座禅をしてなにになるか。
なにかの役に立つか、なんにもならんと和尚の教えでした。
足の痛いのに座り続けてもなんにもならん、時間の無駄だ。
自分は座禅をしているとか、精神修養になるからとか、人間が出来てくるとか・・・そんなことはなんにもならん。
ボランティアもそう・・・ボランティアをすることで後で何か自分のためになることがあるのではとか。
よく出来たことと人にほめていただく、これを期待してはいないか・・これは本当のボランティアとは言わない。
きょうの座禅会の説教はこんなお話でした。
<写真 山門の花・下は蔵人庵>
人と諍談(じょうだん)するは 自他ともに無益(むやく)なり
『正法眼蔵随聞記』
人は感情的に「ああいった、こういった、どうも気にいらない」と、なにかにつけ言い争う。自分の長所は過大に評価するが、短所は過小に見えるのが常である。
「からの容器ほど大きなおとをたてる」ことを肝に銘じ、道元禅師のお言葉を味わいたいものである。
なにかの役に立つか、なんにもならんと和尚の教えでした。
足の痛いのに座り続けてもなんにもならん、時間の無駄だ。
自分は座禅をしているとか、精神修養になるからとか、人間が出来てくるとか・・・そんなことはなんにもならん。
ボランティアもそう・・・ボランティアをすることで後で何か自分のためになることがあるのではとか。
よく出来たことと人にほめていただく、これを期待してはいないか・・これは本当のボランティアとは言わない。
きょうの座禅会の説教はこんなお話でした。
<写真 山門の花・下は蔵人庵>
人と諍談(じょうだん)するは 自他ともに無益(むやく)なり
『正法眼蔵随聞記』
人は感情的に「ああいった、こういった、どうも気にいらない」と、なにかにつけ言い争う。自分の長所は過大に評価するが、短所は過小に見えるのが常である。
「からの容器ほど大きなおとをたてる」ことを肝に銘じ、道元禅師のお言葉を味わいたいものである。