♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

南区:(NTT西日本広島仁保ビル)外壁改修工事2022年7月

2022年08月31日 07時32分41秒 | 建物等
2022年7月15日仁保橋東詰歩道から撮影
広島バスセンターへのバスの中から見える構図に近いものです。


南区仁保に建っている“NTT西日本広島仁保ビル”で行われている「外壁改修工事」です。
今回は、7月と8月撮影しましたのでその更新です。


2022年8月13日国道2号から撮影


2022年6月24日撮影したとき外部足場位置と7月15日みた外部足場位置は変わっていないようでした。
そして、8月13日みたときも外部足場はそのままの位置でした。
改修工事工法は決まったと思った6月でしたが、再び2ヶ月ほど外からみる限り工事は進んでいないようでした。
足場内部では改修工事が行われているのでしょうが、難渋しているようです?

(裕編集の)(NTT西日本広島仁保ビル)外壁改修工事

8月31日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
27.5℃、78%


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昨日(30日)16:30 4回目のコロナワクチンを接種しました。
過去3回はファイザー製でしたが、広島市は現在モデルナしかないということで、
仕方なくモデルナ製でお願いしました。
問診の先生に、モデルナの副反応のことを尋ねると、熱が出るかもしれないとのこと。
随分心配しましたが、
現在まで、ファイザー製と同じ接種の腕が上がりつらいくらいで、特に顕著な副反応は無いようです。
今日中は注意しようと思っています。
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庄原市:(龍尾山密厳院)宝蔵寺

2022年08月30日 08時57分27秒 | 神社寺院等
広島県庄原市東本町に建てられている「龍尾山密厳院 宝蔵寺」です。
※真言宗御室派のお寺で、本尊は聖観世音菩薩です。

『当山は、龍尾山密厳院宝蔵寺と号し聖武天皇の天平5(733)年3月川北勝光山に行基菩薩(668-749)開基せられ、延暦(781-806)の末弘法大師(774-835)錫を留めて自ら真言の宗風を宣揚せられる。
・・・・・
寛永年中(1624-1644)柳原堂迫に移る。
正保2(1645)年8月当山末寺上野寺を合併し此の地に移り、いまに至る。』


資料を見て知っていたここ宝蔵寺の「原爆犠牲軍人の碑」を訪ねたのです。
境内に入り、山門に仁王像が安置されている大きな寺院だなと思いながら「原爆犠牲軍人の碑」を探しながら本堂の方に歩いて行くうちに左手にみたのが「原爆犠牲軍人の碑」でした。
その後、お寺の頁も編集しようと本堂前に行くと、いまどき鍵がかかりご本尊の前でお参りできないお寺も多い中、
ここ宝蔵寺は本堂に上がることができたので、息子とともにご本尊の前で手を合わせる事が出来ました。

(裕編集の)(龍尾山)宝蔵寺

8月30日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
28.2℃、69%

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庄原市:(宝蔵寺)原爆犠牲軍人の碑

2022年08月29日 08時15分39秒 | 原爆慰霊碑等
広島県庄原市東本町の宝蔵寺に建立されている「☆原爆犠牲軍人の碑」です。
※1953年5月11日碑建立時は比婆郡庄原町でした。
※1954年3月31日比婆郡庄原町+高村+本田村+敷信村+山内東村+山内西村+山内北村=庄原市が発足

『広島市に米軍が原爆を投下した1945(昭和20)年8月6日、
その2日後(8月8日)被爆負傷軍人約300人が庄原に輸送され、庄原国民学校(現・庄原小学校)に収容されました。
しかし、次々に84名が亡くなり、上野池の奥・論所という処で荼毘に付されそこに埋葬されたそうです。このことはいつしか忘れ去られようとしていました。
1951(昭和26)年の秋の終わりの頃、井上訓光(この碑の発案者)の夫人が論所で偶然大量の遺骨を発見しました。
翌(1953)年夏に地元有志により発掘され、遺骨は宝蔵寺境内にあらためて埋葬されました。
当時の大原博夫広島県知事の援助を得て、地元有志らでここ宝蔵寺に「原爆犠牲軍人の碑」を建立しました。』ということだそうです。


向側建物:忠魂堂    (碑裏面)


境内に入り、山門に仁王像が安置されている大きな寺院だなと思いながら「原爆犠牲軍人の碑」を探しながら本堂の方に歩いて行くうちに左手にみたのが「原爆犠牲軍人の碑」でしたので、頭を垂れた後撮影しました。
(裕編集の)(庄原市宝蔵寺)原爆犠牲軍人の碑

