♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

番外:わが家の金木犀香りだす

2019年09月28日 16時57分04秒 | いまだ初心園芸
今朝からかおり出した山野辺のわが家の金木犀。

まだこれから開花していき香りも強くなってくるのでしょう。
2階物干しから撮影しました。


(わが家の)キンモクセイ

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東区:(福木村)戰役紀念・碑

2019年09月28日 08時12分59秒 | 軍都広島関連等
東区馬木の馬木八幡神社駐車場建立されている「(福木村)戰役紀念・碑」と「征清紀念碑」です。

*塔部分に刻まれた文字が消されているようで、刻まれた文字は(画像を拡大してみましたがわたしには)読めなかったのです。
*基台正面に「戰役紀念」と刻まれています。
その横に揮毫者である人物“安正書”は読めますが、身分、名字が消されて読めませんが。
※「福島安正」(1852-1919)最終階級陸軍大将。正四位、勲一等。だとわたしは推測しました。
福島は、1914年11月に帝国在郷軍人会副会長に就任した人物ということで、揮毫者になったのでしょう。

「広島の石碑:心と形」発行:広島市教育委員会によると
『建立年月日:大正6(1917)年10月
建立由来:大正3年9月1日より大正8年8月31日まで、馬木地区協議会会長として活躍された、河原徳造氏が主体となられて、馬木地区戸数約200戸の全戸から1名宛参加し・・・・』とあります。
1)広島市教育委員会の発行というものの現代の役職名に近い協議会という表現を用いるのは間違っているとわたしは思います。
(刻まれた文字を読み替えてはいけないとも思っていますから)。
×馬木地区協議会会長⇒福木村在郷軍人会馬木分会会長と思いますから。
2)塔に刻まれた文字に関してまったく触れていないのも気になります。
この「広島の石碑」を以前よりわたしは参照していますが、間違いも散見し、この碑の解説では在郷軍人会という表現を避けているのも気になりました。
(裕編集の)(福木村)戰役紀念・碑

9月28日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
わが家のキンモクセイ開花のようです。

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東区:馬木八幡神社

2019年09月27日 07時36分42秒 | 神社寺院等
東区馬木に鎮座している「馬木八幡神社」です。

『文明年中(1469-1487)の創祀と伝えられています。
毛利家に篤く尊崇され、天正15年二宮太郎衛門尉就辰(広島城築城の築城奉行)が社殿を改築したと云われています。・・・』


本殿:三間社流造り 屋根・銅板葺き

地図をみると、安楽寺の近くにこの馬木八幡神社が鎮座していることがわかり、参拝することを計画しました。
簡単な道だったはずなのに、参道石段前ではなく馬木八幡神社の社叢沿いに上った(社殿裏側の)ところにある駐車場広場についたので、長い石段を上ることもなく腰痛に悩まされているわたしには好都合な参拝になりました。
(裕編集の)馬木八幡神社

9月27日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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東区:(龍海山)安楽寺

2019年09月26日 08時19分33秒 | 神社寺院等
東区馬木に建てられている「龍海山 安樂寺」です。
※平成31年度広島新四国88ヶ所霊場の寺院入替で新しく第11番霊場になりました。
※浄土真宗本願寺派のお寺で本尊は阿弥陀如来。 

『1802年頃の火災により寺伝や縁起等が焼失しているので、詳しい記録は残っていないが、もとは真言宗の寺院であったと伝えられています。開基は不明。
1569年、高西により宗派を浄土真宗に改められた。・・・』そうです。


(裕編集の)(龍海山)安楽寺

わたしが生まれた東区牛田にも安楽寺があります。
こちらも浄土真宗本願寺派のお寺です。山号が寿永山です。
寿永山安楽寺は明治時代、牛田小学校の前身である賛成社があったと聞いていますので、
龍海山安楽寺にもあったのではと思っていると福木小学校の沿革に記述がありました。
こちらは聊頼舎だったようです。

9月26日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


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東区:(温品小学校)「森川家頌徳碑」と「雨ニモマケズ風ニモマケズ・碑」

2019年09月25日 08時02分33秒 | 各種記念碑等
東区温品の現在温品(ぬくしな)小学校校内に建立されている「森川家頌徳碑」と「雨ニモマケズ風ニモマケズ・碑です。
※「森川家頌徳碑」の碑文を読めば
『温品小学校は、明治18年現在地に移設し当時は敷地五畝(≒495.9㎡)、規模も三学級のものであった。
明治42年学校拡張にあたって森川伊三郎氏は耕地八畝四歩を譲渡
昭和6年第三次拡張にあたっては当主・(森川)為次郎氏更に一段一畝二十二歩(≒1,164.3㎡)の耕地を譲渡して学校発展に寄与した。・・・・』と温品小学校の発展に大きく寄与した森川家の人々を顕彰した碑です。

