座敷ネズミの吉祥寺だより

吉祥寺って、ラッキーでハッピーなお寺ってこと?
中瀬の吉祥寺のあれこれをおしゃべり。

河田菜風翁碑 おまけ

2018-05-28 | 菜風さん
ついでに、
散らして書いた「河田菜風翁碑」の注釈などを
まとめておきます。


考(コウ)・・・亡父、

妣(ヒ)・・・亡母

稍(ソウ、ショウ)・・・やや、すこし、だんだん

焉(エン、いずくんぞ)・・・「なんぞ」という疑問、反語の意を表す

岐嶷(キギョク)・・・子どもの賢い事

黽勉/僶俛 (ビンベン)・・・つとめはげむこと。精を出すこと

歟(ヨ、か)・・・ 與、与 と同じ

鐫(セン、のみ、ほ(る)、え(る))・・・ 金属・石材・木材などを うがつ道具の事、
                    また 彫りつける、うがつ などの意味

伊東南堂・・・ 向島の不動堂にある 上武大橋の「修河架橋記念碑」の題字を書いた人

   参照:(有)フカダソフト 気まぐれ旅写真館

      上武大橋 その1

      上武大橋 その2


嘉謀(カボウ)・・・よいはかりごと。 国を治めるための優れた計画
          今回は人名、
          長男 河田正策、号は東郊

荒木孝繁・・・新戒の荒木翠軒、号は天外  孝繁は諱

「この後」、「役目」・・・死後、依頼された事」

一支族・・・新田義貞嫡男、義宗より二十三世の孫

諱(イミナ)・・・貴人の死後 尊んでおくる称号

字(アザナ)・・・武士 学者 文人などが 自分につけた本名以外の名

觀海・・・中瀬の吉祥寺 第24代住職

古法・・・中国 王義之をはじめとする王風の書法、
     穏やかな運筆の中に爽やかな古調を備えている。

書斎・・・小霞書屋

嘉猷・・・河田幸作
     菜風の弟子 田野家が絶家となり 明治九年一月 相続再興する。

田舎に隠れている・・・学問良識が高いのに 官職につかずに民間に居る

撰・・・著作、文章をつくり述べる

篆額・・・石碑上部の題字(篆書)

書・・・碑文の書

鐫・・・石に刻む



          



河田菜風翁碑 全文(書き下し文)