8月29日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
24.7℃、59%

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番外:わが家のナツメ実をつけ

2022年08月28日 08時21分44秒 | いまだ初心園芸
鉢で育てているわが家の棗です。
久しぶりに実を付けました。

これほど集団で実を付けたことは無かったので、
ことし、ひつこく受粉作業をした結果かなと思っている処です。


(わが家で育てている)ナツメ

8月28日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
涼しい朝をむかえました。25.8℃、62%

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番外:わが家の玄関も夏バテ?

2022年08月27日 08時28分14秒 | いまだ初心園芸
わが家の夏の玄関を飾ってくれているオリヅルラン、日々草、マリーゴールドたちです。

マリーゴールドは伸びすぎて花付きも悪いので、
切り戻してもう一度咲いてもらうかなと思っています。


よく云ったもので、処暑を過ぎて、あれだけ暑かったのが、
少しばかり涼しくなり、
夜は、秋の虫が鳴くようになった山野辺のわが家付近です。

8月27日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
27.3℃、73%

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中区:被爆アオギリ2022年8月24日

2022年08月26日 08時22分22秒 | 被爆樹木たち
種が目立たない(大きい方の)被爆アオギリ
種が目立つ(小さな方)被爆アオギリ    種はある被爆アオギリ二世


中区中島町の平和記念公園に移植されている「被爆アオギリ2022年版」です。
※1945(昭和20)年8月6日当時基町の広島逓信局中庭(爆心地≒1,300m)で被爆しました。

8月24日10時半過ぎで、くもっていました。
コロナ第七波のピークを迎えているようで、国などによる行動制限がないというものの、閑散とした平和記念公園で、ここアオギリの回りもわたしが撮影していた短い時間でしたが見学者は皆無と云っていい状況でした。
今月は、アオギリたちの種が目立っていました。
ただ、真ん中の大きな方の被爆アオギリは種が目立たず、弱ってきていなければいいな~と(余計な)心配をしました。


果皮に付いている種がわかるようにと撮影したつもりでしたが?
→を付けてみました。9:00追記


(裕編集の)被爆したアオギリ2022年

8月26日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
26.4℃、75%

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中区:平和記念公園2022年8月24日

2022年08月25日 09時24分34秒 | 平和記念公園
昨日(8月24日)10時半ころでした。くもっていました。(傘を手に持っていきました)
8月になってコロナ感染第七波のピークが来ているようで、過去最多の感染者になったとしばしば耳にするようになってきました。
今月は77回目の原爆忌をむかえましたが、わたしは感染拡大で巣籠り中心の生活でしたが、
平和記念公園での定点撮影は(国などによる行動制限がないというものの)、24日になりましたが、やっと撮影にやってきました。

みなさんコロナに気を付けておられるのでしょう、閑散とした平和記念公園でした。
ただ、いままでほとんど見なかった(広島在住の人か観光でやって来た人かはわかりませんが)西洋人を散見しました。


わが家の下のバス停から広島バスセンターまで行き、
平和記念公園だけの撮影で、
撮影後、帰りも広島バスセンターからわが家下のバス停で降り、スーパーで買い物をしてわが家に帰って来ました。
(裕編集の)平和記念公園広場の四季(2022年)

8月25日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
28.7℃、80%

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庄原市:(醫王山)浄光寺

2022年08月24日 07時23分55秒 | 神社寺院等
広島県庄原市の上原町に創建されている「医王山 浄光寺」です。

曹洞宗のお寺で、本尊は薬師如来です。


浄光寺へは「広島陸軍幼年学校生徒慰霊碑」を主目的に訪ねたのです。
お寺の駐車場から本堂前に行こうとした時、大型犬に吠えられ、その犬が思い切って走ってきたので小心者で目が悪いわたしは慌て慄きましたが、長い紐で繋がれていたのが見え(後から来ていた)息子は大丈夫とわたしに云ってきました。
帰りには鐘楼門をくぐり石段を下りて犬に合わないように駐車場に行きました。
お寺の頁は、庄原市東地区歴史マップに本尊などの情報(創建年代の記述はありません)が記載されていましたので、編集することにしました。