校内での撮影でしたので教頭先生に立ち会っていただきました(ので)。
碑に刻まれた文字がわたしには読めなかったので、教頭先生に教えていただきました。

「雨ニモマケズ風ニモマケズ」

子どもたちの勉強を励ますために建立されたのだろうと勝手に思いましたが。
(裕編集の)(温品小学校建立)森川家頌徳碑

9月25日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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東区:(温品村)戰捷紀念碑

2019年09月24日 07時38分36秒 | 軍都広島関連等
東区温品の現在温品(ぬくしな)小学校校内に建立されている「(温品村)戰捷紀念碑」です。
※この碑は、大正五年三月二十一日建立されました。
※題の揮毫者・田部正荘は、この碑の揮毫後、大正6年から大正10年まで広島市長を務めました。
*碑銘からも、そして広島市教育委員会設置の説明板からも戦争名が記述されていません。
広島市内で、戦役関連碑を少しばかり見てきたわたしは、日清戦役、北清事変、日露戦役の三戦役の勝利記念碑ではと思うのですが。


(裕編集の)(温品村)戰捷紀念碑

9月24日(安芸区のわが家付近)天候:くもり



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東区:(温品)八幡橋

2019年09月23日 08時29分57秒 | 橋梁
東区温品(ぬくしな)7丁目と温品8丁目を結び府中大川(温品川)に架かる「八幡橋(はちまんばし)」を取り上げました。
*この橋東詰先に行くと清水谷神社(旧称・清谷八幡宮)が鎮座している事から八幡橋と名付けられたのでしょう。
※橋脚がない1スパンの橋です。


この八幡橋西詰めに建立されている“(温品村)水害碑”を撮影に来た2019年でした。
その時、八幡橋をみると旧橋部分が狭いので、幅員が増設されてていることが見て取れましたので、この橋の頁も編集するかと撮影したのです。
(裕編集の)(温品)八幡橋

9月23日(安芸区のわが家付近)
天候:台風去って晴れてきたようです。

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東区:(温品村)水害碑

2019年09月22日 07時49分34秒 | 雑関連
東区温品(ぬくしな)の府中大川に架かる八幡橋西詰めに建立されている「水害碑」です。

1926年わが町(安芸区畑賀)に大洪水があったことを知り、2006年畑賀(はたか)小学校に建立されている水害碑をみて撮影し頁を編集しました。
隣町・安芸郡府中町にも同(1926)年の水害記念碑が建立されていることを2008年撮影して頁を編集していました。
これらの頁を編集していた時、
ここ東区温品にも同(1926)年の水害碑が建立されていることを知ったのですが、温品に立ち寄る機会がなかったのです。


ことしになり広島新四国88ヶ所霊場の寺院の入替があり、東区馬木の安楽寺が新しく霊場になったので、お参りし撮影するかと女房に車で連れて行ってもらうことにしたのです。
わが家から馬木に行く途中のここ温品の水害碑にも連れて行ってもらうことにして撮影しましたので、頁を編集しました。

(裕編集の)(温品村)水害碑

9月22日(安芸区のわが家付近)天候:あめ

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中区:被爆したアオギリ2019年9月19日

2019年09月21日 08時17分04秒 | 被爆樹木たち
9月19日晴れていました。
秋の修学旅行の季節になったのでしょうか、平和記念公園には多くの小学生が訪れていました。
特にここアオギリの回りの多くの小学生たちに圧倒されながら簡易椅子に座って、自販機で求めたポカリスエットを飲みました。


これから昼食になる学校の先生が子どもたちに注意事項を伝達していました。
その中で耳に残ったのは「ごみを残さないように、ここに来る新幹線の中にごみが3個残っていました。
そのようなことがないようここ平和記念公園では注意してください」とそこまで徹底しようとするこの学校の方針に教育の大切さを思ったわたしでした。

このアオギリの後側・民放の森の原爆遺構の試掘も取り上げています。
(裕編集の)被爆アオギリ2019年

9月21日(安芸区のわが家付近)天候:くもり



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中区:平和記念公園2019年9月19日

2019年09月20日 08時22分35秒 | 平和記念公園
昨(19)日12時を過ぎていました。天候は晴れていました。
秋の修学旅行の季節になったのでしょうか
平和記念公園には多くの小学生が訪れていました(観光バスも留まっていました)。

昼食中の子どもたちを平和記念公園のそこここでみました)。



秋めいてきましたが、日中はやはり暑い日でした。
(裕編集の)平和記念公園広場の四季(2019年)

8月23日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
夕方から台風の影響で雨?