2018-05-23 | 菜風さん
菜風君 没す。

二年を越て、

嘉謀(カボウ) 行實(コウジツ)を不朽に傳へんと欲して、

諸友 及び 門人と 之を圖る。



銘は 即ち 其の友 荒木孝繁に嘱す。



孝繁 嘆じて曰く、

「君 吾より少(ワカ)きこと九歳、

 その死は 宜しく吾が後に在るべし。

 然るに 不幸にして 先に逝けり。

 即ち 後事の任は 吾れ 其れ 忍びんや。

 然れども 吾 君と 篤きこと 衆の知る所なり。

 義 辭し難し。」



遂に 之を 銘す。





叙して曰く、


中瀬村 河田氏は、其の先 新田氏の族より出づ。

農に歸し、村の著族為り。

支族 蔓衍し、君は其の一為り。



諱(イミナ)は嘉豊、字(アザナ)は公實、菜風は 其の號なり。

考は諱 嘉氏、 妣は小林氏なり。

考は、克く業を務め、家資 稍(ヨウヤク)く豊かなり。



君、幼くして吉祥寺に就学す。

其の香花為り。

地の住持 觀海 学に精(クワ)し。

書法を善くす。

適(タマタマ)職を辭して處す。

塾を開きて徒を誨(オシ)ふ。

君 之に入る。

岐嶷(ギギョク) 衆に異なる。

師 其の大成を期す。

後 果たして其の言の如し。



考 老ゆ。 家を承け、事を専らにす。



書を讀み、黽勉(ビンベン)して倦まず。

旁ら 詩文を善くす。

最も書に長ず。

遂に𦾔習を變じ、一に古法を以って旨と為す。

君に就きて學者 端(マサ)に 楷法有り。



性 倹素にして、粉華を好まず。

野人と處(オ)る。

客 到らば 劇談すること竟日(キョウジツ)、

人 皆 愛重す。



或るは 四方を漫遊し、雅人を訪ふ。

至る所 重んぜらる。

晩に一室を構ふ。

多く書籍を集め、几に倚り、

且つ讀み、且つ詠ず。

或るは 翰(フデ)を揮(フル)い 請に應ズず。

請ふ者 日に衆(オオ)し。



此の如きこと 數年、
罹疾に會ひ、終に起たず。

人 惋惜せざるはなし。

時に 明治十三年一月三日 得年六十。



島田氏を娶る。

三男あり。


即ち 嘉謀(カボウ)、次は 嘉猷(カユウ)、次は、夭す。

女 一人 已に嫁す。



君の在るや、人 知らざるは無し。

而して 亡ずるや、人 惜しまざるは無し。

惟(オモ)ふに 其れ 然り。

顧みるに、能く果然たる者 誰ぞや。





   至れるかな 業や。   

   翰墨の良、翩々たる姿態、優に晉唐に入る。 

   田野に隱ると謂へども、何ぞ大方を遜れんや。

   斯に貞珉(テイビン)を勒して、永く遺芳を傳へん。





      明治二十三年六月  友人   天外  荒木 孝繁 撰

                東京       伊東 南堂 篆額

                友人   藍香  尾高 惇忠 書

                         田野 祐修 鐫(セン)





   

河田菜風翁碑 全文(漢文)

2018-05-22 | 菜風さん
河田菜風翁碑



菜風君歿矣越二年、

嘉謀欲傳行實干不朽與諸友及門人圖之。

銘則嘱其友荒木孝繁。

孝繁嘆曰、

「君少吾九歳其死宣在吾後。

 然不幸先逝則後事之任吾其忍乎。

 然吾與君篤衆所知也。

 義難辭。」

遂銘之。



叙曰。

『中瀬村 河田氏 其先 出新田氏之族。

 帰農 為村著族。 支族蔓衍。 君 為其一。

 諱嘉豊、 字 公實、菜風 其號。

 考諱嘉氏、妣小林氏。

 考克務業家資稍豊。

 君幼就学吉祥寺 為其香花。

 地住持觀海 精於学。善書法。

 適辭職而處。開塾誨徒。君入之焉。

 岐嶷異衆。 師期其大成。

 後果如其言。

 

 考老。 承家 専事。

 讀書 黽勉 不倦。

 旁 善詩文。 最長於書。

 遂 變𦾔習 一以古法為旨。

 就君学者 端楷有法。

 性倹素 不好紛華。

 與野人處。 客到劇談竟日。

 人皆愛重焉。



 或漫遊四方 訪雅人。 所至見重。



 晩構一室。 多集書籍 倚几且讀且詠。

 或揮翰応請。 請者日衆。



 如此數年、會罹疾。 終不起。

 人無不惋惜。時明治十三年一月三日。

 得年六十。 



 娶島田氏。 有三男。

 即嘉謀、次嘉猷、次夭。

 女一人 已嫁。



 君之在也、人無不知。

 而亡也、人無不惜。

 惟其然矣。 顧能果然者誰歟』





到哉業也 翰墨之良 翩々姿態 優入晉唐

雖隠田野 何遜大方 斯勒貞珉 永傳遺芳



明治二十三年六月   友人 天外荒木孝繁撰

           東京 伊東南堂篆額

           友人 藍香尾高惇忠書

              田野祐修鐫





   

河田菜風翁碑(現代語訳4)

2018-04-30 | 菜風さん
このような日が数年、
病気になり とうとう亡くなってしまった。

悲しみ惜しまない人はいない。

明治十三年一月三日 享年六十才。

島田氏より妻を迎える。

子どもは男三人、
長男 嘉謀  次男 嘉猷  三男は若くして亡くなった。

女子一人 すでに嫁いでいる。

君の生前を知らない人はいない。

逝去して惜しまない人はいない。

思うに その通りである。

回想してみると このような才能のある人が 他に誰がいるだろうか。



業(学問)に優れているなあ、

書道(詩文)も良し

才知に優れ 粋な姿、

上品で美しい晋唐代の書に没入し、

田舎に隠れていると言えども

世間一般の人であると遜る(へりくだる)ことがあろうか。

ここに日石を刻んで 後世に残る誉を伝える。



明治二十三年六月

       友人   天外  荒木 孝繁 撰

       東京       伊東南堂 篆額

       友人   藍香  尾高 惇忠 書

                田野祐修 鐫



(裏)

明治二十二年 八月 門弟等建
 
       



* 嘉猷 : 河田幸作
       菜風の弟子 田野家が絶家となり 明治九年一月 相続再興する。

* 田舎に隠れている: 学問良識が高いのに 官職につかずに民間に居る

* 撰  : 著作、文章をつくり述べる

* 篆額 : 石碑上部の題字(篆書)

* 書  : 碑文の書

* 鐫  : 石に刻む



「鐫」の字は 覚えられそうにありません。

「セン」「のみ」「ほる」「える」と読んで、
意味は「のみ、金属・石材・木材などをうがつ道具。
ほる、ほりつける。 うがつ。 しりぞける など。

大工さんが使う、アレは、「鑿」と書くようですが。

もう、手書きでは書けません! 28画あります!



