座敷ネズミの吉祥寺だより

吉祥寺って、ラッキーでハッピーなお寺ってこと?
中瀬の吉祥寺のあれこれをおしゃべり。

6月の仏遊会

2018-05-31 | 仏遊会
6月の仏遊会は、2日(土曜日)の午後7時30分からです。

テーマは、「山家会(伝教大師お命日法要)」と
「天台宗 基本中の基本」です。

*********************************

仏遊会には どなたでも 参加していただけます。

どなたでも、どうぞ お越しください。

午後7時30分までに 客殿の大玄関からお入りください。

今月は まず 本堂で伝教大師和讃を唱えます。

次に 客殿に戻って 「子ども聖典」を読んだりします。

お待ちしています。


          

150年

2018-05-31 | おしゃべり
明治維新150年だそうです。

大政奉還は、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に
江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が 政権返上を明治天皇に奏上し、

翌日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。
ウィキペディア 大政奉還

五箇条の御誓文の公布が 1868年(慶応4年3月14日)、

明治改元に当たるのは 1868年10月23日(明治元年 旧9月8日)。



ドラマ『西郷どん』の薩摩は にぎわっていることでしょう。

今月25日、鹿児島市内では 
鹿児島県主催の「明治150年記念式典」が行われて、
秋篠宮ご夫妻が出席されたそうです。





会津では、「戊辰戦争150年」と呼んでいるそうです。

BSの民放各局で 「A I Z U」という番組が作られています。

ところが変われば 呼び方も変わるみたいです。

この番組 「A I Z U-目覚めよ義の心-」は、
BS朝日の「大義編」と BS日テレの「道義編」は終了し、

6月2日(土曜日)午後7時30分 BSフジ「信義編」、

6月3日(日曜日)正午 BS TBS 「忠義編」

が放送予定です。

風景は美しいけれど、
不要な ガイジン受け狙いのような映像が挟まれます。

参照:福島民報 会津藩士の番組完成





29日の読売新聞夕刊で 
海外移住資料館という所が 紹介されていました。

明治維新とともに 
日本人の海外移住が 本格的に始まり、
それから150年 経ったのだそうです。

最初の移住先は ハワイや アメリカ西海岸で、
本国への送金は 貴重な外貨だったとか。

南米への移住を後押しする政策も
どんどん盛んになっていきました。

苦労を重ねた人達は
国内に止まらなかった事を
日本人として 知っておくべきかと思います。





明治維新や戊辰戦争から150年なら、
神仏分離令からも150年でしょう。

神仏分離令(神仏判然令)は、
1868年4月5日(慶応4年3月13日)から
1868年12月1日(明治元年10月18日)
までに出された 太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など
一連の通達の総称)だそうで、

神仏分離というのは、これに基づいて
全国的に公的に行われたものだそうです。

ウィキペディア 神仏分離


それまでの日本は、
「ここからここまでは仏教、
 ここからそこまで神道、
 そこから先は自然崇拝」
などという区切りが判然としない宗教でした。

神仏習合」などと呼ばれています。

千年単位で深層に刻み込まれていた宗教を
無理やり 分けてしまったのが明治新政府でした。

ところが、クッキリ分けて 廃仏毀釈まで行ってしまったのに、
判然としないままの部分が
残ってしまっているのが 日本人の宗教です。

すごく面白いと思います。





昨夜、NHK(あ、またNHKの事書いてる!)の
「歴史秘話ヒストリア」で、

「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」
というタイトルで
神仏習合に関する番組を放送したようです。

この番組は 知っている内容については 物足りないけれど、
良く知らない事は 分かりやすく放送してくれるので、
見るつもりでした。

なのに、チャンネルを合わせるのを すっかり忘れていました!

残念!

オンデマンドで見るか?

