ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】私の好きな世界の街

2011年09月16日 19時04分54秒 | 読書記録
私の好きな世界の街, 兼高かおる, 新潮文庫 か-30-2, 2000年
・私が物心ついた頃には既に、日曜の朝といえば『兼高かおる世界の旅』がいつも家のテレビで流れていました。父親のお気に入りの番組だったようで、一緒になっていつも見ていたものの、その内容についてはさっぱり覚えていませんが、同著者の独特の語り口だけは耳にこびりついています。子供の頃は海外旅行にさほど興味はありませんでしたが、ここ数年でちょこちょこと外を出歩くようになったのでふと興味を持ち、手に取ってみました。本書で紹介されているのは、著者オススメの世界各国の20都市。しかし、著者の旅行歴を考えると、20という数では世界を網羅するにはとても足りないようです。自身、パリ以外は全て行ったことの無い場所についての記述なので興味津々の内容。特に興味をひかれたのはロンドン(イギリス)、サマルカンド(ウズベキスタン)、デリー(インド)。この先どれだけ世界を巡ることができるか分かりませんが、本書より様々な国の様子を想像するだけでワクワクしてきます。
・「余談ですが、いえ、重要なインフォメイションですが、サンフランシスコで中華料理を食べるなら、中華風エキゾティック・ムードに飾りたてていないダウンタウンの新しいビルにできたレストランが、断然美味しくて安いのです。」p.10
・「「最も」という言葉を滅多に言わない私ですが、ヴェネツィアは「世界で最も」という形容詞が堂々とつけられる、最もユニークな都市です。華麗な歴史を持つ美しい都市づくりのみならず、美術の宝庫であり、都市そのものが美術館なのです。」p.22
・「マルコ・ポーロはイタリアにスパゲッティをもたらしたといいますが、北イタリアのここでは海産物と米料理が美味しいのです。ただし観光客相手の店が多いから、どこで食べても満足というわけにはいきません。私なら、混んだレストランで、客がイタリア語で話し、常連のようだったら試してみます。」p.28
・「西オーストラリアの州都パースについて、私は重大な責任を感じています。1969年に初めて訪れて取材し、放映した番組の中で「パースはリタイア後に住むお薦めの地」として紹介したのです。」p.36
・「かつてオーストラリアは州ごとに鉄道の軌道幅が異なっていて、すんなりと横断できませんでしたが、イ・パ号は専用のレールを走るから速く(?)横断できるようになったのです。」p.38
・「フランスでは四代遡って外国人の血が入っていない人は、六人に一人の割合だそうですが、元々紀元前からギリシャ、ローマ、そしてゲルマン、ノルマンと多くの異人種が入って来ているのですから、人種についてさほど関心がないのが当たり前かもしれません。大体、「どこの国籍?」「お父さんは何ジン?」なんて興味を示すのは日本人が多いのです。インド人もすぐききたがりますが。」p.51
・「大スターの演ずる激しい恋物語は、世界に強烈な印象を残したのですから。ハリウッド映画とは、実にすごい力をもった情報産業です。かく申す私も、モロッコの名を覚えたのは映画『モロッコ』のように思います。」p.67
・「かけひきでは、買いたくてもその素振りは微塵だに見せてはなりません。商人に見抜かれたら、こちらの負けです。真剣勝負なのです。私は買いたいものは不思議に見破られるので、彼らの眼力は偉大なものと思っていましたら、後日、買い物をしている私を映したフィルムを見て愕然としてしまいました。子供が見ても明白なほど全身硬直し、欲しくてたまらない真剣な顔つきでパン入れの前に立っていたのです。」p.72
・「ブラジルのインフレは、いつ行っても並大抵ではありませんでした。1961年に、ホテルの玄関前に立っていた闇ドル氏の言い値は、私がホテルのランチに戻ってきた食前より、食後に出てきたときには30パーセントもドル高だったのです。」p.83
・「歴史ある都には、「花のパリ」「ドナウの女王ブダペスト」などとそれぞれ冠がつきますが、ロンドンには「偉大な王」という冠を捧げたいと思います。この30数年ほど、ほとんど毎年ロンドンに行きましたが、いつ行っても抱擁される思いのする、私にとって父のような都なのです。」p.91
・「ほっとした気分で機内に入り、まずシャンパン、そしてディナーとリラックス。この気分が何とも言えないのです。31年間のテレビ海外取材をしていた頃も、日本を出る機内のこの一時が天国でした。」p.117
・「当時のアジアは、マニラにはスペインの情熱、サイゴンにはパリの優雅さ、マカオには静かなポルトガルがあったのです。どの土地も、本国にはないアジアとのミックスの雰囲気があって、エキゾティックそのものでした。」p.154
・「アメリカ料理はまずい、というのが定説であった1960年代、ニューヨークの高級レストラン「'21クラブ」に、川端康成氏、伊藤整氏と食べに行ったことがあります。お二人ともきれいに召し上がり、 「美味しいですね」  とおっしゃり、」p.172
・「だから、もう母をだまさないことにして、"ミュンヘンではビールを" と、堂々と飲ませてみたのです。そのお陰で、一生に一度だけの歌を聴かせてもらったのが、ミュンヘンの空港の思い出となりました。」p.182
・「国が負けても、王朝が滅びても、後世の人を感銘させる技と美を残すほうが、文化度が高い人間、と私は思うのです。今のように、新兵器を造っては破壊ということを繰り返しているほうがずっと異常で狂気ではないでしょうか。」p.184
・「ドイツ人はよく学び、よく遊ぶという、理想的な人間らしい人たちです。」p.189
・「建造物においては「西のローマ、東のサマルカンド」、または「サマルカンドは東方のローマ」と言われるほど、素晴らしい技術と美を残しました。サマルカンドは中央アジアの宝石とも言われたのです。」p.195
・「街の景観はその地の支配者の文化度を示すといえます。」p.196
・「私は旧ソ連に敬意を表したいことが二つだけあります。一つは音楽家やバレリーナを育てたことであり、もう一つは歴史的建造物の手間ひまかかる修理を行ったことです。」p.198
・「オランダの正式国名はネーデルランド(低地)王国です。」p.213
・「サイババとは救世者というような意味で、ヒンドゥ教の大神のひとつ、ヴィシュヌ神の生まれかわりと思われている人のことだそうです。(中略)私はまさか、と思ってことあるごとに今のサイババの写真を見せてきいて歩いたのですが、知らない人が多いのにびっくりしてしまいました。言いかえればインドは広いのです。多人種で言語的多様国家で情報がいきわたらない実情がこんなところでもみられました。」p.260
・「面積は日本の九倍、人口は九億人、人種は公的には約七人種といい、言語は約800種類。嘘八百ではありません、日本外務省の資料引用です。」p.261
・「女の美といえば最近、日本女性の間で話題になっているアーユルヴェーダなるものを試してみました。」p.267
・「私からの強いお願いは諸国の教会、モスク、寺、神社等々を訪れたら、現地の人より謙虚な態度で接してください。現地の人にも好感を与えるかもしれませんが、自分自身も気持ちがすがすがしくなるものです。」p.276
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【本】知の旅への誘い

