンのドライバー、スプーン、バフィーがいま私の手元にあります。
神場君が、「須賀さん、これがフォーティーンの最後のパーシモンですよ。」と届けてくれました。
本当に凄い、本物の手作りクラブです。
いずれも、バックメタルのないものです。
そして、ネックのホーゼル部分は絹糸で巻いてあります。
フェイスはペーパーインサートで、6本ビスのディープフェイス。なんとも素晴らしくて、
もったいなくて使えずに今でも眺めてはニコニコしています。
シャフトは、今では有名なシャフトメーカーである埼玉県秩父のグラファイトデザイン(ツアーAD)の当時のものです。
今となっては、私の「宝物」です。
彼は、私に「SUGA」と彫ったアイアンも作ってくれました。
長尺のドライバーを最初に作った時もテスト打ちで使わせていただきました。
下手な私が使っても大丈夫なら、市販しても大丈夫だろうというわけです。
おかげで、今でも47インチの長尺ドライバー、CT112を使用しています。
彼は、昔、私が経営していた焼き肉レストランによく来ては、カウンターで一緒にコーヒーを飲んでいました。
炒ったコーヒー豆を挽いて、片ネルの布を使って、熱した専用サイフォンを使って落とした手の込んだコーヒーを楽しんでいました。
今となっては、そんなときに彼と楽しく交わしていたゴルフ談義が夢のようです。
「慣性モーメント」に「中空理論」、そしてバックスピンのヒントなど、
その後のゴルフクラブの進化を先取りしていたと今でも感心します。
彼の創造的な感性は現在の私のソフトウェア開発にも大きな影響を与えてくれました。
やがて、彼が私の地元の知人の娘さんと再婚する際には田舎のことなのでお嫁さんの関係者が、
「須賀さんのゴルフ友達のようだけど、竹林さんって、どんな方ですか?」と聞きに来ました。
私は、「彼は本当に凄い人物で、私のゴルフの先生なんだよ。」なんて気楽に話していたけれど、
今となっては、誇れることでもあります。みんな懐かしい思い出です。
やがて、彼の「フォーティーン」は誰でも知る一流のゴルフクラブメーカーとなりましたが、
その後バブルが崩壊して私の事業が挫折した時、偶然彼とコンビニで遭遇。
「大丈夫、須賀チャンなら・・・」と笑顔で勇気づけてくれたっけ・・、
私の若いころの友人、「ラリーチームやまびこ」の今は亡き、加勢裕二君、(キャロッセ、クスコの創立者)
そして、ゴルフの竹林隆光君。
ともに今は亡き素晴らしき仲間です。
みんな、苦しい時期があったけど、本当によく頑張りました。
素晴らしい人生だったと思います。本当にいい思い出をありがとう。
私は、まだやり残したことがあるので、もう少し頑張ってみましょう。
今年も、竹林君のクラブで100Rぐらいはラウンドしたいものです。
そして、70歳を超えたら彼が為しえなかった「エイジシュート」を目指しましょう。
『フォーティーよ永遠に!』、 そして、竹林君、安らかに。
プロログを書いていて、涙が止まりません。