いや、6月2日(土曜日)、
午前10時5分(~50分)の再放送を見よう。

忘れない事は不得意だけど、忘れないようにしよう。


        

西郷どん

2018-05-31 | おしゃべり
私たちの名字の「」の字は 旧漢字です。

その「」の、書き順の最後、横に三本の線を引きますが、
昔は「」ではなく、「」でした。

何十年も前に 初めて見た住職の実家の戸籍は、手書きで、
」ではなく、「」でした。

戸籍を活字化した頃に
いつの間にか変わってしまった、
と義父が言っていました。

憤慨していた、という程では ありませんでしたが、
残念そうに見えました。



こんな事を思い出したのは、
大河ドラマ「西郷どん」で、
愛加那の伯父、柄本明さん演じる 龍佐民 の
」の字が、
書き順の最後の部分、横に三本の線を書くところを、
カタカナの「」のように書いているのに
気が付いたからです。

出演者と役柄を表す 画面の中の小さな文字、
気づいたのは最近です。





これまでは 奄美大島のおおらかで豊かな美しい自然の中での映像で、

それまでとは 違うドラマになったみたいでしたね。

言葉も独特で。

俳優には 方言を指導してしゃべらせておいて、
聞いても何を言っているかわからないだろうから、
わざわざ字幕を流して それを読ませる。

」の字も 「」と書く。

こだわっているなぁ! と思いました。



でも NHKのホームページを見ると、
普通の「」なんです。

こだわりは ここには及ばなかったみたいです。



これから どんどん
島津久光が魅力を増していくのかしら。

なんだか、演じている俳優の 青木崇高さんも 
どんどんカッコ良く見えてきてます(笑)。

島津家は、斉彬だけではなかったんですよね!





子供の頃には 途中で飽きて
見続けられなかった大河ドラマも、
辛抱強く(?)見られるようになったし、

知識の断片が繋がってくると
より面白く感じるようになって、とても楽しめます。



河田菜風翁碑 おまけ

2018-05-28 | 菜風さん
ついでに、
散らして書いた「河田菜風翁碑」の注釈などを
まとめておきます。


考(コウ)・・・亡父、

妣(ヒ)・・・亡母

稍(ソウ、ショウ)・・・やや、すこし、だんだん

焉(エン、いずくんぞ)・・・「なんぞ」という疑問、反語の意を表す

岐嶷(キギョク)・・・子どもの賢い事

黽勉/僶俛 (ビンベン)・・・つとめはげむこと。精を出すこと

歟(ヨ、か)・・・ 與、与 と同じ

鐫(セン、のみ、ほ(る)、え(る))・・・ 金属・石材・木材などを うがつ道具の事、
                    また 彫りつける、うがつ などの意味

伊東南堂・・・ 向島の不動堂にある 上武大橋の「修河架橋記念碑」の題字を書いた人

   参照:(有)フカダソフト 気まぐれ旅写真館

      上武大橋 その1

      上武大橋 その2


嘉謀(カボウ)・・・よいはかりごと。 国を治めるための優れた計画
          今回は人名、
          長男 河田正策、号は東郊

荒木孝繁・・・新戒の荒木翠軒、号は天外  孝繁は諱

「この後」、「役目」・・・死後、依頼された事」

一支族・・・新田義貞嫡男、義宗より二十三世の孫

諱(イミナ)・・・貴人の死後 尊んでおくる称号

字(アザナ)・・・武士 学者 文人などが 自分につけた本名以外の名

觀海・・・中瀬の吉祥寺 第24代住職

古法・・・中国 王義之をはじめとする王風の書法、
     穏やかな運筆の中に爽やかな古調を備えている。

書斎・・・小霞書屋

嘉猷・・・河田幸作
     菜風の弟子 田野家が絶家となり 明治九年一月 相続再興する。

田舎に隠れている・・・学問良識が高いのに 官職につかずに民間に居る

撰・・・著作、文章をつくり述べる

篆額・・・石碑上部の題字(篆書)