2011年07月13日 19時00分09秒 | 読書記録
知の旅への誘い, 中村雄二郎 山口昌男, 岩波新書(黄版)153, 1981年
・哲学者と文化人類学者の共著。各々の "知の旅" の軌跡について語った書。抽象的・観念的記述が多く、話に付いていくのに一苦労……というよりも付いていけずに、ほとんど未消化のまま。少なくとも "知の旅" の方法について手とり足とり教えてくれる実用書ではなく、あくまでも思索のネタを提供するといったスタンスの、どこかつかみどころのない内容に終始している。これを読みこなすのためには、前もってそれなりの "知の旅" の経験が必要らしい。
・「学問や理論を含む私たち人間の知の営み――このなかに芸術上の創造行為も入れられていい――とは、日常生活の惰性化された有り様を超えて、いきいきとした生の回復をもたらすはずのものであった(理論的な素養や技法上の訓練という迂路は必要であるにしても)。まさにその点において、私たち人間の知の営みは、冒険を含んだ<旅>にたいへんよく似ている。」p.ii
・「この第I部「知の旅へ」と第II部「知の冒険へ」は、一口にいえば、それぞれ<哲学的な>原理編と<人類学的な>実践編をなしているということになる。」p.vi
・「控え目な感情は凡庸な人間をつくり、ひとは小心翼々としていると創造的でありえなくなる。これは行きすぎた抑制や禁欲的態度がおちいりやすい陥穽を示している重要な指摘である。」p.6
・「知的情熱としての好奇心とは、とくに、私たちが世界や自然やものごとに向けるつよい関心のことである。そして、知識よりも何よりも関心(インタレスト)こそがあらゆる文化や学問の原動力である、と言えそうだ。関心こそが知を拓くのである。」p.6
・「そういうことを考えると、私たちの躯は旅にあたってもっとも厄介な<お荷物>である。そして一人で外地の辺鄙な場所を旅行していて、急に躯の具合がわるくなったりすると、まったくそのお荷物がうらめしくなってしまう。」p.12
・「旅にあって私たちは、ちがった環境や異質の場所のなかで身をさらしつつ、いろいろなリズムや時間を持った文化や習俗に触れる。これこそ旅の経験そのものなのではなかろうか。  だから、どんなに交通手段が発達し、便利な乗りものができるようになっても、旅の中心は足で歩き、躯で感じることでなければならないだろう。」p.14
・「それにしても、ひとはなぜ物を集(蒐)めるのだろうか。明らかに実用をこえていろいろな物を集めるのだろうか。旅の記念品(スーヴェニア)という面もあるけれど、蒐集にはそれ以上に一種の情熱が働いている。」p.27
・「つまり、人間はいつでも、ほかならぬ自分自身を蒐集しているにほかならないのである。」p.28
・「国の内外を問わず、旅に出かけたときには、できるだけ私はその土地の食べものを食べ、その土地の飲みものを飲むことにしている。」p.34
・「食べものや飲みものの、旅先の現地でうまいと思った味は、その食べものや飲みものそれ自体に属している固有の味であるよりも、その土地のいろいろな食べものや飲みものとの関係のなかで成り立っている味なのではなかろうか。つまり、ものの味とは、もともと一定の具体的な場所(トポス)あるいは空気(雰囲気)のなかでしか、厳密には成り立たないものなのではなかろうか。」p.38
・「そういう意味での<方向>や<方角>についていえば、かつて中学生の頃に読んだ誰かの本のなかに、「プラトンは言った、偉大とは方向を与えることだ」とあったのを想い出す。」p.45
・「まことに記憶と共通感覚との後退・軽視は、近代世界に、また<近代の知>に顕著にみられた特徴である。だがそうだとすれば、それにかわってはなにがあらわれたのだろうか。そこにあらわれたのは、ほかならぬ方法と分析的理性であった。」p.62
・「旅といえば一般には、住み慣れたところからへだたった遠いところへ行くこと、つまり空間的な移動だともっぱら考えられている。しかし私たちは、そのとき実際には、むしろ時間を旅しているのではなかろうか。」p.87
・「このようなわけで、経験としての旅、生きられた経験としての旅では、旅はおよそ物理的な時間の経過のなかでの空間的な一つの点から他の地点への移動などにとどまらない。それは、記憶=過去と期待=未来とによって成り立つ内的時間を孕んだ人間が、土地それぞれの風土や、生活の固有リズム=時間のなかを経めぐることなのである。」p.90
・「そうはいうものの、実際には、同じく断片的知識の蒐集のようなかたちをとっている知のなかで、有意味的な秩序や構造をしっかりもっている場合もあれば、それらがひどく稀薄な場合もある。なぜそういうちがいがあるのだろうか。思うに、そこでものをいうのは、知識や情報を探索し蒐める者の側が、どれだけダイナミックに構造化された内的世界をもっているかということであろう。それは、ミクロ・コスモス(小宇宙)としての私たち一人一人の存在――つまりはコスモロジー――に応じて、自己をとりまく世界を理解し、配列して、ものを秩序づけることになるからである。」p.104
・「台本と即興とは、生活の中の演技、旅の身ぶり、思考の型といった様々の領野に対して適応可能な対比である。そしてこの二つの極が個人のスタイルを決定すると言えるだろう。台本による演技が時には因習的に見えて、即興に基づく演技が新鮮に見えるのは、前者が予測可能な手つづきをふむのに対して、後者が予測不可能な要素を帯びているからであろう。」p.127
・「知の旅を語るのに一般的なスタイルはないと、何度か強調して来た。私たちの時代の特色は、一般論とか教養といったものが、何ら知の道標として頼ることができなくなったというところにある。」p.128
・「本を読む愉しみの大部分は、ある本が前提とする知識の目録を作るところにあるというのが、私の長い間試みている本の読み方である。」p.130
・「ミルチャ・エリアーデの『始原学(アルケオロジー)』とも言うべき宗教史学は、1958年頃の私を捉えはじめていた。まだエリアーデは日本に未紹介であった。」p.139
・「六時の約束のところ、ちょっと遅れてガルシア・マルケスが現れる。写真で想像していたよりも少し小さい。マルケスは現れて握手するなり「君は狂人か」と尋ねたので、「狂人かどうかわからないが阿呆=道化の研究をここ十数年やっているので、狂人とかなり近いところにいるのではないかと思う」と言うと、「よし、合格、君はこれから僕の親友だ」と言った。」p.175
・「私が『道化の民俗学』において試みたのも、象徴・宇宙論的次元の彼方から浮び上がって来る歴史の古層を、より鮮明にする作業(つまり知の旅)であった。」p.191
・「この旅を通して、私たちは、知を、何かそれを身に付ければ少しは利益をもたらしそうなものとは理解しなかった。同時に、それを西欧から密輸入することによって人を威嚇する技術としても理解はしなかった。強いて言えば、私たちは知を「迷う」ための技術として理解しようとしたのかも知れない。」p.207
・「「知」を演劇的な演技(パーフォーマンス)として示すために、旅というメタファが最も適しているという共通の意見が本書の始発の点であり到達点である。」p.212
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【本】レッドドラゴン 決定版

2011年07月07日 19時04分55秒 | 読書記録
レッドドラゴン 決定版 [上][下], トマス・ハリス (訳)小倉多加志, ハヤカワ文庫NV ハ-11-3・4, 2002年
(RED DRAGON, Thomas Harris, 1981)

・怖い映画は苦手なはずが、本作品が映画化されたとき(2002年)は思わず劇場へ足を運んでしまいました。それというのも悪役でありながら圧倒的な存在感を放つハンニバル・レクターの活躍(?)を見たいがため。そんな作品を活字で読んでみるとまた異なる雰囲気を味わうことができます。細かなストーリーなどについての解説は省略。
・書名の「決定版」の意味は、巻頭に「運命的な会見にいたる序文」が付されたことによる。
・「小説を書くときに理解していなくてはいけないことのひとつ、それはものごとをでっちあげてはならないということだ。すべては必ず目の前にある。ただ、それらを見つけ出しさえすればよいのだ。」上巻p.9
・「ジャック・クロフォードは、声こそグレアムだが、その話し方がクロフォード自身の話し方とリズムと構文がそっくりなのに気づいた。彼はグレアムが前にもほかの人たちを相手に、相手と同じ話し方とリズムで話しているのを聞いたことがある。会話に熱中するとグレアムはよく相手の話し方と同じ調子になってしまうのだ。」上巻p.21
・「「ほかに病名のつけようがないから社会病質者(ソシオパス)と言ってる。彼にはそのいわゆるソシオパスの特徴がいくつか見られるんだ。反省心とか罪悪感ってものがまるっきりない。しかも第一の、そして最悪の徴候が見られる……子供と同様な、動物に対するサディズムだ」」上巻p.118
・「「君がわたしを捕まえたわけは、わたしたちが瓜二つだからさ」グレアムのうしろで鋼鉄のドアが閉まったとき、最後に彼の耳に聞こえたのはその言葉だった。」上巻p.145
・「タラハイドは自分が変身するのを助けるためにわざわざ死んでくれる人たちの非現実性を、レクターならわかってくれると思った。彼らは殺すとたちまち消滅してしまう光や空気や色や早い音なのだということもわかっていると思った。破裂する色とりどりの軽気球のようなものだ。彼らの変身が、祈りを捧げながらしがみついている生活より重要なのだということをレクターなら分かっていると思った。」上巻p.195
・「グレアムは保管所の荷箱に腰かけて、その長い報告書を読んだ。アジア研究部の意見では、そのしるしは中国文字で、"当たりだ" ないし "楽勝だ" の意味だ……が、時には賭けごとにも使われる表現で、その場合は "いいてだ" とか "ついている" という合図だと考えられているというのだ。そしてこの文字は麻雀牌にもあって、<赤き竜>を示すものだとそこのアジア学者たちは言った。」上巻p.214
・「「人を殺すってのは――殺さなけりゃならない場合でも――そんなにいやな気持ちになるの?」  「ウィリー、人を殺すってのはこの世の中で最低のことさ」上巻p.273
・「「じゃ、今はほんとのことを言うか? このおれについてだ。おれのする仕事についてだ。おれがこれからなるべき存在についてだ。おれの芸術についてさ、ラウンズさん。これは芸術じゃないか?」  「芸術だ」  ラウンズの顔に恐怖の色を見てとると、ダラハイドはしゃべり放題しゃべり、歯擦音も摩擦音も連発したが、破裂音がいちばん多かった。」上巻p.349
・「おれに較べりゃあんたの命なんざ石の上についたナメクジの通った跡みたいなもんだ。薄くて銀色のぬるぬるした跡がおれの記念碑の文字の上をなぞったりはみ出したりしているみたいなもんさ」上巻p.350
●『『レッド・ドラゴン』/サイコ・ノヴェルの「先の先」』評論家 滝本誠 より
・「ハリス以降溢れかえることになったサイコ系作家のなかで、トマス・ハリスが別格の存在として残ったのは彼の作品がブームを牽引したというばかりではない、ハリスの作品が実に優雅な娯楽性と余裕を感じさせ、何回読んでも飽きがこないところにある。「優雅な娯楽性と余裕」というのがミソだ。」上巻p.358
●以下、下巻より
・「グレアムはこの四十年間、自分が何も学ばなかったような気がした。ただ疲れただけだ。」下巻p.30
・「その週のうちに彼は偶然ブレイクの絵を見たのだ。たちまち彼はその絵に心を奪われた。  《タイム》に載ったロンドンのテイト・ギャラリーのブレイク回顧展に関する記事についている大きく強烈なカラー写真でその絵を見た。ブルックリン美術館はその展覧会のために<大いなる赤き竜と日をまとう女>をロンドンへ送ったのだ。  《タイム》の批評家はこう書いていた――<西欧美術に描かれた悪魔的イメージで、性的エネルギーをこれほどまでに悪夢のように発散させているものはきわめてすくなく……>。ダラハイドはその絵のそうした感じを、記事を読むまでもなく感じ取っていた。」下巻p.92
・「ほかの人たちがはじめて自分の孤独に気づいて恐怖を感じるころ、ダラハイドはもう自分の孤独がどんなものかわかるようになっていた……つまり、ほかの人間とはちがった独特な存在だから孤独なのだということだった。あらたな転換をとげようという熱意のせいで、もし自分がその熱意に取り組み、もしこれまでずいぶん長いあいだ抑えてきた掛け値なしの強い衝動にかられるままに行動したら――その衝動を霊感本来の姿として押し進めていったら――自分はなるべき存在になれるのだと理解した。」下巻p.93
・「ミス・ハーパーがやってくる。ブリーフケースくらいの大きさの平らな黒いケースを持っていた。絵はその中に入っているのだ。彼女のどこにあの絵を運ぶ力があるのだろう? 彼は今まで一度もその絵を立体感のないものとして考えたことがなかった。カタログでその大きさを読んだことはある……縦四十三センチ、横三十四センチ……が、カタログを見た時はそんな点に注意を払わなかった。彼は巨大な絵を期待していた。だがそれは小さかった。小さくて、この静かな部屋の中にある。」下巻p.234
●「邪悪でありながら華麗な存在レクター」ミステリ研究家 オットー・ペンズラ― より
・「しかしトマス・ハリスの最高傑作である『レッド・ドラゴン』は、レクター博士の登場が必要最小限だからこそ傑作なのである。」下巻p.348
●「終わりなき夜に生まれつく」作家 桐野夏生 より
・「『羊たちの沈黙』、『ハンニバル』を読んだ読者は、レクターの生き方が奇妙に時代に一致していることに気付くだろう。『レッド・ドラゴン』が1981年、『羊たちの沈黙』が1988年、『ハンニバル』が1999年、二十年の長きにわたって、トマス・ハリスは食人鬼ハンニバル・レクター博士を書いてきた。レクターが、ただの凶悪犯罪者から名精神医学者へ。そして、美食家の快楽主義者でありながら、騎士道精神を発揮する当世風ルパンへと変貌しているのも、小説が社会の変化を先取りする優れたメディアであることを思えば至極当然のことかもしれない。むしろ、レクターが時代の流れを変えたのだとしたら、これほど愉快なことはない。」下巻p.352
・「本書『レッド・ドラゴン』は、精神分析という科学にも溺れず、自分の繭にも籠らず、他人に無関心でもなく、あらゆる距離感が程良い小説である。そして、呪術的でさえある。そのバランスと野蛮さが本書の魅力であり、シリーズ中、私の最も愛する作品となっている。」下巻p.354
・「ここで、読者は逆説に気付くのである。必死に迷う人間だけが悪の姿を表せることに。ダラハイドの迷いと彷徨が、ダラハイドの悪を一層浮かび上がらせる。同じく迷うグレアム。グレアムの悪はダラハイドとも近い。開くとは弱さである。ハリスが書こうとしている悪とは、男に生まれた人間の本質に最も近い、生物的な弱さであるかもしれない。」下巻p.356
・「では、なぜレクターが人を食らうのか。シリーズの不思議はその点に尽きるだろう。」下巻p.357
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【本】サバイバル英語のすすめ

