♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

西区三滝山:原爆慰霊句碑

2015年07月31日 08時38分15秒 | 原爆慰霊碑等
西区三滝寺に、原爆三十三回忌に因み1977年広島俳句協会によって建立された「原爆慰霊句碑」です。

碑文には、
科学技術の矛盾を痛感し原爆の惨禍を、慟哭する我々俳人の人類恒久平和への
悲願がこの句碑の建立となった・・・・
』とあり
三十三句が刻まれています。

  (編集頁には33句を紹介しています)
(広島俳句協会)原爆慰霊句碑

原爆関連慰霊碑・平和祈念碑等地域別画像一覧

7月31日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区中島町:原爆ドームのドーム部分は楕円形

2015年07月30日 08時20分09秒 | 被爆建造物等
(わたしは)2000年1月からデジカメで撮影しはじめました。
撮影をはじめた当初、ドーム部分が楕円形だということを知りませんでした。つまり円形だと思っていたのです。
資料の写真をみているときにドームが楕円形であったことに気がついたのは、しばらく経ってからでしたから観察力というものを備え付けていなかったのです。

広島市は毎年『国内ジャーナリスト研修「ヒロシマ講座」』を行っているそうで、
今(7月29日)回、その研修中に原爆ドーム内の見学があると云う事で、
わたしはジャーナリストではありませんが、原爆ドーム内の見学に参加させていただけることになり、撮影したのです。
上画像は、上部ドーム部分を見上げたところです。

瓦礫がころがる原爆ドーム内を
当時(1945年8月6日)この建物を使用していた、広島県地方木材統制株式会社職員、(内務省)中国四国土木出張所職員の方々30余名が一瞬のうちに亡くなったと聞くこの地を(よろよろと)歩きながら瓦礫をわたしは踏みつけていました。



(原爆ドーム)ドーム部分は楕円形

「原爆ドーム」編

7月30日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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西区三滝山:(大木茂)平和祈願碑

2015年07月29日 08時09分06秒 | 原爆慰霊碑等
西区三滝寺に1968年に建立されている「(大木茂)平和祈願碑」です。

































碑に刻まれた歌を読むと穏やかな歌で、被爆者である作者は穏やかな世の中を祈願して詠まれたのだろうと(わたしは)思いました。

(大木茂)平和祈願碑

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7月29日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(靄っています)



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中区中島町:原爆犠牲者慰霊献木菩提樹の碑

2015年07月28日 08時47分01秒 | 原爆慰霊碑等
中区中島町の平和記念公園の「原爆関連の慰霊碑など」からはじめたことしのこのブログ、
中区も終わり、西区を巡ろうとして見直していた処、
平和記念公園のこの「原爆犠牲者慰霊献木菩提樹の碑」を取りあげていませんでしたので、紹介順番は狂いましたが取りあげました。

碑文石をみると『原爆犠牲者の霊にこの菩提樹を捧ぐ』とあり、『浜田頓蔵 寄贈』とあり、1959年2月6日建立とわかりましたが、それ以上はわたしにはわかりません。

なお、お釈迦さまが悟りをひらいたという“ボダイジュ”は、印度ボダイジュで、ここで取り上げたボダイジュとは異種です。

原爆犠牲者慰霊献木菩提樹の碑

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7月28日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区吉島町:広島刑務所(原爆被爆犠牲者)鎮魂・碑

2015年07月27日 08時49分10秒 | 原爆慰霊碑等
中区吉島町の広島刑務所に1995年に建立された「(原爆被爆犠牲者)鎮魂・碑」です。

爆心地から≒2,000m前後に位置していた広島刑務所は、外塀に守られていたものの、建築物はほぼ全壊したそうです。
広島原爆戦災誌によると
『(職員):即死者2人、負傷者約100人。 (収容者):即死者14人、負傷者約500人。
原子爆弾の炸裂と同時に、窓ガラスは飛散、(木造建物が主でした)建物が倒壊した。その下敷きとなった職員や収容者が、あちこちで助けを求める悲鳴をあげ、負傷者が続出した。・・・・』とあります。

