♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

中区:平和記念公園2016年2月28日

2016年02月29日 18時58分08秒 | 平和記念公園
原爆死没者慰霊碑前から振返り通称・原爆資料館方向をみました

今月も冬で観光客自体は少ないように思いましたが、(アジア系の)外国語が飛び交うこともなく静かな平和記念公園広場でした。


通称・原爆資料館の耐震工事前の発掘作業も終盤を迎えているようでした。
(新年度からの耐震工事が始まるとこの角度からも平和記念公園広場を撮影できなくなりますから来月までですかね)

平和記念公園広場の四季2016年

広島ぶらり散歩「平和記念公園」編
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安芸郡海田町:(熊野神社)共立敬愛碑

2016年02月29日 09時00分52秒 | 各種記念碑等
安芸郡海田町上市の(海田市)熊野神社境内に入ってすぐの石燈籠後側に建立されている「共立敬愛碑」です。

もとは社号を熊野神宮と称していましたが、
1873年熊野神社と改称したもの社殿の改築などが必要な状態だったのでしょう。
共立講(113名)で以って、1879年11月から1885年4月にかけ社殿他参道、石垣、神輿蔵などを新しく造ったことを記した石碑で、碑文には、愛国、神を敬う心の欠如を若者に訴えているようでもあります。

(熊野神社)共立敬愛碑

2月28日(安芸区のわが家付近)天候:(雨上がりの)くもり



(海田市)熊野神社
(海田市)熊野神社大正、昭和御大典記念碑
(海田市)熊野神社 明治37・38年戦役記念碑
(海田市)熊野神社 紀元2600年記念樹碑
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安芸郡海田町:(熊野神社)紀元二千六百年記念樹・碑

2016年02月28日 08時53分03秒 | 各種記念碑等
安芸郡海田町上市の熊野神社に建立されている「紀元二千六百年記念樹」碑です。
現在、植樹されたという樹木は育っていれば大木になっているでしょうから、枯死したのではとおもいました。
石柱の後ろに二代目?が植樹されています。
建立者は海田市町となっています。

※明治5年に、神武天皇(大和の橿原宮で即位したという)即位の年(西暦紀元前660年)を皇紀元年としました。
昭和15(1940)年が「紀元2600年」にあたります。

(熊野神社)紀元2600年記念樹碑

2月28日(安芸区のわが家付近靄っています)天候:くもり



(海田市)熊野神社
(海田市)熊野神社大正、昭和御大典記念碑
(海田市)熊野神社明治37・38年戦役記念碑
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安芸郡海田町:(熊野神社)明治三十七、八年戰役紀念・碑

2016年02月27日 08時59分28秒 | 軍都広島関連等
安芸郡海田町上市の熊野神社に建立されている「明治三十七、八年戰役紀念・碑」碑で、6名のお名前が刻まれています。
記念碑の根際の石碑が昭和51年6月吉日と刻まれていますので、砲弾を載せて昭和51年に再建されたのだろうと(わたしは)思っているのですが。

※ご存知でしょうが
明治三十七、八年戰役は日露戦争のことです。

ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。
1905(明治38)年9月(米国東部の港湾都市)ポーツマスで講和条約を締結しました。
(賠償金を放棄した)講和内容の骨子
1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4.ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績で、1906年にノーベル平和賞を受賞。

(熊野神社)明治37・38年戦役記念碑

2月27日(安芸区のわが家付近)天候:はれ→くもり



(海田市)熊野神社
(海田市)熊野神社大正、昭和御大典記念碑
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中区:広島市役所本庁舎・原爆被災説明碑

2016年02月26日 18時51分49秒 | 被爆建造物等
中区国泰寺町の広島市役所電車通り側植込みの中に建立されている「広島市役所(旧)本庁舎・原爆被災説明碑」です。