2011年06月16日 19時00分41秒 | 読書記録
サバイバル英語のすすめ, 西村肇, ちくま新書054, 1995年
・日本人が英語を使いこなすうえでの勘所をまとめた所。単なる「英語入門書」と思って手にとってしまうと、肩透かしを食う内容です。本書の想定している読者の英語のレベルは「日常的に英語でスピーチを行うことができる」程度で、私にとってはついていけないレベル。それでも、「なるほど」と思える記述が随所に見られ、読み物としては楽しむことができました。しかし、その実用性となると??
・「これからの国際競争にサバイバルするための英語とはどうあるべきだろうか? 「書くこと」と「議論すること」がもっと注目されなければならない。「サバイバル」とは、シンパシーのない人をつかまえて、自分の考え方を相手に理解してもらうことなのだからだ。本書はLとRの発音の不正確さ、冠詞の使い形の目茶苦茶、論理展開の弱さなどの日本式英語の弱点を克服し、国際競争を果敢に生き抜いていくためのノウハウの開示、実戦的英語のすすめである。東大駒場の名門授業「サバ英」における最近三年間の講義のエッセンスと魅力を一挙に大公開!」カバー
・「この日本式英語の「くせ」は英語に慣れれば、だんだん緩和されるのだが、最後まで残る致命的欠陥は三つある第一は r と l が聞きわけられず、発音しわけられないことである。第二は冠詞の使い方が目茶苦茶なことである。第三は、一番重要な点だが、自分の考え方を、相手に納得させるような具合に論理的に展開することができないことである。つまり、エルとザと論理が日本式英語の泣きどころである。」p.9
・「日本人は l は発音できず r しか発音できないと思っているが、これはまったくの迷信である。r の時もあるし、l の時もある。」p.18
・「r と l を正しく発音することはたいしてむずかしいことではない。基本に忠実に頭を上げたり下げたりすれば、まちがいっこない。さらにスムーズにやるにはアクセントに気をつければよい。」p.29
・「指摘したい基本的なことは、英語と日本語では、言語の中に占める音の重要性がまるでちがうということである。もう少し一般化していうと、これはヨーロッパ語と漢字圏語の根本的なちがいである。基本的には漢字圏語が目で見て読む言葉であるのに対し、ヨーロッパ語はしゃべる、聞くという音によるコミュニケーションを主体にした言語である。」p.45
・「成功した原因は、話をだんだんもり上げようなどと考えず、つねに一番関心があり興味深い話題をアタマにもってきて話しつづけたこと、必ず具体例、具体的データをあげて話したこと、それがデータの羅列にならないよう、ライバルの対比というしっかりした骨組みをすえて話をすすめたことであろう。」p.62
・「英語がトップへヴィーなら日本語はテイルヘヴィーである。自分が言いたいことは最後にもってくる。」p.69
・「1拍見送ってリズムを取るくせがついている日本人が、1拍目から出るのは相当の努力と勇気を要する。生来的なリズムを否定し、すべて意識的にやる必要がある。」p.71
・「しかし彼らの「ナンセンス」「ミーニングレス」は単純に、文章を読みくだした時、著者のいわんとするところがはっきりとしたイメージとして見えてこないということである。」p.76
・「私はこの時に気がついた。文の末尾がつぎの文の頭をひきだすこと、思考が切れないで流れること、これが彼らがロジカルということではないか。  これに対し、日本人が論理的にしゃべろうとすると、必ず第一に、第二にとやる。」p.84
・「「自分が一番言いたいことをいつでも最初にもってくる」というゴムゾーリ氏のアドヴァイスは、その通り実践してみるとおどろくほど自分の英語が生き生きとしてくる。英語表現のゴールデンルールであるといえよう。しかし、なんでもそうだが、ルールの言葉にとらわれるぎるのはよくない。」p.
・「このようにパラグラフは、叙述、指摘、主張など著者が伝えたいメッセージの単位、それ以上は分解できないまとまり、ユニットである。」p.100
・「いちいち質問者の声は入らないが、聞こえてくる質問に答えて何か言う、それに対しまた聞こえてくる質問に答えるという形で展開するのが英語のスピーチと考えるとわかりやすい。」p.103
・「つまり接続詞というようなものは、日本的名文を書くのには不要かもしれないが、文章表現の重点が事実の正確な記述ではなく、思考過程の忠実な表現であるならば、なくてはならないものであろう。そのためか欧米語での接続詞の重要性は高く、使用頻度も高い。」p.108
・「英語の本のほうが面白いといったのは英語の本のほうが面白く読める表現になっている、そのために努力が払われているという意味である。翻訳するとその魅力はかなり減ってしまうのだが、その翻訳でさえ面白いならば、英語の原文は確実に読み出したらやめられない傑作と考えてよい。」p.123
・「その点で安心なのは店の奥にある Penguin Books である。これは岩波文庫と岩波新書を合わせたような性格をもっていて、文学から化学までプラトンから最近のベストセラーまで真面目な本で話題になるような本はたいてい入っている。」p.124
・「the を正しく使えるようになることは、l を正しく発音したり、ロジカルな英文を書けるようになるより格段むずかしいことのような気がする。」p.155
・「the というのは、著者と同じイメージが正しく読者の頭の中に喚起されているという確信があった時だけ使える冠詞である。」p.175
・「このように固有名詞に the をつけるかつけないかは相当にややこしい問題である。」p.187
・「しめくくりの目的は、別れの場合と同じく、その話の内容を忘れがたいものにすることにつきる。スピーチの場合は話の内容を一言であらわすイメージでもよいし、内容を思い出すための手掛りとなるアネクドートでもよい。」p.202
・「つまるところ、専門家は極めて観念的に外国語とつきあってきたのです。それに対して、西村先生の言葉とのつきあい方は、徹底して実践的です。必要から生まれる知恵があるのです。」p.212
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【本】宮大工千年の知恵