「鐫」した人、
吉祥寺の墓地に眠っている、
戒名に「祐修」という字がある方は
明治33年に亡くなっています。

職業はわからないのですが、
ツジツマは合ってますか?(笑)



      



弟子の嘉猷:幸作さんは 大正11年に亡くなったようですが、
その辺の事は 私は詳しくありません。

「そう聞いています」というような事を、
後々の人が 正しく覚えていてくれる事は嬉しく思います。



      






河田菜風さんは 吉祥寺から遠くない、
一風変わった故人墓地に眠っていらっしゃいます。

たとえ 字や諱がなくても、
学に精しくなくても、
書を善くしなくても、
どの家の どの人にも 
それなりにドラマチックな来し方があるはずです。

間違えて伝えられるのは困りますが、
忘れられてしまうのは寂しい。

中央で活躍した人でもそうですが、
地方の一文士なども 研究してみると面白いのではないでしょうか。



中瀬の吉祥寺に建つ石碑の文字を読み、書き下し、
現代語にして下さった方
(*印の注意書きも その先生によるものです)、

そしてそれを この拙いブログに載せる事を快諾して下さった方に
感謝申し上げます。



記録がなければ 忘れられてしまう人々。

どんなに苦労しようと、
どんなに尊敬されようと、
忘れられる定めなのが市井の人々です。

後世の人が 特定の人物が人々に忘れられない努力をするのも 
悪くないと思いますす。

忘れられそうな、
あるいは 忘れられてしまった過去にスポットを当てて
クッキリ見えるようにするのも
歴史を学ぶ面白味でしょう。



たくさんの人々のお蔭をもちまして
河田菜風翁碑について
記事を書かせていただいて
楽しい時間を過ごしました。

ありがとうございました。



          



河田菜風翁碑(現代語訳 3)

2018-04-28 | 菜風さん
亡父は老いた。 家を受け継ぎ 家業に専念した。



本を読み 飽きる事なく務め励み、

同時に詩文を得意とし

最も書に秀でていた。

かくて 古くからの慣習を変え、もっぱら古法を良しとした。

君に学ぶ者は まさしく楷書を手本とした。



性質は地味で驕らず、派手で華やかを好まず、

飾り気が無く 真心の人である。

来客があると 一日中 立て板に水を流すように論じた。

人は皆 愛し重んじた。



時には あちらこちら あてもなく(計画的でなく)
諸方を巡り遊び、風流な文人雅人を訪ねた。

至る所で敬われた。

晩年に書斎を構えた。

多くの書籍を集め、机に寄りかかり、

読んだり詠じたりした。

時には筆をふるい 要請に応じた(書画を書いた)。

求める人は 毎日 多かった。





*古法 : 中国 王義之をはじめとする王風の書法、
      穏やかな運筆の中に爽やかな古調を備えている。

*書斎 : 小霞書屋
      


この、「小霞書屋」がわかりません、書斎をそう命名したのでしょうか?

それから、こちらは 聞いた事のない言葉で、とても覚えられませんので、
もう一度書きます。

【黽勉(ビンベン)。 つとめはげむこと。】



      



河田菜風翁碑(現代語訳2)

2018-04-26 | 菜風さん
文章に述べ表して曰く。



「中瀬村の河田氏は 先祖 新田氏の血統者より始まる。

 農業に従事し 村の名高い家柄である。

 その支族は増え広がり、君はその一支族である。



 諱は嘉豊、字は公實、菜風は その号である。

 亡父の諱は嘉氏、亡母は小林氏である。

 亡父はよく働き 家の財産は やや豊かであった。



 君は幼き頃より 吉祥寺で勉強した。

 芳しいとの評判であった。

 住職の觀海和尚は 学問に精通し 特に書を得意とした。

 折しも 住職を辞め、塾を開いて 弟子を丁寧に教えた。

 君はこの塾に入門した。

 幼くして仲間より才知が秀でていた。

 先生は大成を期待した。

 その後 その言葉通りになった。





* 一支族 : 新田義貞嫡男、義宗より二十三世の孫

* 諱(イミナ): 貴人の死後 尊んでおくる称号

* 字(アザナ): 武士 学者 文人などが 自分につけた本名以外の名



觀海は 中瀬の吉祥寺の 第24代目の住職です。





      



