犬山で紅葉盛りの「有楽苑」を訪ねました。織田信長の実弟、織田長益(1547~1621)は晩年、京都建仁寺の正伝院の境内に「如庵」(じょあん)を建て、有楽斎如庵の名のもと、千利久七哲の一人として活動しました。いまは国宝の茶室として「如庵」がこの有楽苑に保存されているのです。重要文化財の旧正伝院書院や大阪・天満にあったという有楽斎の復元茶室「元庵」も見学しました。
茶道のことも信長と十三歳違った有楽斎の生涯についてもよく知らないのでむしろ苑内の紅葉の美しさに目を奪われたというのが正直なところですが、利久を頂点とした「茶の湯」と信長、秀吉、家康との因縁についてはもっと知りたいことがたくさんあります。
たまたま、前日、岐阜公園の菊人形展で信長の茶室を題材にした大がかりな展示を見たばっかりでした。
信長の茶器をめぐってのエピソードのかずかずや秀吉の狂気に近い利久との確執は極端にいえば日本の歴史を左右するほどの事件含みでした。以前、秋山 駿さんが「信長が本当に茶の湯に打ち込んでいたかは疑問だ」と著書に書いておられたと思いますが、弟の有楽斎が武士を捨て茶道に打ち込んだのはなぜだったのでしょうか。彼が家康からもらった数寄屋橋御門近くの土地が有楽町の起こりで、あのあたりに彼の屋敷があったからだというのは果たして本当でしょうか。