2011年06月01日 19時04分31秒 | 読書記録
宮大工千年の知恵 語りつぎたい、日本の心と技と美しさ, 松浦昭次, 祥伝社黄金文庫 Gま4-1, 2002年
・日本の貴重な古建築の修繕の第一線に携わってきた著者による、寺社などの古建築入門の書。「この道一筋」の職人から発せられる生の声は平易ながら重く、日本が世界へ誇る木造建築技術へよせる情熱がひしひしと伝わってくる。神社巡りを趣味とする者としては興味深い内容が詰まっており、非常に楽しめる本だった。あれもこれもと書き抜きたい記述が多すぎて苦労するほど。気になる点を挙げるとすれば、著者自身による書下ろしというわけではなく、インタビューや講演の内容を編集者(ゴーストライター)が読み易く一冊の本に仕立て上げたような節があるが、たとえそうだとしても本書の価値を落とすものではない。
・「伝統的な日本の寺社建築の美しさの根源は、端に近づくにしたがって緩やかに反っていく、華麗な「軒反り」にあります。そして、昔の大工の知恵と技術が一番詰まっているのも「軒反り」なんです。コンクリートや鉄骨であれば、どんな曲線を作るのも自由自在でしょうが、木を組んで美しい曲線、「軒の反り」を出すにはとても高度な技術が必要になります。」p.2
・「木の文化はよその国から輸入されたものではありません。建築様式は中国の影響も受けていますが、中国から技術が輸入されるよりもはるかに以前から、日本の風土に根ざした木の文化と、木を生かす知恵がありました。」p.3
・「大工の世界には、「雀と大工は軒で泣く」という言葉があります。雀は軒でさえずる、大工は軒で苦労する、という意味です。」p.10
・「たとえば、澄み切った秋空を背景に、すっと軒が伸びている姿はなんとも言えないほどいいものです。その無駄のない線。やさしくて、しかも力強さを秘めた反りの形。これこそ日本的な美だと思います。とくに社寺建築では軒は大事です。」p.10
・「私は日本の建物の強さと美しさが最高のところで調和していたのは中世だったと思います。数多くの中世建築をこの目で見て、また、実際に触れる中で、私はそう思うようになりました。その中世建築の素晴らしさを象徴するのが「軒反り」なのです。」p.14
・「中世建築のいいものは瀬戸内地域に多い。こう言うと、意外な感じを持つ人がいるかもしれませんが、確かに国宝になっている建物の数だけで比べれば、一番多いのは京都、滋賀、奈良を中心とする近畿地域です。(中略)しかし、中世と時代を区切った上で、どの地域にいいものがあるかというと、それは瀬戸内なのです。」p.15
・「ここで建築様式についてちょっと説明しておくと、中世の建築様式には三つのものがあります。天竺様(大仏様とも言います)、唐様(禅宗様とも言います)、折衷様の三つです。」p.16
・「中世の三つの建築様式の中で、もっとも日本的なのが折衷様なのです。この三つの様式で、折衷様が一番広まったのは、やはり、日本的「美」の最高の形がそこにあったからだと思います。」p.18
・「社寺建築は実用一点張りでは困ります。姿からして人の胸を打つようなものであってほしい。それには、人間の目に真っ先に飛び込んでくる軒の形が決め手になる。古の工人はそう考えたのです。  軒反りなどなくても実用上は別にどうということはありません。」p.20
・「中世の日本の建物は、技術から見ても、美的感覚から見ても、世界のどこの国にも負けない、世界最高水準の木造建築だと思います。」p.22
・「ヒノキは木造建築では最高の材料です。しかし、それが手に入らない。ヒノキは植林して育てればいいというものでもないのです。植林をして下草などを綺麗に取ってしまうとすくすく育つけど、そういうヒノキは目が粗いからあまり良くない。雑草や何かがある中で自然に育っていけば、生長は遅いが目のつまったいいヒノキができるのです。そういうヒノキが少なくなった。文化財を後の世に伝えようと思うなら、ヒノキも伝えていかなくてはならないのです。」p.27
・「木の建物は何十年、何百年もつと言っても、何もしないでいいわけではないのです。二百年とか、三百年に一度、しっかり手を入れないといけない。私がやってきた仕事もそれです。しかし、戦後から今日までで、中世建築の修復はあらかた終わりました。大がかりな修理の時期が次にやってくるのは、また百年後か二百年後になるでしょう。」p.28
・「木材をどう加工して、どう組み合わせていくか、それを計算するのが「規矩術」というものです。その規矩術が最高の水準に到達したのも中世でした。近世以降の規矩術はむしろ退化しています。」p.30
・「私が愛用しているのは尺や寸のメモリと、センチやミリのメモリが一緒に入っているステンレス製のサシガネですが、センチやミリの目盛りはあまり使いません。昔の建物はみんな尺や寸でできています。メートル法では仕事になりませんよ。」p.32
・「サシガネには寸法の目盛りの他に、文字の目盛りも入っています。これはサシガネに独特のものです。吉凶を占う目盛りです。」p.32
・「昔の大工さんが建てたものを、いったいどんな風に建てたのか、どんな材料を使っていたのかと詳しく調査しながら、建物を解体し、修理が必要なところは修理して、元の通りに組み立てる。それが私の仕事です。」p.43
・「解体調査の段階では、当然、屋根も解体しますから、そのままでは雨が吹き込んでしまう。そのため、素屋根をかけて、その下で作業を進めていくわけですが、素屋根を作るだけで二億円や三億円はかかります。東大寺の大仏殿を修理した時は、素屋根だけで15億とか20億円とか、かかったと聞いています。」p.44
・「宮大工の仕事は今の人が誉めてくれなくてもいいんです。百年、二百年たってから誉めてもらえればいい。昔の大工さんは、俺が建てたものは、俺が死んだ後も、ちゃんともってくれなくちゃ困る、何代ももたせるんだという気概を持って仕事をしていたんですよ。百年、二百年後の人を意識していた。だから、腕と知恵の限りを尽くして造った。中世の素晴らしい建物もそうしてできたものなのです。」p.48
・「土の上に直接柱が立っていると、どうしても柱が地面から水を吸い上げてしまうんですね。その欠点を克服するために使われるようになったのが礎石です。」p.55
・「現代の鉄筋、鉄骨造りの建物も、「貫」構造の強さには敵わないと、私は思います。たとえば地震にあうとしたら、鉄で造られていたら、ある程度の揺れまでは耐えられるでしょうが、揺れが強すぎる場合は、大きくくずれたり曲がったりして、大きなダメージを受けるでしょう。  ところが「貫」のような木組みで造ってあれば、揺れながらも揺れを吸収していく。イメージとしては葦のようなものでしょうか。」p.62
・「それから、釘の話ですけど、日本の古い建築は釘を一切使っていないとお思いの方もいるかと思いますが、そうではありません。釘はもちろん今の釘とは全然違いますが、和釘といって、使うところにはちゃんと使っています。(中略)古建築の強さの秘密は、釘を一切使っていないということではなくて、この「貫」構造のように、「木は木と組み合わせてこそ生きる」という基本的なことを、しっかりと守っているところにあるのです。」p.64
・「現代の建物を中世の大工に見せたら彼らは驚くでしょうが、驚くのは大きさだけで、その建て方を知ったら首を傾げると思いますね。「なんだ。たいした大きさだが、これでは百年ももたないだろう。腕は俺たちのほうが上だな」というのが彼らの感想になるはずです。」p.67
・「壁の強度の面で言えば、実は土壁が一番優れていると思います。」p.69
・「今の法律では木造建築には筋違を使いなさいということになっていますから、それを破るわけにはいきませんが、私は筋違いは必要ないと思っています。貫のほうがいい。」p.71
・「地震が来ようが台風が来ようが微動だにしない建物を造ろうなどと考えてはいけないと思いますね。地震が来たら揺れ、台風が来たら揺れる。それでいいんです。揺れるからこそ倒れないですむ。」p.72
・「軸部ができたところで、いよいよ屋根の部分を造ります。「斗(ます)」や「虹梁(こうりょう)」、「肘木(ひじき)」などの名前くらいは知っているという人もいらっしゃると思いますが、どれも軸部と屋根の部分の間にあって重要な役割を果たすものです。」p.73
・「その基礎になるのは一間(=六尺。約1メートル82センチ)という単位です。メートル法はありますが、畳も襖も、縦が一間、横が半間という単位で作られていますから、半端な数字では余計な手間がかかてしまう。」p.83
・「中世の大工はどんな発想で建物を考えたのでしょうか。はっきりした証拠があるわけではありませんが、私の考えを言えば、軒下に見える垂木の並びから出発してすべてを考えていくという発想だったと思います。」p.83
・「こういう基準は作る人の美意識によっても違ってきます。ある大工がこの間隔の垂木配置が美しいと思っても、別の大工は別の配置がいいと思うかもしれません。しかし、人によって違うからこそ、面白みも出てくるのです。  言われたとおりに建物を造るだけの大工では、こういうことはできません。」p.85
・「文化財の修理の仕事を長い間続けてきて、つくづく思うことは、理屈でものを見るな、ものそのものを見なくてはダメだということです。頭の中を無にして虚心に見るのです。そうすれば、自ずから、なぜ、そういう形をしているのかがわかる。」p.86
・「古建築を鑑賞する時は、お寺でも神社でも同じですが、まず正面の門や鳥居から入ったほうがいいと思います。近道だからと本堂の脇の駐車場に車を置いて、本堂のあたりだけちょこちょこと見て帰ってしまうようでは、ほんとうの良さはわからないでしょうね。建てた大工さんだって、正面から近づいていった時にもっとも美しく見えるようにしているはずです。」p.88
・「とくに幕末の安政の大地震では西日本を中心にマグニチュード8クラスの激震に襲われましたが、この地震に限らず、五重塔や三重塔が地震で倒れたという話は聞いたことがありません。どんなに強烈な揺れも吸収してしまったからです。」p.91
・「多宝塔とは上層(上重と言います)の塔身が円筒形で、下層(下重と言います)の塔身が四角形になっている塔のことです。  多宝塔を造るのはとても難しいんです。五重塔というのは、各層の作りがほとんど同じなので、そんなに難しくない。下の層から作って、その上に少し小さめに作った上の層を載せていくだけですから。  ところが多宝塔は、上層が円筒計になっているところが難しい。」p.95
・「どこかで多宝塔を見る機会があったら、垂木がどうなっているか、注意して見てみると面白いですよ。もし、扇垂木になっていたら、その多宝塔を建てた大工さんは腕がいいと思って間違いない。その腕のほどをじっくり味わってください。」p.98
・「上手にバランスをとるという意味で塔とよく似ているのが「鐘楼」です。あれだけの重さの鐘を吊り下げるのだから、それこそ頑丈にできているのだろうと思うでしょうが、実は鐘楼自体はそんなにがっちり造られていない。重い鐘を吊り下げて初めて安定するように最初から考えて造られているのです。」p.98
・「私は大工です。だからこの本も大工の話が中心になっている。しかし、大工がいれば建物ができるわけじゃない。いろいろな職人がいなくちゃ建物はできません。とくに古建築の世界ではそうです。」p.101
・「昔の釘なら五百年でも千年でも、もつ。その実例もたくさんある。それが「和釘」といわれる釘です。(中略)とくにいいのは、中世までの釘です。鎌倉・室町時代の釘なら、抜いたものをまた使える。錆もほとんどなくてしっかりしています。」p.102
・「人間の手の仕事には不思議な力があるのです。中世の大工の仕事の跡を見ていると、それがよくわかります。」p.105
・「大工なら「規矩術」は知っています。しかし、私たちが知っている規矩術と中世の規矩術は、根本のところで何かが違っているのではないか。私がそう思い始めたのは、国宝の海住山寺五重塔の修理工事がきっかけでした。」p.106
・「とくに中世の大工はこういうことに繊細でした。四角四面に計算してその通りに作っても、必ずしも心を落ち着かせるような建物ができるとは限らない。むしろ、微妙にバランスを崩したほうが、美しさと安らぎを感じさせるものができることもある。人間の目や意識の、そういう不思議さを熟知していたのでしょう。」p.116
・「どちらが正しいのかは、今は言えません。学者は学者としての根拠があり、大工は大工としての目で、それぞれものを言っているわけですから。そういう意味では学者と大工は、鉄と木のように相性が悪いと言えるかもしれません。鉄と木を組み合わせるのが正しいか間違っているかは、いずれ歴史が証明してくれるでしょう。」p.122
・「建物は水平、垂直だけではない。傾けたり、左右でわずかに寸法を違えてみたり、いろいろな作り方がある。それが中世の規矩術の根本にあった考え方だと思います。また、そのほうが文化としては豊かなのではないかという気がします。」p.124
・「日本に生まれてよかった。私は心からそう思っています。  日本は雨に恵まれて土地も肥えている。おかげで素晴らしい木の文化が生まれた。」p.132
・「中国の技術が輸入されるよりもはるかに古い時代から、日本には素晴らしい建築技術がありました。」p.133
・「こんなに大きな建物を造るためには、それだけの大きさの木がなければなりませんが、かつての日本には巨木が生い茂っていました。天平時代の752年に創建された東大寺の大仏殿には、直径は1メートルを超え、長さが30メートルにも達する巨大な柱が84本も使われていたということです。」p.134
・「法隆寺を始めとする古い建物が今も残っているのは、当時の大工の技術がすぐれていたからでもありますが材料がよかったというのも大きな理由です。とくにヒノキ(檜)は最高です。」p.134
・「木を伐って倒してから運搬にかかるまで、昔は一年ぐらいかけていました。いくらか枝を残したまま倒しておいたのです。そうすると、枝はもう根っこがないことなど知りませんから、生長しようとして樹液を吸う。だが、樹液はもう補充されませんから、ある程度吸ってしまえば樹液がなくなって枝は枯れてしまう。」p.137
・「この風潮は今も続いています。日本の昔からの建築技術もろくに知らないのに、木造建築はダメだと頭から思い込んでいる。そういう風潮です。」p.147
・「法律どおりに家を建てようとすると、昔の大工さんなら呆れるようなこともしなくてはならない。鉄のボルトで柱をつなぐとかね。木と鉄はまったく性質がちがうのですから、そんなことをしていいわけがないのですが、法律でそうしなさいということになっているからせざるをえない。  おかしなところはその他にもたくさんありますよ。」p.147
・「大工という仕事はちょっと損なところがありますね。うまくいっても当たり前で別に誉められるということもないけれど、しくじれば、たちまち、あの大工はダメだということになる。」p.155
・「鉄骨とコンクリート一辺倒になって、昔からの木造建築の素晴らしさが見向きもされなくなった上に、待遇はたいしたことはない。よその土地を旅しながら仕事をしなくてはいけないということでは、若い人が宮大工になるはずがない。そのため、一時、文化財の仕事に入ってくる若い人がすごく減りました。」p.173
・「国も文化財の修理工事にはお金を出しますが、実際に修理をする宮大工がちゃんと生活できるようなところまで面倒は見てくれない。そういうシステムになっていなのです。若い人が興味を持ってくれるのは嬉しいのですが、残念ながら、相当の覚悟がないと宮大工を一生の仕事にするのはちょっと難しいというのが現実だと思いますね。」p.174
・「日本の国は豊かになったし、文化財の保存にもそれなりのお金をかけています。しかし、お金のかけ方がどうもおかしい。そんな気がしてなりません。(中略)職人や木材にしわ寄せがいくようなシステムには誰も手をつけようとしない。」p.177
・「仕事の難しさということで言えば、お寺のほうが難しいものです。」p.196
・「現場の雰囲気を明るく盛り上げる人の力を借りながら、修理工事全体に目配りをして、要所要所を締めていく。腕のいい職人であることと、いい棟梁であることは、また別の脳力が必要なのかもしれません。  しかし、大工の棟梁は、腕前の良さと、仕事の差配のうまさの両方が要求される。」p.198
・「最近は大学を卒業した人が宮大工になりたいと言ってくることもありますが、大学で理屈は勉強していても、それで勉強が終わりだと思ってもらっちゃ困りますね。宮大工は一生、勉強ですよ。」p.207
・「別のお寺では、誰もいないはずなのに、足音のようなものを聞いたこともあります。一緒に仕事をしている人も白いものを着た人を見たという話をしていました。そういう話を聞くと、やはりいい気持ちはしないですね。」p.219
・「とくに職人の世界では頑固はよくても、わがままは絶対に通用しない。」p.225
・「瀬戸内のお寺に行く機会があったらぜひ、中世の大工が残していった建物を見てやってください。そこに世界最高の木造建築技術と日本の美があるのです。」p.226