河田菜風翁碑(現代語訳 1)

2018-03-24 | 菜風さん
   河 田 菜 風 翁 碑



菜風君が逝去した。 

二年経過して 

嘉謀は 菜風の行った事実を 永遠に伝えたいと願い、

多くの友人や 門人と 企画した。



刻文は 友人の荒木孝繁に依頼した。 



孝繁は嘆いて言った。

「君は私より9才も若い。

 死は 私より後にあるべきであったが

 不幸にも先に逝った。

 この後の役目は 私の任に耐えられない。

 しかし、私と君の深い友情は 周知の事である。

 人の道を辞退する訳にはいかない」



遂に刻文を記す。





* 嘉謀(カボウ) : 長男河田正策、号は東邨

* 荒木孝繁    : 新戒の荒木翠軒、号は天外  孝繁は諱

* 「この後」、「役目」・・・死後、依頼された事   


この注釈も 漢文を読んで下さった先生のものです。





菜風さんは明治13年に60歳で、

菜風さんのお母様は 明治14年に90歳で、
長男 正策さんは 昭和になってから87歳で亡くなっています。

確かにお戒名に「東邨」が入っています。

移籍しています。

これらの年齢は数え歳だと思います。



荒木さんは、やっぱり、新戒の方でしたか。

地元では有名な方でしょうね?



      

河田菜風翁碑(書き下し文 4)

2018-03-23 | 菜風さん
河田菜風翁碑(4)の部分の書き下しです。



此の如きこと 數年、
罹疾に會ひ、終に起たず。

人 惋惜せざるはなし。

時に 明治十三年一月三日 得年六十。



島田氏を娶る。

三男あり。


即ち 嘉謀(カボウ)、次は 嘉猷(カユウ)、次は、夭す。

女 一人 已に嫁す。



君の在るや、人 知らざるは無し。

而して 亡ずるや、人 惜しまざるは無し。

惟(オモ)ふに 其れ 然り。

顧みるに、能く果然たる者 誰ぞや。





   至れるかな 業や。   

   翰墨の良、翩々たる姿態、優に晉唐に入る。 

   田野に隱ると謂へども、何ぞ大方を遜れんや。

   斯に貞珉(テイビン)を勒して、永く遺芳を傳へん。





      明治二十三年六月  友人   天外  荒木 孝繁 撰

                東京       伊東 南堂 篆額

                友人   藍香  尾高 惇忠 書

                         田野 祐修 鐫(セン)






以上です。

次は、現代語訳に挑戦したものがありますので、
こちらも 対応した形で 区切って書いていきます。



昨日は寒かったですね!

寒い、と思っていたら雪でした。

写真を撮ったのですが、パソコンに取り込めません。

なんでだ!?



河田菜風翁碑(書き下し文 3)

2018-03-21 | 菜風さん
河田菜風翁碑(3)の部分の書き下しです。



考 老ゆ。 家を承け、事を専らにす。



書を讀み、黽勉(ビンベン)して倦まず。

旁ら 詩文を善くす。

最も書に長ず。

遂に𦾔習を變じ、一に古法を以って旨と為す。

君に就きて學者 端(マサ)に 楷法有り。



性 倹素にして、粉華を好まず。

野人と處(オ)る。

客 到らば 劇談すること竟日(キョウジツ)、

人 皆 愛重す。



或るは 四方を漫遊し、雅人を訪ふ。

至る所 重んぜらる。

晩に一室を構ふ。

多く書籍を集め、几に倚り、

且つ讀み、且つ詠ず。

或るは 翰(フデ)を揮(フル)い 請に應ズず。

請ふ者 日に衆(オオ)し。




          

河田菜風翁碑(書き下し文 2)

2018-03-09 | 菜風さん
河田菜風翁碑(2) の部分の書き下しです。



叙して曰く、


中瀬村 河田氏は、其の先 新田氏の族より出づ。

農に歸し、村の著族為り。

支族 蔓衍し、君は其の一為り。



諱(イミナ)は嘉豊、字(アザナ)は公實、菜風は 其の號なり。

考は諱 嘉氏、 妣は小林氏なり。

考は、克く業を務め、家資 稍(ヨウヤク)く豊かなり。



君、幼くして吉祥寺に就学す。

其の香花為り。

地の住持 觀海 学に精(クワ)し。

書法を善くす。

適(タマタマ)職を辭して處す。

塾を開きて徒を誨(オシ)ふ。

君 之に入る。

岐嶷(ギギョク) 衆に異なる。

師 其の大成を期す。

後 果たして其の言の如し。