(裕編集の)(医王山)浄光寺

8月24日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.1℃、80%

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庄原市:広島陸軍幼年学校生徒慰霊碑

2022年08月23日 07時45分02秒 | 原爆慰霊碑等
庄原市上原町の浄光寺に建立されている「廣島陸軍幼年學校生徒慰霊碑」です。

※『1945(昭和20)年6月上旬ここ庄原地区に学童疎開してきた幼年学校生のうち三名が(広島市に帰省中などで)被爆し死亡したことを知った〔1954(昭和29)年庄原市になった〕市民の世話でここ浄光寺に木製の墓標が建立され故・古川英章師により管理されていました。
被爆30周年・1975(昭和50)年に同期生により木碑が再建されましたがこれも朽ち、
1985(昭和60)年碑文を刻んだ石碑と表題石碑が建立された。』そうです。



庄原市山内町の「(庄原市)原爆犠牲者之碑」を訪ね、
次に訪ねたのがここ浄光寺の「広島幼年学校生徒慰霊碑」でした。
お寺の駐車場から本堂前に行こうとした時、大型犬に吠えられ、その犬が思い切って走ってきたので小心者で目が悪いわたしは慌て慄きましたが、長い紐で繋がれていたのが見え(後から来ていた)息子は大丈夫とわたしに云ってきました。
それにしても泥棒よけにはなるが一般人には何とも物騒な事かと思ったのです。
本堂前で手を合わせ、目的の碑は何処だろうと本堂周りから探しました。
本堂左手の少し下がった処(墓苑)で息子が「広島幼年学校生徒慰霊碑」を見つけて声をかけてくれたので、わたしも下りていき、並んで頭を垂れたのでした。

(裕編集の)(庄原市浄光寺)広島陸軍幼年学校生徒慰霊碑

8月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.8℃、87%

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庄原市:(庄原市)原爆犠牲者之碑

2022年08月22日 08時14分50秒 | 原爆慰霊碑等
庄原市山内町の山内記念農村公園に、建立されている「(庄原市)原爆犠牲者之碑」です。
※『1945(昭和20)年8月6日午前8時15分に米軍により投下された原子爆弾、
その3日後の8月9日広島陸軍病院から270名の被爆負傷者が列車で(芸備線:単線非電化)山ノ内駅に送られてきたそうです。
(山内西村立)山内西国民学校(現在・庄原市立山内小学校)を臨時病院にして収容しましたが、輸送中死亡の6名を含めて88名が息を引き取り、
(現在原爆犠牲者之碑が建立されている地で)荼毘に付されました。
犠牲者は、陸軍看護婦、陸軍軍属、陸軍予備兵、陸軍衛生兵、陸軍・一等兵から少尉の軍人、などであったそうです。』



今年8月原爆忌に、この地で山内地区社会福祉協議会が主催する原爆犠牲者慰霊祭があったとの中國新聞記事をみました。
わたしが参考にしている資料で、「原爆犠牲者之碑」が建立されていることは知っていましたが、わが家からは遠く足の問題で訪ねることは無かったのです。
盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、
庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
ここで取り上げた「原爆犠牲者之碑」に関しては中國新聞では建立場所が山内小学校近くとしか記述がなく、
参考資料には葛城山山麓とあるだけで明確な場所がわからなかったので、庄原市役所にTELして尋ねたのです。
庄原市役所総務課職員の方にグーグルマップを見ながら教えていただいたのです。
グーグルマップの有効性を改めで感謝した次第です(編集頁の中にマップを付けました)。

(裕編集の)(庄原市)原爆犠牲者之碑

8月22日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.3℃、87%

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安芸区:(西日本豪雨)河島橋災害復旧工事

2022年08月11日 07時49分10秒 | 旧瀬野川町附近
2021年12月19日撮影


新しい河島橋の頁を先に編集しましたので、
この復旧工事の頁が後回しになりました。
2020年11月22日から3回分を編集していましたが、

今回、2021年12月と2022年4月の2回分を足して頁を更新し、完了としました。

2022年4月17日撮影


わが家からは一番遠く撮影するための足の問題で、頻繁に撮影できていませんが、
橋の工法的には、既に完成している塚地橋と同じですので橋本体の工事は推測できるのではと思います。
(裕編集の)河島橋・西日本豪雨災害からの復旧工事

8月11日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.7℃、81%



20余年妻の足となり、この河島橋撮影にも妻の運転で付き合ってくれたホンダの軽です。
ことし4月撮影時には息子が運転してくれましたが、
車検も切れるということで、現在は廃車になっていますが、妻との思い出で掲載しました。
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瀬野川:(新しく架橋の)河島橋