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中区:澄川喜一作品 :TO THE SKY

2019年09月19日 07時47分02秒 | 野外彫刻等
中区加古町のアステールプラザ北西角に展示されている「TO THE SKY」です。
※作者は、澄川喜一(すみかわ きいち:1931-   )です。

「TO THE SKY」という作品各地に展示されているようです。

*アステールプラザは、
施設命名権を2,900万円で医療機器メーカーの(株)ジェイ・エム・エスが取得し2015年6月1日より2020年3月31日まで「JMSアステールプラザ」と呼称されています。
(裕編集の)澄川喜一作品 :TO THE SKY

9月19日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区:平和への道標(イヌクシュク)

2019年09月18日 07時37分40秒 | 野外彫刻等
中区加古町のアステールプラザ前の広場に建立れている「平和への道標(イヌクシュク) 」です。

イヌイットの人たちが造り出したモニュメントということは説明板でわかりました。
そこには
『・・・過去に一度も戦火を交えたことがない平和な民族であるイヌイットが環境保護を訴え、平和を希求するシンボルでもあります。・・・』とありました。

※エスキモーとはインディアンの言葉で「生肉を食べる人」の意味から、
イヌイットと自ら呼んでいる「人間」を意味するイヌイットと呼ばれることが一般的になっているようです。
(裕編集の)平和への道標(イヌクシュク)

9月18日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:(頼山陽史跡資料館)頼聿庵涼み台

2019年09月17日 08時22分30秒 | 雑関連
中区袋町の頼山陽居室前庭に残され展示されている「頼聿庵涼み台」(の石)です。
説明文には
『頼聿庵(らい いつあん)の涼み台
江戸時代、頼山陽の長男・聿庵が、潤筆料として贈られた畳一枚分の平石。
聿庵が涼み台として使用したと伝えられています。』とあります。
※聿庵は、(山陽の父)春水没後、山陽が脱藩しているので、頼家の家督をつぎここ杉ノ木小路の屋敷の主になりました

※また、(井戸は埋め戻されていますが)残されている「井戸側」です。

何度も見学しているここ頼山陽居室前庭でしたが、
2018年頼山陽史跡資料館の案内図に紹介があるここで取り上げた「聿庵涼み台」と云われる平石にいままで気付いていなかったのです。
(裕編集の)(頼山陽史跡資料館)頼聿庵涼み台

9月17日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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番外:わが家のパイナップル収穫

2019年09月16日 07時40分04秒 | Pineapple栽培
パイナップルが熟したことを示す香りが充満していた温室でした。
少し遅すぎたようでしたが、出してきて
昨(15)日、パイナップルの実を切り落としました。

タイルが目地込み10cmですので、ごくごく小さな実です。

実は10cmもありません、クラウンは≒20cm


食べるのがかわいそうなくらいなのです。

皮をそぎ落としたところです。


ラップにくるんで、冷蔵庫で冷やしましたので、今日食べる予定です。
三時のおやつとして先ほど食べました。
かおりほどパイナップルの味は濃くはありませんでしたがパイナップルそのものでした。(15:11追記)

パイナップル栽培、貴方もできますよ。
(わが家の)パイナップル栽培

9月16日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区:(頼山陽史跡資料館)文人庭

2019年09月15日 08時01分25秒 | 公園・緑地等
中区袋町の頼山陽史跡資料館に作庭されている「文人庭」です。
※頼山陽史跡資料館庭の作庭は、造園家・中根金作によるものです。

設置の説明板には
『・・・・頼山陽(らいさんよう)をはじめとした江戸時代の文人たちは、梅、竹、桐、芭蕉など、中国的な趣味に合う植物を取り入れた庭を楽しんだといわれています。
この庭園は、こうした「文人庭」を紹介するため方向性を準公共的な場で示した最初の例とされています。』とあります。


茶室坪庭


いままで、頼山陽史跡資料館の頁の中に中庭、茶庭画像を掲載していましたが、これでは中根金作作庭の文人庭の紹介になっていませんでした(ので)今回、4ヶ所の庭を紹介する頁を改めて編集しました。
(裕編集の)(頼山陽史跡資料館)文人庭

9月15日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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