書・・・碑文の書

鐫・・・石に刻む



          



河田菜風翁碑 全文(現代語訳)

2018-05-26 | おしゃべり
  河 田 菜 風 翁 碑



菜風君が逝去した。 

二年経過して 

嘉謀は 菜風の行った事実を 永遠に伝えたいと願い、

多くの友人や 門人と 企画した。



刻文は 友人の荒木孝繁に依頼した。 



孝繁は嘆いて言った。

「君は私より9才も若い。

 死は 私より後にあるべきであったが

 不幸にも先に逝った。

 この後の役目は 私の任に耐えられない。

 しかし、私と君の深い友情は 周知の事である。

 人の道を辞退する訳にはいかない」



遂に刻文を記す。



文章に述べ表して曰く。



「中瀬村の河田氏は 先祖 新田氏の血統者より始まる。

 農業に従事し 村の名高い家柄である。

 その支族は増え広がり、君はその一支族である。



 諱は嘉豊、字は公實、菜風は その号である。

 亡父の諱は嘉氏、亡母は小林氏である。

 亡父はよく働き 家の財産は やや豊かであった。



 君は幼き頃より 吉祥寺で勉強した。

 芳しいとの評判であった。

 住職の觀海和尚は 学問に精通し 特に書を得意とした。

 折しも 住職を辞め、塾を開いて 弟子を丁寧に教えた。

 君はこの塾に入門した。

 幼くして仲間より才知が秀でていた。

 先生は大成を期待した。

 その後 その言葉通りになった。



亡父は老いた。 家を受け継ぎ 家業に専念した。



本を読み 飽きる事なく務め励み、

同時に詩文を得意とし

最も書に秀でていた。

かくて 古くからの慣習を変え、もっぱら古法を良しとした。

君に学ぶ者は まさしく楷書を手本とした。



性質は地味で驕らず、派手で華やかを好まず、

飾り気が無く 真心の人である。

来客があると 一日中 立て板に水を流すように論じた。

人は皆 愛し重んじた。



時には あちらこちら あてもなく(計画的でなく)
諸方を巡り遊び、風流な文人雅人を訪ねた。

至る所で敬われた。

晩年に書斎を構えた。

多くの書籍を集め、机に寄りかかり、

読んだり詠じたりした。

時には筆をふるい 要請に応じた(書画を書いた)。

求める人は 毎日 多かった。



このような日が数年、
病気になり とうとう亡くなってしまった。

悲しみ惜しまない人はいない。

明治十三年一月三日 享年六十才。

島田氏より妻を迎える。

子どもは男三人、
長男 嘉謀  次男 嘉猷  三男は若くして亡くなった。

女子一人 すでに嫁いでいる。

君の生前を知らない人はいない。

逝去して惜しまない人はいない。

思うに その通りである。

回想してみると このような才能のある人が 他に誰がいるだろうか。



業(学問)に優れているなあ、

書道(詩文)も良し

才知に優れ 粋な姿、

上品で美しい晋唐代の書に没入し、

田舎に隠れていると言えども

世間一般の人であると遜る(へりくだる)ことがあろうか。

ここに日石を刻んで 後世に残る誉を伝える。



明治二十三年六月

       友人   天外  荒木 孝繁 撰

       東京       伊東南堂 篆額

       友人   藍香  尾高 惇忠 書

                 田野祐修 鐫



(裏)  明治二十二年 八月 門弟子等建
 
       



   



河田菜風翁碑 全文(書き下し文)