2022年08月10日 07時55分45秒 | 旧瀬野川町附近
2018年7月6日西日本豪雨でわが町を流れる瀬野川で、四つの橋が倒壊したり流失したりしました。
四つの橋で、まだ災害復旧で、完成していなかった新しい河島橋。
*〔私見〕一日中多くの交通量がある国道2号根際で、橋台の現場打ち杭などがある架替工事だったからでしょう長い工期がかかったようです。

先日(2022年7月30日)見に行ったときに既に開通していました。
西日本豪雨後四年にして四橋が開通したのです。

安芸区上瀬野町の瀬野川に新しく架橋された「河島橋」です。
※旧河島橋は、2径間のコンクリート橋でしたが、2018年7月6日西日本豪雨で橋台を残し完全に流失しました。

※新しく1径間のプレビーム合成桁橋として新しく架橋され2022年7月末には開通していました。
〔竣工板には令和4(2022)年8月となっていますのでそれよりも早く開通していました。〕

今回一番の驚きは、
ここ旧河島橋を2006年撮影以来、“かわしまはし”と思ってそう呼んでいましたが、
新しく橋銘板が取り付けられておりそれには「こうしまはし」とあり、十数年間違った橋名で呼んでいたことが分かったことでした。
そして、撮影にも付き合ってくれていた仏壇の妻にも報告したのです。

(裕編集の)(新設された)河島橋

8月10日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
29.8℃、75%

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中区:(桐原容器工業所)被爆煉瓦壁のモニュメント

2022年08月09日 07時29分55秒 | 被爆建造物等
中区舟入南の(株)桐原容器工業所にモニュメントとして残されている「被爆したレンガ壁」の一部です。

『爆心地から約2,460m
このレンガ壁は、1900年より前に建設された建物内で、戦前、樽用木材の乾燥室の外壁として使用していたものです。
被爆時、この倉庫を含む工場の屋根は吹き飛ばされましたが、レンガ壁は爆風に耐え、2013(平成25)年の新工場建設時まで姿を残していました。』


ここ桐原容器工業所へは2008年4月でしたか、まだ建物の壁として残っていた時で、
会社入口に居られた社員の方に見学と撮影をお願いしたのですが、
『あなたは何処かの平和活動している会の人ですか?』と尋ねられたので、「わたしは、単なる広島市民で平和活動家ではないです。」と答えたら、見学・撮影(の案内)は出来ませんと断れたことがあったのです。
“被爆した壁を撮影できなかった”そのような残念な思い出を拭い去ることができないまま、
今年(2022年)になってモニュメントになったこの被爆壁の一部を撮影し頁を編集したのです。
(裕編集の)(桐原容器工業所)被爆煉瓦のモニュメント

8月9日長崎原爆忌
(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.9℃、81%

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南区:(明泉寺の)被爆した山門

2022年08月08日 07時44分31秒 | 被爆建造物等
南区段原に建てられている「(明泉寺の)被爆山門」を取り上げました。

『爆心地から1,900m
この山門は、再開発により当時の場所から約15m南に移動していますが、
昭和20(1945)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。』


コロナ禍の2021年7月段原地区に来ましたのでこの山門も撮影しました。
2006年には設置されていなかったが、
2008年には(広島市によって)設置されていた被爆建物標識も撮影しましたのでいまになりましたが掲載(上記)しました。
(裕編集の)明泉寺

8月8日(安芸区のわが家付近)天候:くもり、はれ
28.8℃、81%

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南区:(鶴見橋東詰)被爆樹木・シダレヤナギ

2022年08月07日 07時22分22秒 | 被爆樹木たち
南区比治山本町の鶴見橋東詰北側にある「被爆したシダレヤナギ」です。
※この付近にあった古い鶴見橋のたもとで1945(昭和20)年8月6日被爆しました。爆心地から≒1,700m。
1990(平成2)年現在の鶴見橋架橋時、今のところへ移植されました。
上部を失ったため、頭を下げたような形になっている(親)幹は治療のかいなく、2008(平成20)年枯死しましたが。
現在は(ひこばえの)新しい幹が成長し、大きく枝を広げています。


(裕編集の)(鶴見橋)被爆樹木・シダレヤナギ

8月7日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
28.2℃、84%

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