♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

中区:(加刻された)広島東洋カープ優勝記念碑

2016年12月30日 09時20分30秒 | 各種記念碑等
われらがカープは、2016年(25年ぶりの)優勝を果たしましたが、日本シリーズでは2勝4敗と日本ハムに敗れました。

セントラルリーグ優勝記念碑に、2016年10月30日に2016年の成績が刻まれたことをTVローカルニュースをみていて知りました。
また、11月5日にその除幕式に緒方監督、松井市長などが出席して執り行われたことを新聞報道で知りましたので、12月になりましたが撮影し、頁を更新しました。


ことしの栄冠は、すでに碑に刻まれ過去のものとなったことであり、
おごることなく
来季再び栄冠を、そして今年忘れた日本一へと突き進んでいただきたいと期待しています。

(裕編集の)広島東洋カープ優勝記念碑

12月30日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
12月31日(安芸区のわが家付近)天候:はれ(溜め水に氷はる)




これで、ことし最後の記事とさせていただきます。
くる年が、あなたにとって、良き年になることをお祈りいたします。
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東区:(改築された)騎兵第五連隊関連碑

2016年12月29日 09時51分08秒 | 軍都広島関連等
東区二葉の里に残されている「騎兵第五連隊関連碑」(忠節・碑、陣没軍人軍馬追悼之碑、騎兵第五聯隊跡・碑、愛馬よ眠れ・碑)です。

2014年になり以前の建立地が改築され(面積的に縮小されたようです)、
周りが二葉の里歴史散歩道として整備され、碑の回りも整備され、誰もがすぐに目にすることができるようになりましたので、ことしも撮影し頁を編集しました。


改築される前2007年に撮影。


*2005年末から広島駅裏の旧国鉄(現JR)の用地であったところが劇的に更地になって来たのです。
この碑があった場所は以前はわかりつらかったのですが、今は周りが二葉の里歴史の散歩道として整備され、誰もがすぐにわかるようになっています。

(裕編集の)改築された騎兵第五連隊関連跡碑

12月29日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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東区:(被爆建物)鶴羽根神社・手水舎

2016年12月28日 08時17分36秒 | 被爆建造物等
東区二葉の里に鎮座の鶴羽根神社(つるはねじんじゃ)の手水舎は、2014年11月に(広島市が)被爆建物として登録したことを知りましたので、撮影したのです。

1945年8月6日被爆時の名称も鶴羽根神社手水舎
爆心地から1,810mでした。



2004年以来鶴羽根神社を撮影していたわたしは、この手水舎を撮影していなかったかと、保存の画像を見ましたが、2008年社殿前から参道を撮影した画像に手水舎が写っていただけのようでしたので、
2016年になりましたが訪ね参拝した後、手水舎も後撮影し頁を編集しました。

(裕編集の)鶴羽根神社・手水舎

12月28日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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東区:二葉の里第三公園

2016年12月27日 09時01分41秒 | 公園・緑地等
東区二葉の里の“二葉の里土地区画整理事業”に伴って2014年設置された2号街区公園で「二葉の里第三公園」です。


現在は周りが再開発中ですが、将来はビル群の中の公園になるだろうとして計画されたのか、
遊具はなく、公衆便所もありません。
床面は(土ではなく)タイル貼が多くを占め、樹木が大きくなると木陰になるという計画なのかその両側にベンチ替わりになるボックスが島のように配置されています。

(裕編集の)二葉の里第三公園

12月27日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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番外:あなた知ってる?二葉あき子

2016年12月26日 09時25分16秒 | 各種記念碑等
東区二葉の里の“歴史の散歩道”に建立されている「二葉あき子歌碑」です。

歌手、二葉あき子(1915-2011)、本名は加藤芳江さん。
広島市大須賀町二葉出身から二葉を、そして安芸国からあき子と名付けたと聞きます。

この歌碑には、『夜のプラットホーム』の一番が刻まれています。
歌碑の横に再生機があり、歌声を聞くことができるのです。
♪♪「・・さよなら さよなら 君いつ帰る」の歌詞とメロディーを思い出される方もおられるでしょうね

わたしは、『フランチェスカの鐘』の
♪♪「・・・フランチェスカの鐘のおと チンカラカン*と 鳴り渡りゃ・・」
*正式にはチンカラカンでしたが、わたしはキンコロカンとくちずさんでいました。