広島刑務所(原爆被爆犠牲者)鎮魂・碑

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7月27日(安芸区のわが家付近)天候:あめ

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中区吉島東:国有林野関係職員原爆慰霊碑

2015年07月26日 07時46分00秒 | 原爆慰霊碑等
中区吉島東の現在・広島森林管理署に建立されている「国有林野関係職員原爆慰霊碑」です。

もともとは、1976年国有林野関係職員の犠牲者22名を慰霊するため、中区基町にあった広島営林署構内に碑が建立されたそうです。
1989年庁舎の移転に伴い現在地に移設されています。

国有林野関係職員原爆慰霊碑

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7月26日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区吉島東:原爆死没ろう者を偲ぶ碑

2015年07月25日 07時37分23秒 | 原爆慰霊碑等
中区吉島東の現在・広島県立広島南特別支援学校(被爆当時:広島県立聾学校)に2003年に建立された「原爆死没ろう者を偲ぶ碑」です。

広島県聾学校は、爆心地から≒2,700mに位置しており、原爆で16人が犠牲となったそうです。
碑は「原爆死没ろう者を偲ぶ会」が中心となり建立されたそうです。
2007年に広島県立広島南特別支援学校に校名変更しています。

原爆死没ろう者を偲ぶ碑

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7月25日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区舟入幸町:(舟入公園)原爆地蔵尊

2015年07月24日 07時50分11秒 | 原爆慰霊碑等
中区舟入幸町の舟入公園に1960年に建立された「原爆地蔵尊」です。

被爆直後、このあたりで多数の原爆犠牲者を荼毘に付したそうで、
1954年(いまは舟入公園となっている)この場所に白鳩園という保育園が開設されました。
1960年原爆死没者の慰霊と園児の無事故を祈って当時の園長・三上早上さんが地蔵尊を建立されました。
白鳩園は1971年、神崎保育園と合併して廃園となり、跡地が公園に整備され、地蔵尊はそのまま残されました。
1980年北隣の舟入むつみ園の入所者・職員によりお堂や説明板などが整備された。毎年10月24日、同園と町内会の共催により「原爆地蔵祭」が行われているそうです。

(舟入公園)原爆地蔵尊

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7月24日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区舟入南:広島県立広島商業学校職員生徒慰霊碑

2015年07月23日 08時25分11秒 | 原爆慰霊碑等
中区舟入南の広島県立広島商業学校に1961年建立された「広島県立広島商業学校職員生徒慰霊碑」です。

広島県立広島商業学校では、
動員先の工場から、建物疎開作業に再動員されていた2年生45名が土橋付近(爆心地から≒800m)で、3年生45名が雑魚場町(現在・国泰寺町1丁目。爆心地から≒1,200m)で全滅しました。
1年生440人が疎開作業のため雑魚場町方面に行く予定で(当時皆実町にあった)学校に集合準備中だったので難を免れたそうです。

広島県立広島商業学校職員生徒慰霊碑

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7月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(雨模様)

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中区江波二本松:母子愛の碑

2015年07月22日 08時21分11秒 | 原爆慰霊碑等
中区江波二本松の江波山公園展望公園に1995年江波地区社会福祉協議会によって建立された「母子愛の碑」です。

碑文には、
『1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾は相生橋上空五百数十米において炸裂した。
一瞬にして街は阿鼻叫喚の巷と化した。
わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は一万人を突破した。一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折りからの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着して来た。
・・・(中略)・・・ 
これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。
更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を誠実に希求するその証として、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。
碑面は「平和希望」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授・曹崇恩先生であり、日中友好の掛け橋ともなればとの想いも含まれている。
願わくばこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。』とあります。

母子愛の碑

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7月22日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(雨模様)

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中区江波南:(江波小学校)平和の碑

2015年07月21日 08時06分03秒 | 原爆慰霊碑等
中区江波南の江波小学校に1983年(被爆38周年)に建立された「平和の碑」です。

被爆瓦を当初図書室に並べて平和学習の教材に使っていたそうですが、
その後瓦を効果的に利用しようとアンケートをとった結果、
原爆ドームをかたどった「平和の碑」を建立する事になり、児童らの手作りで完成し、1983年8月5日に除幕式が行われたそうです。

