この山里は遠くに連山を望む私の生家のあったところ・・・
いまは荒れ放題の田んぼが見える、段々畑は山となった。
南向きで陽当たりがいい、ここで小学4年生まで育った。
山を背にした段々畑の中腹辺り、神社の森も見える、集落の一番奥の高台、谷川に渡り廊下で繋がれた離れ、30mほど離れたところに土蔵、大雨や台風で山崩れが起きても食糧や家財を守る、当家七代の祖父(栄吉)が建てたもの、思い出して絵にしてみたのがこんな感じだ。
今は大きな砂防ダムが出来て母屋の屋敷跡もなくなった。
奥庭には牛が同居、家の周りには柿の木やナツメ、グミの木など、柿は甘さはあるが種が多い
サル泣かせの大木があった。冬には小鳥たちが群がる餌となる。
当時は生活用水はすべて谷の水、サワガニが棲み山葵や菖蒲が茂る、苔生した岩肌を清流がチョロチョロと湧き出る。
孟宗竹を半割にした「竹樋」で流し台の横の桶に溜めるのだ。
我が家の下の家族は18年ころ開拓団で満州へ、家族全員帰らなかったとのこと・・
これは失っていた半生記の記録のコピーが引き出しから見つかった一節。
することもなし、運動に山裾を歩き野鳥を探しにでかけた、枇杷の木にメジロがいた。