《チェック本》
西和夫『図解 古建築入門』彰国社
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【本】光触媒とはなにか

2011年04月21日 19時00分17秒 | 読書記録
光触媒とはなにか 21世紀のキーテクノロジーを基本から理解する, 佐藤しんり, 講談社ブルーバックス B-1456, 2004年
・特別強い興味があったわけではないが、『光触媒』のキーワードにどこかひかれるところがあり、手に取った書。その道の専門化が一般向けに書き下ろした光触媒入門書。おそらくは高校程度の物理と化学の知識があれば読みこなせるレベルと思われるが、特に化学分野の知識が薄弱な私にとっては、よく分からないままに読み飛ばしてしまう部分がチラホラ。結果としては、光触媒について分かったような分からないような……という何とも心もとない読後感しか得られなかった。しかし、時間をかけてしっかり読み込めばきちんと理解できるだけの内容を含んだ本であり、また光触媒という最新技術を扱う学問分野について批判的な視点から問題点を明示するなど、内容のオリジナリティの高さを感じさせる点に好感が持てる。
・「近年、光触媒が日本発の新技術として世界中で注目されている。光触媒とは、光があたると化学反応を促進する物質だ。現在、実用化されている光触媒は酸化チタンで、水や空気の浄化、抗菌・殺菌、ガラス窓や鏡の曇り防止、建物外壁の汚れ防止などに広く応用されている。さらにガンの光化学療法も研究されている。」p.3
・「ふつうの触媒がおもに工業用に使われるのと違って、光触媒は一般消費者が使うことが多い。そのため、一般向けの光触媒の解説書がたくさん出版されている。どれもたいへんわかりやすく書かれているのだが、触媒研究者から見ると、いくつか気にかかることがある。」p.4
・「そういうわけで本書には、光触媒をあれにも使える、これにも使える、といった応用の話はほとんどない。その代わり化学反応と触媒、固体物性、光と物質など、基礎的な話からはじめて、光触媒反応のメカニズムに力を入れて書いた。そして実用化されている酸化チタン単独の光酸化の仕組みだけでなく、白金などをつけた時におきる光電気化学反応についても詳しく解説した。  光触媒の基本的なメカニズムについて、本書で正しく理解していただければ幸いである。」p.5
・「光触媒とは、光があたると触媒となる物質のことだ。触媒は化学反応を促進する物質だから、光触媒は「光を使って化学反応を促進する物質」ということになる。」p.14
・「「光のいらない光触媒」というものが市販されているらしい。光がいらないのなら通常の触媒で、なぜそれをわざわざ「光触媒」と断るのかよくわからない。」p.22
・「この総説は1950年代以降の光触媒に関する文献を網羅している。そこには酸化亜鉛や酸化チタンが光触媒となること、光触媒による光酸化反応は活性炭素の生成によるものであること、酸化酵素として原子状酸素もできること、などが書かれている。  この総説を読む限り、管(孝男)先生のグループの光触媒研究は、当時、諸外国のレベルをこえていたと感じられる。今日、われわれが持っている光触媒に関する知識とさして変りがないほど、当時の光触媒の研究は進んでいた。光触媒に関する研究は昔からわが国のお家芸だったのだ。」p.27
・「酸化チタンは昔から白色ペンキや化粧品の材料として使われている。食品添加物(おもに白色の着色料)としても認可されており、安全な物質である。  ただし光触媒用の酸化チタンを直に体に塗りつけてもよいというわけではない。」p.33
・「化学反応とは、一つまたは複数の物質が、原子を組み換えてより安定な他の物質に変化することである。そして触媒とは「それ自身は変化することなく化学反応を促進する物質」である。  身の回りにあるプラスチック、化学繊維、医薬品等の化学製品は、ほとんど触媒を使った化学反応でつくられている。」p.38
・「じつは化学反応は逆方向(生成物から反応物への方向)にもおこっている。たとえば酸素(O2)と水素(H2)を化合して水(H2O)をつくる反応でも、水ができる一方で、できた水が再び酸素と水素に分解しているのだ。ただし水ができる反応が圧倒的なので、酸素と水素への分解は見えないのである。」p.40
・「触媒反応には、(1)反応物の吸着、(2)触媒表面上の反応、(3)生成物の脱離、の少なくとも三つの過程がある。」p.43
・「触媒が化学反応を促進するのは「反応の活性化エネルギーを低くするから」と、たいていの化学の教科書には書いてある。では、触媒がどのようにして活性化エネルギーを低くするのか。」p.47
・「酸素分子は、酸化されたり還元されたりすると活性酵素になる。触媒でも光触媒でも、酸化反応はまず酸素分子や水から活性酸素ができ、それが他の物質と反応しておこる。」p.56
・「酸素分子は、他の分子と比べてちょっと変わった分子だ。酸素原子は不対電子を二つ持っているから、二つの酸素原子が共有結合して酸素分子になっても、あいかわらず不対電子を二つ持つ。そのため、酸素分子は他の分子に比べると反応性に富んでいる。」p.26
・「ちなみに、酸化チタン光触媒は触媒毒を強く吸着しないので、失活することなく室温で有機物を酸化できる点が優れている。」p.61
・「光触媒の研究の現段階は、触媒研究の初期に似ている。さまざまな手法を駆使して、反応や表面の情報を集めるより先に、推定で反応のメカニズムが書かれる。推定で書かれた論文が引用され、推定が事実であるような顔をして一人歩きをはじめる。酸化チタン光触媒上の光酸化反応や活性酸素がその例だ。」p.64
・「光触媒の研究には実証主義が欠如しているように見える。活性酸素の反応性にしても、簡単な実験でわかることなのに実験をしない傾向がある。」p.65
・「光触媒を基本から理解するためには、少し回り道でも、半導体と光の性質を知っておく必要があるのだ。  現在、実用化されている光触媒は、酸化チタンを絶縁体のまま単独で使っている。その酸化チタンに光があたると、電子が励起して正孔ができる。そのため吸着した酸素が活性酸素になって有機物を酸化・分解するのである。  ただしこれは「はじめに」でも述べた「古いタイプ」の光触媒の仕組みだ。これに対して「新しいタイプ」の光触媒では、酸化チタンに白金をつけてある。水中で光があたると、酸化チタンからは酸素が、白金からは水素が発生する。その仕組みも励起電子や正孔の働きによる。」p.68
・「このように、真性半導体と絶縁体の違いは、バンドギャップの大きさだけで決まるが、その境界値がはっきり決められているわけではない。」p.73
・「どんなにエネルギーの高い光で活性酸素をつくっても、それに対応した高いエネルギーの酸化反応がおこるわけではない。活性酸素の反応性は、活性酸素の種類とそれをつくった触媒の吸着力によって決まるのである。」p.80
・「「光触媒」などつい最近まで聞いたこともなかったという人が多いだろう。しかし、じつは大昔から身近なものである。  たとえば、緑色植物が水と炭酸ガスと光から炭水化物と酸素をつくる光合成がそうだ。光合成は、植物体がもつクロロフィル(葉緑素)の働きによる。クロロフィルはまさに光触媒なのである。」p.84
・「先に書いたように、広い意味では光触媒反応も光化学反応に含まれる。しかし光化学反応というと、ふつうは反応物が直接光を吸収しておこる反応を指す。一方、光触媒反応とは、触媒が光を吸収して反応を促進する反応をいう。」p.89
・「ホフマン教授らが提唱する光触媒反応の仕組みでもっとも問題となるのは、光化学増感と固体の光触媒反応をまったく混同していることである。」p.109
・「ホフマン教授らの論文を根拠とする光触媒=光化学増感剤説は、いまや世界中に蔓延している。レーザーを使って行う水溶液中の光触媒反応の研究はほとんど彼らと同じ手法を使っている。そして、彼らの書いた光触媒の仕組みは世界中の通説になった。筆者らの原子状酸素説は多勢に無勢だ。科学の真実は多数決で決めるものではないが、ある時点では多数決なのである。  学生たちにはよくいっていることだが、本や論文に書いてあることを鵜呑みにしてはいけない。どんなに著名な学者が書いた論文でも、引用数が非常に多い論文に書いてあることでも、すべて正しいわけではない。内容を批判的に読むことが大切だ。  もちろん、本書に書いてあることも批判的に読んでいただきたい。」p.111
・「触媒によって化学量論が成り立たない反応がおこったと学会に発表すれば、物笑いになるだろうし、その論文が学術誌に受理されるはずもない。ところが不思議なことに、光触媒ではこれがまかり通るのだ。光触媒がなにか魔力を持ち、ふつうにはおこらないことがおこると思わせるらしい。」p.124
・「植物の光合成は光触媒の究極の目標ではあるが、光触媒によって水から水素をつくり、後は触媒にまかせればよいのではないだろうか。」p.125
・「ホンダ・フジシマ効果は光による水の電気分解だ。このように電気が関わる化学反応を電気化学反応という。」p.138
・「ほとんどの光電気化学型光触媒反応において、ルチル型酸化チタンの活性は、アナタース型より低い。これは、ルチル型酸化チタンの伝導帯下端の電位がアナタースのそれよりもプラス側にあるため、電子の還元力が弱いからである」p.180
・「室内の光は野外より格段に弱い。室内の写真を撮るには、昼間の明るい時でも野外の写真よりシャッター速度で約四倍、さらにレンズの絞りで三~四段、露出を増やさなければならない。すなわち室内の光量は野外の三〇分の一以下ということである。  夜間の照明下では、昼間の室内光強度のさらに一〇分の一以下になる。」p.188
・「いろいろな物質を混ぜれば新しい光触媒ができるだろいうという安易な開発指針は、時間と経費の無駄になるだけだ。混合物と化合物は違う。新しい光触媒の開発は新しい光伝導物質の合成が必要だろう。酸化チタンを越える性能の光触媒が開発できるかどうかは、現在の科学ではまだ予測できないというのが本当のところなのである。」p.200
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【本】新しい人よ眼ざめよ