2004年になって撮影して頁を編集しました。
2015年(被爆70年)久しぶりに「広島市公務員原爆慰霊碑」を訪ね頭を垂れた後、この原爆被災説明板の頁も更新しようと撮影しましたので、掲載画像も見直し、頁を再編集しました。

広島市役所本庁舎原爆被災説明板

*この旧広島市役所本庁舎の原爆被災説明板を見に行くとすれば、
現在の市役所前庭(に旧庁舎地階の一部分を残し資料館にしている)の「広島市役所旧庁舎資料展示室」も見学されたらと思うし、
前庭に建立されている「広島市公務員原爆慰霊碑」も知っていただきたいし、
被爆していまも生きている「被爆樹木・桜」も見ていただきたいと思うし、
芸術に触れてみようと思われれば、資料展示室の地上部分に展示の「柳原義達作品:道標・鳩」をご覧になるのもいいし、庁舎内玄関ホールには、流政之作品も展示してあります。

ここで紹介した「広島市役所本庁舎・原爆被災説明碑」だけをみておしまいではなく、
いろいろな記念碑などもみて、
市役所の屋上庭園から景観を遮る建物が多くなりましたが市内中心部をご覧になるのもいいのではとわたしは思い紹介しました。

広島市役所
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安芸郡海田町:(熊野神社)大正、昭和御大典記念碑

2016年02月26日 08時41分10秒 | 各種記念碑等
安芸郡海田町上市の熊野神社に建立されている「大正御大典記念植樹」碑と「昭和御大典記念」碑です。

大正御大典は、大正4年11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。
昭和御大典は、昭和3年11月10日に京都御所紫宸殿で行われました。

※2006年熊野神社を参拝した時も大正天皇、昭和天皇御大典記念の碑が並んだ処を撮影していましたが、頁を編集していませんでした。2015年参拝した時頁を編集しようと撮影しました。

(海田市)熊野神社大正、昭和御大典記念碑

2月26日(安芸区のわが家付近)天候:はれ



(海田市)熊野神社
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安芸郡海田町:新町荒神社

2016年02月25日 08時46分12秒 | 神社寺院等
安芸郡海田町の新町に胡神社と荒神社が境内に向き合って鎮座しています。
ここでは、荒神社を取り上げました。(下画像右側)


*海田町ガイドの会と新町荒神社奉賛会との説明板の神社由来に違いがありましました。
※平成15年設置の新町荒神社奉賛会の説明板には大きな間違いがあります。
 一つ目は、天分とありますが元号に天分はありませんので「天文」のタイピングミスだと思います。
 二つ目は、それにもまして大きな間違いだと思います。それは、
天文、天明、天保の三回の大火があり、文化11年この荒神社が鎮座して以来大火がないといっていますが、
文化11年は1814年で、天保期は1830-1844年であるので、
文化11年に鎮座してから大火があったことになり、記述自体に間違いがあります。
また、天文期(1532-1555)には(まだ海田市は寒村であったと思うので)江戸期のように発展した街並みではなかったはずで、そこでの大火という記述にもわたしは疑問を感じています。

(海田町)新町荒神社

2月25日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
(積雪ありで)山が白くなっています。溜め水に氷なし

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安芸郡海田町:新町胡神社

2016年02月24日 08時44分29秒 | 神社寺院等
安芸郡海田町の新町に胡神社と荒神社が境内に向き合って鎮座しています。
ここでは、胡神社を取り上げました。(下の画像で手前側)


*海田町ガイドの会と新町胡子神社奉賛会との説明板の神社由来に違いがありましました。
また、えびす神社表記にも違いがありました。
 (神社額には)胡神社となっていますが、奉賛会は胡子神社としています。
1987年の屋根改築寄附者板には新町胡神社と書いてありますので、わたしの頁では胡神社を採用しています。

(海田町)新町胡神社

2月24日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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安芸郡海田町:(稲荷町)火の見櫓