両曲ともユーチューブで改めて見てみました。


碑の向側に広島高速5号線の高架斜路工事がみえます。


(裕編集の)二葉あき子歌碑

12月26日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(雨模様)

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東区:景友碑(串本康三碑)

2016年12月25日 07時59分39秒 | 各種記念碑等
東区二葉の里の明星院に建立されている「串本康三墓誌」です。
※本堂の横に建立されていましたが、2014年みると東側路地の方に移設されていました。

串本康三氏は、広島市会、県会議員に当選し、衆議院議員4回、勲四等に叙せられた人物で、
この墓誌の碑は、『・・・追慕の余り同志相謀り一碑を建立して功績を不朽に伝えんとするものです。』ということで建立されたようです。


移設前の2008年撮影した画像です。

碑の移設に伴って、“串本康三(くしもと こうぞう)”の説明板も設置されています。
その中に、『安芸郡海田の出身。生年不詳』とあります。
しかし、生年不詳ではなく、碑文を読めば「1863-1919」ということがわかります。

(裕編集の)景友碑(串本康三碑)

12月25日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:被爆したアオギリ2016年12月22日

2016年12月24日 12時05分49秒 | 被爆樹木たち
中区中島町の平和記念資料館東館の無料休憩所(室内からですが)でアオギリをみながら持ってきたおにぎりを食べ休みました。
両側のテーブルで休んでいたのは欧米からの観光客のようでした。
小雨になるときを待っていましたが上がらないな~と撮影に出ました。

ことしもアオギリ被爆二世の木にはまだ枯葉が散らずについていました。
親の被爆アオギリに比べやはり元気さが違うようでした。


(冬になると)被爆後に幹から枝が出たように思う処も目に留まります。


(裕編集の)(被爆した)アオギリ2016年

12月24日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:平和記念公園2016年12月22日

2016年12月23日 12時30分46秒 | 平和記念公園
22日12時半ころ。全般的には雨でしたが、小雨になるときがあり、時々強い風が吹きました。
広島赤十字病院での定期検診でしたのでその後立ち寄り撮影したのです。
今年最後になるであろう撮影でしたがあいにくの雨でした。
冬で、雨の日でしたので観光客も少ない平和記念公園広場でした。


平和記念資料館・東館と本館を繫ぐ空中歩廊の柱横から広場をみました

来年からは平和記念資料館本館の耐震工事が始まりますので、この位置からも定点撮影しようかなと思っているところです。

(裕編集の)平和記念公園広場の四季(2016年)

風が強い日で、帰宅後みたら冬養生しているシュロチクが2鉢ともひっくり返っていました。
テレビをみると、糸魚川での火災を報道していました。
家を失った方々にお見舞い申し上げます。

昔々になりましたが、(わたしの)高校生時代、少し離れた裏の家から出火してどんどんと延焼してきてわが家も焼失したことがあります。
住む処も何もかも無くなったその悲しさを思い出し、その後の周りの人の温かい心使いを思い出しています。

12月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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東区:(明星院建立)南濱香川先生碑

2016年12月22日 15時09分31秒 | 各種記念碑等
東区二葉の里の明星院に建立されている「香川南浜(かがわ なんぴん:1734-1792)先生碑」です。
※本堂の横に建立されていましたが、2014年みると東側路地の方に移設されていました。

南浜は、1781年広島藩の三十人扶持の儒官(儒者。折衷学者として)となりました。


本堂横に建立されていた2008年撮影

*碑の移設に伴って、“香川南浜”の説明板も設置されています。
設置の説明板には、著書として『・・・「毛詩十考」「左氏伝考」「史記辨解」「六経解義」「論語仁考」ほか二十巻以上にも及ぶ』とあり、参考にした資料にない記述がありました。当初頁を編集した時にわからなかった著書類でした。

他に、『寛政四年(1793年)五十九歳にて歿す。・・・』とあります。
しかし、寛政4年は1792年です。
わたしが参考にしている資料には上記のように(1734-1792)とありますのでそうしています。
(裕編集の)香川南浜先生碑

12月22日(安芸区のわが家付近)天候:あめ

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東区:(明星院建立)景友碑(串本康三碑)

2016年12月21日 12時57分45秒 | 各種記念碑等
東区二葉の里の明星院に建立されている「串本康三碑」です。
※本堂の横に建立されていましたが、2014年みると東側路地の方に移設されていました。