2018-05-23 | 菜風さん
菜風君 没す。

二年を越て、

嘉謀(カボウ) 行實(コウジツ)を不朽に傳へんと欲して、

諸友 及び 門人と 之を圖る。



銘は 即ち 其の友 荒木孝繁に嘱す。



孝繁 嘆じて曰く、

「君 吾より少(ワカ)きこと九歳、

 その死は 宜しく吾が後に在るべし。

 然るに 不幸にして 先に逝けり。

 即ち 後事の任は 吾れ 其れ 忍びんや。

 然れども 吾 君と 篤きこと 衆の知る所なり。

 義 辭し難し。」



遂に 之を 銘す。





叙して曰く、


中瀬村 河田氏は、其の先 新田氏の族より出づ。

農に歸し、村の著族為り。

支族 蔓衍し、君は其の一為り。



諱(イミナ)は嘉豊、字(アザナ)は公實、菜風は 其の號なり。

考は諱 嘉氏、 妣は小林氏なり。

考は、克く業を務め、家資 稍(ヨウヤク)く豊かなり。



君、幼くして吉祥寺に就学す。

其の香花為り。

地の住持 觀海 学に精(クワ)し。

書法を善くす。

適(タマタマ)職を辭して處す。

塾を開きて徒を誨(オシ)ふ。

君 之に入る。

岐嶷(ギギョク) 衆に異なる。

師 其の大成を期す。

後 果たして其の言の如し。



考 老ゆ。 家を承け、事を専らにす。



書を讀み、黽勉(ビンベン)して倦まず。

旁ら 詩文を善くす。

最も書に長ず。

遂に𦾔習を變じ、一に古法を以って旨と為す。

君に就きて學者 端(マサ)に 楷法有り。



性 倹素にして、粉華を好まず。

野人と處(オ)る。

客 到らば 劇談すること竟日(キョウジツ)、

人 皆 愛重す。



或るは 四方を漫遊し、雅人を訪ふ。

至る所 重んぜらる。

晩に一室を構ふ。

多く書籍を集め、几に倚り、

且つ讀み、且つ詠ず。

或るは 翰(フデ)を揮(フル)い 請に應ズず。

請ふ者 日に衆(オオ)し。



此の如きこと 數年、
罹疾に會ひ、終に起たず。

人 惋惜せざるはなし。

時に 明治十三年一月三日 得年六十。



島田氏を娶る。

三男あり。


即ち 嘉謀(カボウ)、次は 嘉猷(カユウ)、次は、夭す。

女 一人 已に嫁す。



君の在るや、人 知らざるは無し。

而して 亡ずるや、人 惜しまざるは無し。

惟(オモ)ふに 其れ 然り。

顧みるに、能く果然たる者 誰ぞや。





   至れるかな 業や。   

   翰墨の良、翩々たる姿態、優に晉唐に入る。 

   田野に隱ると謂へども、何ぞ大方を遜れんや。

   斯に貞珉(テイビン)を勒して、永く遺芳を傳へん。





      明治二十三年六月  友人   天外  荒木 孝繁 撰

                東京       伊東 南堂 篆額

                友人   藍香  尾高 惇忠 書

                         田野 祐修 鐫(セン)





   

河田菜風翁碑 全文(漢文)

2018-05-22 | 菜風さん
河田菜風翁碑



菜風君歿矣越二年、

嘉謀欲傳行實干不朽與諸友及門人圖之。

銘則嘱其友荒木孝繁。

孝繁嘆曰、

「君少吾九歳其死宣在吾後。

 然不幸先逝則後事之任吾其忍乎。

 然吾與君篤衆所知也。

 義難辭。」

遂銘之。



叙曰。

『中瀬村 河田氏 其先 出新田氏之族。

 帰農 為村著族。 支族蔓衍。 君 為其一。

 諱嘉豊、 字 公實、菜風 其號。

 考諱嘉氏、妣小林氏。

 考克務業家資稍豊。

 君幼就学吉祥寺 為其香花。

 地住持觀海 精於学。善書法。

 適辭職而處。開塾誨徒。君入之焉。

 岐嶷異衆。 師期其大成。

 後果如其言。

 