2016年02月23日 08時59分39秒 | 建物等
、詰所があります(火の見櫓を裏側から見ました)

安芸郡海田町の稲荷町にいまも設置されている「火の見櫓」です。
火の見櫓の前に胡子神社が鎮座しています。
胡子神社の創建が先で、大正時代になって(鉄骨造の)火の見櫓が建てられたのでしょう。
海田町の観光マップにも紹介されていましたので取り上げました。


以前は、半鐘ではなく警報を知らせるスピーカーが設置されていたようですが、
現在ではその役割(スピーカー)は、海田町役場屋上の鉄塔に設置されているスピーカーに渡しているようです。

海田町役場屋上の鉄塔(熊野神社から撮影)

火の見櫓自体が珍しい時代になってきたようですね。

(海田町)稲荷町・火の見櫓

2月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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安芸郡海田町:下市胡子神社

2016年02月22日 08時54分38秒 | 神社寺院等
安芸郡海田町稲荷町に鎮座する「(下市)胡子神社」です。
*恵比寿神社、恵比須神社と表記するえびす神社が多いと思いますが、
広島では、胡子神社、胡神社と表記するえびす神社も散見します。
ここ海田町稲荷町のえびす神社は胡子神社と表記しています。


胡子神社の後ろに火の見櫓・詰所が建てられていますので、海田町の観光マップでも紹介していますので今回取り上げました。

*昭和57年ふるさと広島に帰ってきたときから見ていた光景でしたので、いままで取り上げ撮影し頁を編集することもありませんでしたが、
海田町観光マップにも取り上げられていましたので撮影して頁を編集しました。

(海田町)下市胡子神社

2月22日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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安芸郡海田町:熊野神社

2016年02月21日 08時43分53秒 | 神社寺院等
安芸郡海田町上市に鎮座の「(海田市)熊野神社」です。
1026年に紀州熊野大社より勧請と伝えられています。
そのころはわが町を含めてここ海田町鼓浦も世能荘に属していました。


2015年久しぶりに熊野神社に建立の「海田町・戦没者原爆死没者慰霊塔」を訪ねたので、熊野神社も参拝したのです。
2006年参拝した時撮影した画像で編集していましたが、2015年撮影した画像を加え、編集頁を10年ぶりに更新しました。

(海田市)熊野神社

2月21日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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安芸区:「わが町(旧・瀬野川町)附近」編

2016年02月20日 09時16分04秒 | 旧瀬野川町附近
2003年からここで取り上げている広島ぶらり散歩「わが町附近」編を編集しだしました。
そのころは隣町(安芸郡海田町)も広島市と合併してわが安芸区の一員になるのだろうと思っていましたが、
その後海田町は単独町政を選択していますが、わが町附近と云うことでこの頁に加えています。

2015年(被爆70年)に海田町に建立の原爆関連の慰霊碑も久しぶりに訪れましたので、海田町の未撮影の石碑や神社などを撮影していました。
それらの頁を編集、更新してこのgooブログで紹介していこうと思っています。
(下の項目から編集頁を見てやってください)

「わが町(旧・瀬野川町)附近」編

2月20日(安芸区のわが家付近)天候:あめ

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番外:マツダミュージアム(その最終回)マツダRX-8ハイドロジェンRE

2016年02月19日 08時46分04秒 | 乗り物関連
マツダミュージアムは、見学時間が限られ係員の説明を聞きながらぞろぞろとついていく、
わたしにはチト苦手な見学方法なのです。
他にも時間があれば撮影したいものもあったのですが、今回の見学ではこれが最後の紹介です。

説明板に
『この「マツダRX-8ハイドロジェンRE」は、
これからの環境とクルマのあり方を提案する最新技術として「第37回東京モーターショー2003」に出展したコンセプトカーです。
・・・翌(2004)年には国土交通省大臣認定を受け、
世界で初めて水素とガソリンの2つの燃料が使用できる水素ロータリーエンジン車が公道試験走行を開始しました。』とあります。