2011年04月08日 19時00分15秒 | 読書記録
新しい人よ眼ざめよ, 大江健三郎, 講談社文庫 お-2-6, 1986年
・"僕" とウイリアム・ブレイクの詩と障害を持つ息子 "イーヨー" を中心とした家族との関係をテーマにした小説。連作短篇を七篇収録。大佛次郎賞受賞作。
・ブレイクの作品といえば画の方が印象が強く、その詩についてはまったく馴染みが無い。本書により多少詩の方にも興味がわいたが、小説自体としてはいまいちピンとこない内容だった。
・カバー絵はブレイク作「ジェルサレム」七四より。
・「免税売場で買ってきたウイスキーを飲んでいた僕は、とうとう食卓から立ちあがって、妻たちがビクリと緊張するなかを、息子がいまはナイフを斜めに刺しこんだふうに躰を延ばしてよりかかっている、ソファの前へ出かけて行った。息子はその恰好のまま、ハーモニカの片端に両手をかさねて握りしめ、笏のように顔の前に立てて、その両側から僕を見あげた。その眼が、僕を震撼したのである。発熱しているのかと疑われるほど充血しているが、黄色っぽいヤニのような光沢をあらわして生なましい。発情した獣が、衝動のまま荒淫のかぎりをつくして、なおその余波のうちにいる。すぐにもその荒あらしい過度の活動期に、沈滞期がとってかわるはずのものだが、まだ躰の奥には猛りたっているものがある。息子はいわばその情動の獣に内側から食いつくされて、自分としてはどうしようもないのだという眼つきで、しかも黒ぐろとした眉と立派に張った鼻、真赤な脣は、弛緩して無表情なままなのだ。」p.19
・「僕はいま旅の間に始った勢いにしたがって、ここしばらくブレイクを集中的に読みつづけようとしている。具体的にそれにかさねて、世界、社会、人間についての定義集を書いてゆくことはできないだろうか? それも今度は、息子やその仲間らに理解されうる文章でということは考えにいれず、まずいまの自分に切実な要素となっている定義が、どのような経験を介して自分のものとなったか――そしてそれをいかに強く、無垢な魂を持つ者らにつたえたいとねがっているかを、小説に書いてゆくことをつうじて……」p.27
・「もしこの下宿があのような「場所」に建っているとしたら、自分がこの娘を性器から喉もとまで竹串で刺すこともありえたのだと、頭がジンとするような恐怖感と、捩じ曲った、暗い情動の渇望をいだいたのである。僕はいかに森のなかの谷間へ、あらゆる「場所」の意味が自分の肉体と魂とに知りつくされているところへと、帰りたかったことだろう……」p.134
・「つまり僕は青春期のはじまりに大学の図書館でかいま見たブレイクの、その一ページに印刷されていた詩行から、自分の言葉にいいかえることでのみ、この二十五年近く小説を書いてきたようではないか?」p.145
・「たとえばイーヨーに障害がなく、いま大学の二年生で、僕にこう問いかけてくるとする。――お父さん、あなたの今現在のもっとも正直なところとして、死についてどう考えていますか? 僕に定義してください。あなたがこれまでに書いた死の定義をすべて読んでみたが、納得がいきませんから。僕が余裕を持っていながら、あなたを追いつめるためにだけこういっているのではありません。困っているのです。救けてください、あなたのいまの年齢であなたとしてかちとっている、死についての定義を示すことで…… このように問いかけられれば、僕は知能健全な息子に見つめられたまま、ただもの思いに沈んでいるというわけにゆかぬはずだ。」p.147
・「いまも現に僕が素人の独学としてブレイクの、それも予言詩(プロフェシー)の錯綜したシンボルの森に入りこむのである以上、さらに新しいあやまちをおかしてもいよう。むしろブレイクを読みかえしつつ、自分として喚起されることの強かった誤読を自覚しうるごとに、僕はそのように誤読した際の自分について、新しい発見をするはずのものであろう。僕はいまブレイクを死の時のいたるまで読みつづけてゆく詩人のように感じるが、それはつまり死へ向けての自分の生き方へのモデルを、ブレイクを媒介に想定しうるかもしれぬということだ。」p.160
・「イーヨーが好んで見る番組だが、司会役のコメディアンの設問に、落語家たちがシャレによって解答する。良い解答と判定されると座蒲団があたえられる。その運び手の、鬚面、赤ら顔の巨漢を、毎回はじめに司会者が、グロテスクな飛躍のある滑稽なメタファーで紹介するのである。それを楽しみにしてきたイーヨーが、NHKのスポーツ・ニュースを担当している、童顔で眼のパッチリした、しかし禿げあがってもいるアナウンサーを、「スポーツにくわしいキューピーちゃん」と呼んだのだった。」p.178
・「僕は夕暮れから体育クラブのプールで千メートルをクロールで泳ぎ、帰って来て眠るための酒を飲みはじめる。もう七年ちかく日課としてそうしている。」p.248
・「障害を持つ長男との共生と、ブレイクの詩を読むことで喚起される思いをないあわせて、僕は一連の短篇を書いてきた。この六月の誕生日で二十歳になる息子に向けて、われわれの、妻と弟妹とを加えてわれわれの、これまでの日々と明日への、総体を展望することに動機はあった。この世界、社会、人間についての、自分の生とかさねての定義集ともしたいのであった。」p.255
・「したがって僕がいま書いているこの短篇は、ブレイクと息子についての小説であるとともに、「雨の木(レイン・ツリー)」小説のしめくくりをなすものとなりうるかもしれない。「雨の木」のなかへ、「雨の木」をとおりぬけて、「雨の木」の彼方へ。これらの言葉を書きつけながら、僕はほかならぬ自分とイーヨーの死について考えていたのだ。すでにひとつに合体したものでありながら、個としてもっとも自由であるわれわれが、帰還する…… 僕とイーヨーがそのようにして死の領域に歩みいり、時を越えてそこにとどまる。このヴィジョン自体からの返照がおよんでくるように、いま現在の僕とイーヨーの共生の意味があかるみに浮びあがる。」p.265
・「レインは「神なる人間性(ディヴァイン・ヒューマニティー)」の集団的な存在という概念が、『四つのゾア』にもあらわれているとして、《世界家族のすべてをひとりの人間として》あらわすイエス、という詩句をあげ、『最後の審判』はまさにそのブレイクの霊的な宇宙を――つまりひとりの人間によってなりたつ宇宙としてのイエスヲ――描きだしたものだと見ている。森のなかの分子模型の硝子球の――それを細胞といいかえてもよいのであるが――無数のむらがりと、同時にその総体としての壊す人をめぐって、僕が感じ考えてきたことを、レインの分析につきあわせれば、まことに多くの意味が明白になる。僕のヴィジョンに欠けていたところがあるとすれば、壊す人つまり救い主、イエスの肉体がもとどおりになる日こそが、「最後の審判」の日だという思想のみであっただろう。」p.279
・「大学に入ってすぐの僕が、まだブレイクのものともの知らぬまま深い衝撃を受けた一節、《人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかねばならぬ/そこからやって来た暗い谷へと、労役をまた新しく始めるために》という詩句は、人間の肉体が織り出される洞窟で、繰りかえし地上に堕ちねばならぬ魂を悲嘆する歌だったのだ。」p.280
・「――イーヨーと生活していることは、ちょうど二人分生きているということだから、と妻は自分のこととして、それも明るく解放されている休暇中の人間の声で答えた。」p.302
・「イーヨーは地上の世界に生まれ出て、理性の力による多くを獲得したとはいえず、なにごとか現実世界の建設に力をつくすともいえない。しかしブレイクによれば、理性の力はむしろ人間を錯誤にみちびくのであり、この世界はそれ自体錯誤の産物である。その世界に生きながら、イーヨーは魂の力を経験によってむしばまれていない。イーヨーは無垢の力を持ちこたえている。」p.305
●以下、解説(鶴見俊輔)より
・「この小説は、主として主人公の家庭の内部をえがきながら、1980年代からさらに暗いふたしかな未来にむけて生きる新しい人にむけて書かれた社会小説である。  未来に生きる新しい人のわきに、もうひとりの若者として再生する自分を立たせる、その想像の中に、主人公はみずからの家庭をおき、世界をおく。」p.314