 考老。 承家 専事。

 讀書 黽勉 不倦。

 旁 善詩文。 最長於書。

 遂 變𦾔習 一以古法為旨。

 就君学者 端楷有法。

 性倹素 不好紛華。

 與野人處。 客到劇談竟日。

 人皆愛重焉。



 或漫遊四方 訪雅人。 所至見重。



 晩構一室。 多集書籍 倚几且讀且詠。

 或揮翰応請。 請者日衆。



 如此數年、會罹疾。 終不起。

 人無不惋惜。時明治十三年一月三日。

 得年六十。 



 娶島田氏。 有三男。

 即嘉謀、次嘉猷、次夭。

 女一人 已嫁。



 君之在也、人無不知。

 而亡也、人無不惜。

 惟其然矣。 顧能果然者誰歟』





到哉業也 翰墨之良 翩々姿態 優入晉唐

雖隠田野 何遜大方 斯勒貞珉 永傳遺芳



明治二十三年六月   友人 天外荒木孝繁撰

           東京 伊東南堂篆額

           友人 藍香尾高惇忠書

              田野祐修鐫





   

あの世があるなら

2018-05-21 | おしゃべり
衣笠祥雄さんへの、江夏豊さんからの言葉。



   先に逝ってしまった棺の中の顔を見て「お疲れさん」と。

   あの世へ逝けば
   先輩のカープの山本かずさん(山本一義さん)も待ってるし、
   タイガースの村山(実)さんも待ってるし。

   「大好きな野球談義してこい、
   そのうち俺もそこへ入らせてもらうからな」

   ということは言いましたけどね。



これは、「江夏豊さんが語る、朋友・衣笠祥雄 インタビュー全文」

(NHK SPORTS STORY スポーツの面白さに出会えるメディア)

にありました。(2018年5月11日(金))





私たちは、意識していたり していなかったりしつつも
<あの世>がある、と思っているらしいです。


ある監察医の方が 何十年も前から

「人は 死ねば それで 終わり。  死後は、ない。」

と言っているのを 私は知っていました。


事件性が疑われる遺体を解剖するのが仕事の人。

私は 死後の世界を信じないのは寂しくないかな、と思いつつ
この人の場合は 仕方がないかな、と 自分を納得させていました。


ところが、数年前。

この人が 自分で告白した事には、
目に入れても痛くないほど可愛がっていた犬が死んだ時に、

「死んだ親父は 生き物が好きだったからな。

 向こうへ逝ったら 可愛がってもらえよ」

と話しかけていた、というのです。


頭では否定していた死後の世界を、どこかで信じていたらしいのです。





あなたは信じていますか? 

地獄や、極楽。 

死後の世界を。

私たちは 死んだら どこへ行くのでしょう?


私は信じる事にしています。

だって、そう信じた方が楽しいですから(笑)。

あちらへ逝ってからも、どこかで また会えたら 嬉しいですね。


会っても嬉しくない人もいるって?

大丈夫。

その頃、私たちは みんな 
ホトケサンになっているのですから(笑)。

衣笠さんと江夏さんだって、
会って 言葉を交わすでしょう。

キャッチボールもするでしょう(笑)。

私たちだって、今はもう会えないあの人に 今度会えたら 
伝えたかったあの言葉を 伝える事ができるかもしれませんよ。





有名人が なんだか次々に亡くなったりしています。

このところ 気温の変化も大きいので
自分で自分を労 いたわりつつ
「その日」まで しっかり 歩んでまいりましょう。



それから、
「あの人」が 今 生きているなら、
今のうちに、伝えたい事を伝えておきましょう。

<あの世>に行っても すぐに会えるとは 限りませんから。



          



