山の三月東風吹いて・・・
私の生家、昭和30年の夏までここで育った。
遠くに床尾連山を望む集落の一番奥、山の斜面の段々畑の中腹辺り、谷川に渡り廊下で茅葺の母屋と離れ、土蔵が隣接している、離れには谷川を跨いで渡り廊下で繋がる、風流な生活であった。
山の向こうからコトコトと列車の線路の音が聞こえる、汽笛も聞こえる長閑な山里だ。
50mほど離れた所にも土蔵、この土蔵は谷筋の家屋のため、台風などの大雨や山崩れなどの時も家財や食料を守る当家7代の祖父の建てたもの・・・
今は1kmほど離れた現在地に暮らす。
現在の家は便利はいいが、生活用水がなかった、川は近いが飲み水には適さず、井戸は「かなげ」水で生活用水にはならなかったから水道が出来るまでここに暮らしたのだ。
奥庭には牛が同居、家の周辺には柿、ナツメ、無花果、グミの木など果物の木がある。
秋には子達のおやつ、残り柿は野鳥の群がる餌となる。
雪の季節は斜面は絶好のスキー場である。
当時は水道がなく生活用水はすべて谷の水、サワガニが棲み山葵や菖蒲が茂る。
苔むした岩肌を清流がチョロチョロと湧き出る。
孟宗竹を半割にした「竹樋」が流し台の横の桶に貯めかけ流す。
学校まで3kmは徒歩で通う、学校から帰るとまず風呂の水汲みの手伝いから・・。
山裾の家屋は炭焼き、山林の管理に便利であったのだろう。
また、養蚕も大きな収入源、桑の実もなつかしい味だ、段々畑に桑の木を植え、その下に大豆、芋や豆など野菜も作っていた。
家の下あたりに水車小屋、ここでで精米をする、10戸の共同水車である。
蕗の薹が出る春、一番の仕事は風呂、炊事や囲炉裏の燃料の薪つくりから始まる、
遠くの連山の峰に残雪が見える、コブシが咲くと人参牛蒡など野菜の種を蒔けと自然が教える、苗代準備に田起こしがはじまる山の三月、もうすぐ山桜も咲く春・・・
大きな砂防ダムが10年ほど前に完成、いまはこの景色はない。
子どものころの記憶を絵にしました。
<自分史年表の一節から>
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