(江波小学校)平和の碑

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7月21日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(小雨)


昨(7月20日)日11時梅雨があけたと気象庁が発表したそうです。午後から(通り雨以上の)雨がありました。
今(7月21日)日朝から雨が降り、いまも霧雨。
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中区江波二本松:広島平和記念資料館・シュモーハウス

2015年07月20日 07時36分45秒 | 原爆慰霊碑等
中区江波二本松の「シュモーハウス」は広島平和記念資料館の附属展示施設です。

この建物は、1951年に集会所として建てられ、地域活動の拠点として活用されてきました。
2012年被爆後の広島に寄せられた海外からの支援を伝える、広島平和記念資料館の附属展示施設となりました。

米国人フロイド・シュモーさんが住まいを失った広島の人々のために建設した建物があります。
広島市は、その中で「シュモー会館」と呼ばれていた建物を移転・改修し、
被爆後の広島に寄せられた海外からの支援を紹介する施設「シュモーハウス」として、2012年11月1日に開館しました。館内では、シュモーさんの活動のほか、被爆直後の広島に大量の医薬品を届けたスイス人医師マルセル・ジュノー博士や、肉親を失った子どもたちへの援助運動を手掛けたノーマン・カズンズさんなど、被爆後の広島に寄せられた海外からのさまざまな支援を紹介しています。

広島平和記念資料館・シュモーハウス

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7月20日(安芸区のわが家付近)天候:(早朝あめ)はれ

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中区江波南:江波地区戦没者慰霊碑

2015年07月19日 09時29分09秒 | 原爆慰霊碑等
中区江波南の海宝寺に1983年再建された「(江波地区)戦没者慰霊碑」です。

当初、1957年3月に「江波地区町民慰霊碑」が建立されました。
1983年5月この「(江波地区)戦没者慰霊碑」に、江波遺族会によって再建されました。
江波地区の日中戦争から大東亜戦争までの戦没者と原爆犠牲者(319人。うち原爆犠牲者は動員学徒101人、軍人41人、国民義勇隊38人、軍属6人、挺身隊4人の190人)を慰霊するために建立されたそうです。

江波地区・戦没者慰霊碑

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7月19日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区江波東:江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊・塔婆

2015年07月18日 09時19分05秒 | 原爆慰霊碑等
中区江波東の(広島新四国八十八ヶ所霊場第七十六番)丸子山不動院に建立されている塔婆です。
「江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊」と記したプレートが付けられています。

江波地区は爆心地から近いところでは≒2600m、最も遠い地点は≒4800mだったこともあって、
地区内にいた人で即死した人はいなかったがそうですが、他の地区にいた町民が不幸にも死亡したことはあったそうです。

江波地区戦死者戦病死者並原爆死者之霊・塔婆

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7月18日(安芸区のわが家付近)天候:くもり、はれ

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中区千田町:ふりかえりの塔

2015年07月17日 08時43分05秒 | 原爆慰霊碑等
中区千田町の鷹野橋交差点南側に1977年に建立された「ふりかえりの塔」です。

この像の根際に碑文石があります。それには
ピカドーン 
くずれた家々は たき火のように
燃え拡がり はりの下敷きとなって 
あちらこちらで 助けを求める悲痛な
叫び 迫り来る火の海の前に 人の力は 
あせれど弱い 「逃げて早く逃げて…」と
叫ぶいとしい人の声もとだえた今 
後髪を引かれ 
     振り返ってはころび 
火の粉を浴びながら また 
     振り返る 偲い残り 
あの時 あの日を 
再び繰り返してはならない
』  とあります。

2001年にこの碑文をはじめて読んだ時、涙が目頭に溜まりこぼれおちました。
読むたびに、このような惨禍が起こるような世の中にしてはならないとわたしは思うのです。

ふりかえりの塔(千田一丁目原爆慰霊碑)

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7月17日(安芸区のわが家付近)天候:(雨模様)くもり

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