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【本】「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち(2006.11.28)
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【本】「ことば」を生きる

2011年04月01日 19時08分26秒 | 読書記録
「ことば」を生きる 私の日本語修行, ねじめ正一, 講談社現代新書 1187, 1994年
・著者の子供時代からの「ことば」との奮闘の記録。ひたすら個人的な半生記の形はとっているが、詩に疎い私にとっては恰好の詩の入門書になった。「"詩" ってなんだかよく分からない……」という気持ちは揺るがないが、それに触れる抵抗はいくらか減った気がする。
・あれこれ分野を散らして読んでるつもりではいるが、一向に食指が動かないジャンル、"詩"。これまで当ブログ記事に登場したのも『悪の華』(ボードレール)が(たぶん)唯一という有様。もう少し近寄ってみてもいいのかな、とは思うが、むしろ自作した方がずっと楽しいのかもしれない。

『私と死と詩と 耳を澄ませば 雨の音』 ぴかりん作

おそまつ。

・「私の「ねじめ」は本名だ。漢字で書くと「禰寝」だが、この歳になるまで初対面の人で「禰寝」を「ねじめ」と一発で読めた人はいない。」p.10
・「自分の頭の悪いのを棚に上げて言うのもおかしいが、私が小学校三年生まで、通信簿の成績がオール1に近かったのも、「禰寝」ということばの刺激が強すぎて頭の中が腸捻転を起こしていたせいだなどと、こじつけてみたくもなるのである。」p.12
・「私は小学校六年のとき「ダジャレ王」と呼ばれていた。(中略)仕事のようにダジャレを考え、思いつくとノートに書き留めた。  なぜこんなにダジャレに夢中になったかと言えば、授業中に何気なく言ったダジャレがクラス全員に思いっきり受けたからである。そのダジャレは、

 ゴジラさんゴジラへどうぞ

というのだった。
」p.14
・「私の目ざす詩は「ゴジラさんゴジラへどうぞ」である。  私は自分の書いた詩で、読者に笑い転げてほしい。ユーモアとかエスプリとか、笑ったあとに人生の含みを感じたりする笑いではなく、体操みたいにただ笑い飛ばしておしまい、ということばが書きたい。」p.17
・「「早朝ソフトボール大会」では、生活にせっぱつまっていた私は、そのせっぱつまった自分自身をどうにかしたくて、ことばにすがりついたのであった。私にすがりつかれたことばは、ことば本来の自由を失って、ちぢこまってしまった。<決めつける>とはそういうことだ。鈴木志郎康さんは、そのことを批判し、「ことばをもっと自由に解放せよ」と言ったわけだ。」p.46
・「ここまで読んだ読者の中には、じゃあ自分の気持を詩に書いたらいけないの?――と戸惑っている人もいるだろう。いや、書いていいのである。ただ、詩の場合は、他人に自分の気持を伝えようとしてことばを使ってはいけない、ということである。じっさいのところ、他人はあなたの気持ちなんかには興味がないのだ。日記に書く詩ならともかく、他人に読んでもらおうとうする詩では、ことばになまの自分を押しつけないことが必要最低限の礼儀ではないだろうか。」p.47
・「ふんどしだけをして、便器に跨って朗読をはじめると、まず自分の詩のことばの強さがわかる。肉体がすっぱだか状態なので、朗読している詩のことばもすっぱだか状態になって、すっぱだかなあまりに自分のことばがお客の視線に敏感に反応している。」p.65
・「ことばと肉体は、じつは同じものなのではないか。満員電車に肉体がぎっしり詰め込まれているように、ことばをぎっしり詰め込む詩はできないだろうか。詩という箱の中に、これでもかこれでもかとことばを押し込んで、ことばがぎちぎちになって、意味も余白も立ち入る隙のない詩をつくりたい――。  私の詩はどんどんそっちへ向かっていった。」p.66
・「詩のことばは、その「見られている自分の肉体」と同じ強度を持っていなければならない。同じ強度を持たなければ詩のことばにならない。」p.71
・「泣き虫でなくても詩は書けるが、自分のことが好きでない人間には、詩は書けないのではないか――自分勝手にも、私は内心そんなふうに思っている。」p.89
・「狭いが、狭いところをもうひとつ見きると、すごく遠くの広い世界が見えてくる。」p.109
・「私の理想の詩は比喩がなくてもきちっと詩のことばとして立っている山之口貘のような詩である。」p.114
・「詩とは、崩れていく自分をもう一度こちらに引っぱり戻すチカラなのかもしれない。自分に必死になることかもしれない。」p.160
・「解釈しなければわからないことばなんて未熟なだけだし、文章から書かれてある以上の意味をさぐるのはバカらしい。今の私はそう思っている。」p.164
・「不思議なもので、詩はひとつがわかると、他の詩もどんどんわかってくるようになる。最初の詩がわかるまでに一ヶ月かかったとすると、次の詩は一週間ぐらいでわかる。その次の詩は一日でわかるようになり、しまいには一回読んだだけでスッとわかるようになる。」p.166
・「ことばでいちばん大切なのは、正確ということだ。このことはこのことばでしか顕せないという、その一言でピタッと表現しなければならない。そういうことばを見つけてこなければならない。だが、ことばはそう簡単には見つかってくれない。」p.167
・「長篇書き下ろしは遠くを見ながら足元も固めていくという油断も隙もない芸当を必要とする。  小説家にとって、処女作は、恐いもの知らずというか、勢いと書きたい気負いで書けてしまうが、書き下ろしとなるとそうはいかない。私の処女作『高円寺純情商店街』の場合も物語りのうねりよりも乾物屋のディティールにこだわって書くことができた。」p.205
・「詩のことばはテレビのギャグよりも得した気分にさせてくれるのだから、まだまだ捨てたものではないと思った。」p.213