※国交省大臣認可からすでに10余年経っても実用化には多くの課題が残っているのだろうと自動車に疎いわたしですが思っています。
まず、車の価格が高価すぎる(量産化で少しは下がるでしょうが)、燃料となる水素供給の施設・水素ステーションの建設など解決されなければならない問題が多くあるのでしょうね。
昨(2015)年1月新聞報道で知った「トヨタが燃料電池車の普及に向け、燃料電池関連の全特許を無償提供する。」というニュースを知りましたが、
マツダの水素ロータリー車とは方法は違っても水素を利用した自動車という大きなくくりで協力していくことが必要なのかとも思ったりしますが。

マツダRX-8ハイドロジェンRE

2月19日(安芸区のわが家付近)天候:はれ



マツダミュージアム(その1)・・・概説
マツダミュージアム(その2)・・・ホール・歴史展示
マツダミュージアム(その3)・・・マツダTCS型三輪トラック
マツダミュージアム(その4)・・・マツダT2000三輪トラック
マツダミュージアム(その5)・・・マツダファミリア800セダン
マツダミュージアム(その6)・・・マツダコスモスポーツ
マツダミュージアム(その7)・・・マツダ787B
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番外:マツダミュージアム(その7):マツダ787B

2016年02月18日 08時41分49秒 | 乗り物関連
この「マツダ787B」は、ル・マン24時間レースで総合優勝した車です。

説明板に
『・・・1991年ロータリーエンジンにとって記念すべき年になりました。
59回目を迎えたル・マン24時間レースで、854cc×4ローターのR26Bエンジンを搭載した「マツダ787B」が、日本車史上初の総合優勝を成し遂げたのです。
1974年のル・マン初参加以来13回目にして、挑み続けた夢が現実となった瞬間でした。』とあります。

※カーレースにも疎いわたしですが、マツダのル・マン優勝は知っているし、日本車(ロータリーエンジン)の優秀さを示す快挙で、うれしい出来事でした。

マツダ787B

2月18日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
溜め水に少し厚めの氷はる



マツダミュージアム(その1)・・・概説
マツダミュージアム(その2)・・・ホール・歴史展示
マツダミュージアム(その3)・・・マツダTCS型三輪トラック
マツダミュージアム(その4)・・・マツダT2000三輪トラック
マツダミュージアム(その5)・・・マツダファミリア800セダン
マツダミュージアム(その6)・・・マツダコスモスポーツ
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番外:マツダミュージアム(その6):マツダコスモスポーツ

2016年02月17日 08時44分44秒 | 乗り物関連
説明板に、
『コスモスポーツは、1967年5月に2シータークーペモデルとして発売されました。
コスモスポーツは、世界中の注目を集めて登場しました。
高速道路を利用した長距離ドライブも盛んとなり、自動車は人々の生活の場を広げるツールのひとつとなりました。』とありました。

※ロータリーエンジンは、それまでのピストンエンジンに比べ理論においてそのまま回転動力を出力することから優位性を証明されていると(わたしは)教わっていました。
ロータリーエンジン10A型搭載車であるこのコスモスポーツは記念すべき存在だったと思うのです。
石油危機を契機にガソリンをジャブジャブと使うロータリーエンジンの弱点からロータリーエンジンを搭載したマツダ車に突き進んでいたマツダの業績不振につながり、
2012年にはマツダからロータリーエンジン搭載車の生産が中止されることになりました。

マツダコスモスポーツ

2月17日(安芸区のわが家付近)天候:くもり



マツダミュージアム(その1)・・・概説
マツダミュージアム(その2)・・・ホール・歴史展示
マツダミュージアム(その3)・・・マツダTCS型三輪トラック
マツダミュージアム(その4)・・・マツダT2000三輪トラック
マツダミュージアム(その5)・・・マツダファミリア800セダン
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