碑文を読めば、芸南奥海田(現在の安芸郡海田町)の人。
帝国議会の開設に力を尽した後、住居を広島に移して、市会、県会議員に当選しました。衆議院議員4回、勲四等に叙せられる。とあります。


本堂横に建立されていた2008年撮影

*碑の移設に伴って、“串本康三”の説明板も設置されています。
その中に、『安芸郡海田の出身。生年不詳』とあります。
生年不詳ではなく、碑文を読めば{「1863-1919」ということがわかります。

(裕編集の)景友碑(串本康三碑)

12月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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東区:(明星院建立)伴資健翁之碑

2016年12月21日 09時06分30秒 | 各種記念碑等
東区二葉の里の明星院に建立されている「伴資健(ばん すけゆき:1835-1913)翁之碑」です。

*本堂の横に建立されていましたが、2014年みると東側路地の方に移設されていました。
伴は、第二代、第四代、第五代広島市長を務めています。
その功績が碑文にあります。その中には、日清戦争後、上水道が軍用として敷設されましたが、民間にも利用できるように交渉、成功したそうです。


本堂横に建立されていた2005年当時撮影

*碑の移設に伴って、“伴 資健”の説明板も設置されています。
その中に、『天保四年(1834年)広島藩士の家に生まれる。・・・』とあります。
しかし、天保4年は1833年であり、1834年は天保5年です。
わたしが当初頁を編集するとき参考にした資料には上記のように1835(天保6)年とあり、そうしています。

(裕編集の)伴資健翁之碑

12月21日(安芸区のわが家付近)天候:もやが深く、くもり

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東区:(明星院建立)加藤種之助墓碑

2016年12月20日 08時54分48秒 | 各種記念碑等
東区二葉の里の明星院に(新たに整備)建立されている「加藤種之助墓碑」です。

※加藤友三郎(海軍元帥、首相)は、実弟(で、友三郎の父親代わりでした)。
本堂横に建立されていましたが、いままでは(わたしが編集していなかっただけですが)「加藤種之助墓碑」の碑文が読めなくていかなる人物かわからず、頁を編集できなかったのです。

移設され新しく整備され説明板が設置されていました。
新しい説明板で、この加藤種之助が総理大臣にもなった加藤友三郎の(年が離れた)兄だということがわかり撮影しました。

*設置の説明板には
『天保十四年(1844年)生まれる。』とありますが天保14年は1843年です。
また、歿年が『明治二十四年(1892年)四十八歳にて歿す。』となっていますが、明治24年は1891年です。
わたしが参考にした資料では、1844-1891とありますので、設置説明板とは違って頁を編集しました。

(裕編集の)加藤種之助墓碑

12月20日(安芸区のわが家付近)天候:(雨上がりのどんより)くもり

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安佐南区:四級基準点をはじめてみる

2016年12月19日 08時46分53秒 | 道標等
安佐南区上安で「安の目薬」碑を撮影したとき、
その地先の縁石をみるとここで取り上げた4級基準点が設置されていることに気が付き撮影しました。

基準点で、(わたしが)最初に気が付いたのが「1級基準点」の鋲で、これは国土交通省が埋込んだものでした。
次に(2級基準点ではなく)「3級基準点」をみたのです。

そして、ここで取り上げた「4級基準点」をみましたので、頁を編集しました。


散歩されるときなど、貴方も足元をみて設置された鋲をご覧になったら二級基準点があるかも・・・
(裕編集の)4級基準点

12月19日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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番外:わが家のヤツデの花終わり

2016年12月18日 11時12分03秒 | いまだ初心園芸
わが家の裏の通路に植えているヤツデ、先週は花盛りだったのです。

今日撮影しようと思ったらすでに花は終わっているようでした。

見上げるように育ったヤツデで撮影にはチトまずかったな~と、横着せずに2階の物干しから撮影すればよかったかな。

(過去のわが家の)ヤツデ

12月18日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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番外:わが家にボケの花咲く

2016年12月17日 09時42分47秒 | いまだ初心園芸
タイトルだけをみると「お前のことか、以前からだろう」と思われるかもしれませんね。

普通は春咲く木瓜なのですが、先日ひとつ花咲き勘違いしたなと思ったのです。
しかしそれでは終わらずに、ここの処数個の蕾が膨らんできて、
きょうはひとつ花咲いていました。


(過去のわが家の)木瓜

12月17日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
この冬初めて溜め水に氷が張っていました。

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