終末

2018-05-20 | おしゃべり
昨日の読売新聞(第5面、広告のページ)に
第257世 森川 天台座主 猊下がお出ましになっていたので、
ビックリしました。

一面全部が 日本医師会の広告で、
座主猊下(げいか)と 日本医師会の会長の
横倉義武氏の対談でした。

日医on-line 平成30年(2018年)5月20日(日) / 日医ニュース

尊厳ある終末期を迎えるために―医療と宗教の関わり―
特別対談 横倉会長 森川第257世天台座主


ちなみに、上のリンク先の内容で、
「草木国土 悉皆成仏」は「そうもくこくど しっかいじょうぶつ」と読みます。




新聞のページの横倉氏の側には
「かかりつけ医などと自身の最期を考えてほしい」、

座主猊下の側には
「相手を敬って思いやる心こそ大事」

と大書されていて目を引きました。

(比叡山延暦寺、棚の上に物を置き過ぎです! 笑)



かかりつけ医の必要性も重要性もわかります。

尊厳も大事なのは わかります。

けれども、お話の中に出てきた、
「ACP アドバンス・ケア・プランニング」
というのは 耳慣れない言葉ですし、

「臨床宗教師」というのも
一般にはなじみのない言葉だろうと思います。



ちなみに、「ACP アドバンス・ケア・プランニング」とは、

   将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、
   患者さんを主体に、そのご家族や近しい人、医療・
   ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、患者さんの
   意思決定を支援するプロセスのことです。
   患者さんの人生観や価値観、希望に沿った、
   将来の医療及びケアを具体化することを
   目標にしています。

だそうで、

   この結果を残しておくことで終末期にも
   本人の意志を尊重する事ができる

のだそうです。



医療が発達して 
昔なら助からなかった命を助ける事ができるようになった。

だからこそ 終末期における 医療と本人の意志との間に 
隔たりが生まれてしまった。

そおの隔たりをなくすための工夫、
かと思います。

本人だけでなく、家族にとっても 重要な事かと思います。



以前、日本尊厳死協会に入会しているご夫婦に
免許証サイズの <リビング・ウィル>を見せていただいた事があります。

しごく当然の事しか書いてない、
という印象を受けました。

自分の死後の事は 後の人に任せればいい、
というのが 私の基本的なスタンスですが、
医療の発達が それを難しくしてしまった上に、

遺族が「本当に あれで(これで)良いのか? 良かったのか?」
と悩む時間が 長くなるらしいので、
「脳死」の問題とは別に
もう少し考えた方が良いのかもしれません。

(深谷市では 脳死に関しては 
 保険証の裏面に書き込む事ができるようになって良かったな、
 と思っています。)





日本の場合は これまで、
終末期における医療、緩和ケアと共に役割を果たすべき
<宗教的ケア> が 抜け落ちてきてしまっています。

それが 大震災を契機に注目されてきています。

注力している仏教の僧侶も 増えてきています。

が、まだ一般的では ありませんね。

これから 宗教者も もっと勉強しなくてはなりませんし、
私たちが(皆さんが)
「もっとこうしてほしい」
「こういう方法が選べたら」
という要望を 遠慮なく声に出していく方が
いろいろな事が 良い方に発展するのではないか
という気がしています。



「臨床宗教師」については、私はまだまだ勉強不足です。

宗教者、特に仏教者は これまでの日本においては
あまりに遠慮し過ぎていたのかもしれませんし、
無作為だったとも思います。

お坊さんたちの活躍の場は、
今後、もっともっと増えて良いのではないかと思います。

いずれにしても、不勉強だという反省の気持ちです。





私には 少し 難しい問題で、
頭が疲れました。

大玄関前のヤマボウシの画像を貼り付けておきます。

そろそろ花も終わりな上に、
昨日の大風で痛んでしまいましたが、
まだ充分にキレイです🎵


     



自慢🎵

2018-05-19 | おしゃべり
窓口前の、小さなスペースで育った野菜 


                    

たい肥に ジャガイモの皮があったみたいです(笑)。

葉が枯れたので、収穫しました 



  可愛い。



住職は 「(愛おしくて)食べられないなぁ」 と言っていましたが。



食べます(笑)。