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【本】増補 戦後写真史ノート

2011年03月10日 08時00分56秒 | 読書記録
増補 戦後写真史ノート 写真は何を表現してきたか, 飯沢耕太郎, 岩波現代文庫 文芸132, 2008年
・日本の戦後の写真文化についてまとめた書。1945年から1990年代までをほぼ10年ごとに区切り、五章にわたってその流れを概観する。
・私のような入門者でも無理なく読み通すことができ、内容がよくまとまっています。質の高い内容で、もしどこかの学校で『日本戦後写真史』なる授業があったならば、その教科書として使えそうな雰囲気。
・「本書は、さまざまな可能性を孕んだ写真というメディアを、第二次世界大戦後の日本の写真表現という切り口で記述しようとする試みである。」p.iii
・「そして同年十月十八日、大阪朝日新聞社講堂で開催された「新体制国民講座」において、安井(仲治)は「写真の発達とその芸術的諸相」と題して講演する。写真術の草創期から彼の同時代の写真まで、自作三点を含むスライド三十四点を上映しながら行ったこの講演は、その迫力で聴衆を圧倒したという。  写真は単純な故に入り易い。しかし達し難い。それを補ふのは区々たる技術以上に全人格をかけて「道」としてこれを行はなくてはならぬ。古から文は人也と申すごとく、芸術も結局は人に帰するのであるます。しかも単純なものほど人に帰する点が多く、技術でごまかすことは出来ないのであります。  しからば卓上一個の果物を撮る人も、戦乱の野に報道写真を撮る人も「道」において変りはないのであります。  ここにはまさに彼が全生涯を費やしてつかみ取ってきた、写真表現への強い思いがほとばしっているように感じる。」p.16
・「『週刊サンニュース』「岩波写真文庫」時代を通じて、名取洋之助の写真に対する考え方は見事に一貫している。「記号としての写真」、すなわち明確な意味(メッセージ)を伝達し、読みとらせる視覚的記号としての写真の追求である。意味の伝達のためには、個々の写真を組みあわせ、物語(ストーリー)として構成しなければならない。一枚一枚の写真は、紙面に配置(レイアウト)され、互いに結びついて物語を生み出す素材として扱われる。基本的には誰が、どんなふうに、その写真を撮影したかは問題にならない。写真家の役割は、独自の視点を打ち出すことよりも、企画・編集者(つまり名取洋之助)の意図を、正確に視覚(ヴィジュアル)化することにある。」p.28
・「写真はいわば、見るものから、読むものへと変わりつつあります。何枚かの写真が並べられ、それらが語っている物語が問題になりつつある今日、一枚一枚の写真の技を観賞することは、能において能面だけを勧賞するのと同様、まったく別な立場からものを見ることになってしまったのです。美術品としての能面と、演劇の一つである能というものの見かたが、はっきりわかれたのです。この段階になれば、もう写真のよしあしがわからないなどと、心配する必要はありません。誰もが能面の彫刻としての芸術性を云々する必要はないのです。映画を見に行った時のように、また手紙を読むような気持で、写真を見ればよいのです。  名取は能面のように「勧賞」することで成立する写真を、「お芸術」と呼んで徹底的に嫌っていた。」p.28
・「リアリズム写真運動が戦後写真を大きく転回させる契機となったことは間違いない。1950年代前半において、その影響力は絶大なものであり、アマチュア写真家たちは競いあうように社会現実をモチーフとする作品を制作し、カメラ雑誌上では熱い論争が戦わされた。杵島隆、福島菊次郎のようにアマチュアからプロに転向する者もあらわれ、東松照明、川田喜久治のような次代を担う写真家も、この運動のなかから登場した。」p.36
・「「要するにさびしさを思想化することだ」と、東松照明は写真集『太陽の鉛筆』(毎日新聞社、1975)におさめた文章で書いている。(中略)この簡潔な断定は、しかし奇妙に強い力で読む者を打つ。東松がこの時期に、写真という媒体を通じて為しとげようとしていたことが、この一文に凝縮しているようにすら思える。」p.102
・「だが浅井(愼平)には、広告写真が時代を動かしていくのではないかという "夢" に同調するとともに、所詮は泡のように生まれてはきえていく流行に乗せられているだけではないかという、醒めた意識もあったようだ。」p.150
・「70年代までは、クリエーター個人が自由な発想で仕事を進めていく余地があった。だが80年代以降は大手の広告代理店の力が強まり、マーケティング戦略が優先されるようになるのである。たしかに広告の規模は拡大し、予算も大きくなっていく。だがデジタル化が進み、経済効果が優先されることで、その中で写真家が果たす役割は、総体的に縮小しているといえるのではないだろうか。」p.155
・「いうまでもなく祭りの時空間こそ、"旅" につきまとう日常と非日常の反転、現実と幻想の交錯が最も激しくおこなわれる場である。祭りを撮影の対象に選びとることによって、須田(一政)の "旅" は空間を横に移動するだけでなく、時間軸に沿って垂直にさかのぼるような視点を手に入れたといってもよい。すなわち、祭りにおいて、人々は型として引き継がれてきたはるかな過去の生形式に触れ、死者たちと直接交流するような時空に入りこんでいる。"旅" の時間に、死者たちの時間としての歴史がまぎれこんでくるのである。」p.165
・「作家が、芸術化が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊しはじめたのだ。そしてそこから必然的に世界を芸術化がもつイメージの表出と考える芸術観もまた突き崩されざるを得ないのは当然のことである。そうではなく世界は常に私のイメージの向こう側に、世界は世界として立ち現れる。……世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。  世界を写真家の主観的なイメージで染めあげることを否定し、世界に対する人間の敗北を「絶対的に認める」ところから出発しようとする中平(卓馬)の反近代の姿勢は、社会・文化の枠組が大きく揺さぶられていた60年代―70年代初めの時期に特徴的な思考法といえる。それはまた「商品の氾濫、情報の氾濫、そして事物(もの)の氾濫」がより徹底的に拡大し、「世界の中心」が失われていく、80年代の "ポスト・モダン" の状況を先取りする言説だったといってもよい。」p.194
・「1980年代以後「現世中立な客観報道」の神話は、ずたずたに引き裂かれてしまった。あくまで "私" の視点にこだわる方法論が、それぞれのやり方で編みあげられなければならないのである。」p.224
・「"男性原理" 的な写真というのは、現実世界を自分の価値観で論理的に "異化" し、コントロールしようとする写真のあり方である。それに対して "女性原理" 的な写真においては、写真家たちはむしろ世界をそのままの形で受容し、そこに感情的に "同化" しようとする。1970年代の「私写真」(それを「女の子写真」の先駆と見ることもできる)に既にあらわれていたことだが、そこでは "私" の身体性が強く打ち出されてくる。(中略)被写体との距離感も重要である。冷静に、一定の距離を保つ "男性原理" 的な写真に対して "女性原理" 的な写真ではその距離はできるかぎり詰められる。よくいわれくことだが "半径五メートル以内" にある被写体だけで成立する「プライベートルーム」が、写真を撮影する重要なテリトリーとして浮上してくる。」p.265
・「僕は2004年に『デジグラフィ デジタルは写真を殺すのか?』(中央公論新社)という本を上梓した。「デジグラフィ(digigraphy)」とは「フォトグラフィ(photography)」に対応する造語であり、「デジタル化された画像の使用、および表現のプロセス全体」をさす。アナログからデジタルへという流れを受け、その時点でのデジタル表現のあり方について、自分なりの中間報告をまとめてみようと思ったのである。」p.268
・「小林(のりお)のようにウェブサイトやブログに "写真日記" を発表している写真家はたくさんいる。だがそのほとんどは、退屈な画像の垂れ流しになっている。「digital kitchen」が新鮮な緊張感を保っているのは、彼が「クリックする度に消えていく写真、非物質的な流動性、構築をしながら解体を繰り返すイメージ」(「写真の夢」artbow.com)という「デジグラフィ」の消去性をよく認識し、そのことを具体的な表現の契機として鍛え上げていこうとしているためだろう。デジタル時代のスナップショットの可能性を、ウェブサイトという場で実践しようとしているのだ。」p.272 はじめの一文にドッキリ。
・「本書は中公新書『戦後写真史ノート――写真は何を表現してきたか』(1993年1月、中央公論社巻)に、I章の1、III章の5、IV章の4、V章を新たに書き下ろして加え、一部章構成の入れ替えを行った増補改訂版である。」p.291

《チェック本》
名取洋之助『写真の読みかた』岩波新書
飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』講談社現代新書
飯沢耕太郎『写真を愉しむ』岩波新書
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【本】へんな虫はすごい虫

2011年03月02日 19時30分12秒 | 読書記録
へんな虫はすごい虫 もう "虫けら" とは呼ばせない!, 安富和男, 講談社ブルーバックス B-1073, 1995年
・不思議な昆虫の生態について紹介する、一編につき2~3ページの短編を計72編収録。虫についての興味深い話は随所に見られるものの、他の文献より "面白話" を寄せ集めてまとめただけというような印象も強く、オリジナリティはあまり感じられない内容です。情報の鮮度という点では今一歩。
・常人なら見向きもしないような小さな虫を、よくこれだけ微細に渡って調べる人間がいたものだと感心させられます。私も子供の頃は虫好きで、"昆虫博士" の異名をとったものですが、年を重ねるとともに虫から遠ざかり、今ではほどんど触ることすらできなくなってしまいました。
・「松本零士作のアニメ映画「1000年女王」にはおよばないが、オーストラリアにすむナルティテルメス・シロアリの女王は成虫になってから100年も生きる。百獣の王・ライオンが30年の寿命しかないことを考えれば、人類の平均寿命をこえるこの100年女王はとても昆虫とは思えない長寿者である。「カゲロウの命」というたとえのように、カゲロウの仲間は成虫になるとわずか一日ではかなく消え去ってしまう。ショウジョウバエの一生はたった二週間、春から夏にかけてのモンシロチョウの一生は約50日、昆虫界の王者の貫禄をもつカブトムシの成虫でさえもっとも長生きして130日というぐあいに、昆虫類は一般に寿命が短い。」p.16 本文の書き出しは寿命の話から。
・「女王は100年もの長いあいだ、命あるかぎり卵を産みつづけるので、一生の産卵総数は50億個にも達するという。これも昆虫界ナンバーワンである。」p.17
・「シロアリはアリと和名が似ているので、アリの仲間と誤解されやすいが、類縁関係は遠い。シロアリは古生代に現れた昆虫でゴキブリに近い。一方、アリの方は中生代の終わりに現れた膜翅目(ハチの仲間)の昆虫で完全変態をする。しかし、いずれも女王を中心にした社会生活を営み、役割分担を整然とおこなっている。まったく違うグループなのに、社会性昆虫として両者ともこれ以上発達しようのないところまで行きついているのは実に興味深い。」p.17
・「ウスバカゲロウの幼虫アリジゴクは2~3年がかりで育つが、そのあいだ肛門は閉じたままで一度も排泄をしない。」p.22 最近この説を覆すような発見を子供がしたとかなんとかでちょっと話題になったような。
・「人々が光源に利用する電気の周波数(サイクル)も、東日本は50ヘルツ(一秒間に50回の波をもつ交流電気)、西日本は60ヘルツという違いがある。糸魚川―静岡構造線によるホタルの地理的隔離とは異質なはずの周波数の境界がほぼ符合しているのは面白い。」p.46
・「これらの行動の引き金になった気象条件の主役は湿度の上昇、ついで気圧の変化などと考えられる。大脳が進化しなかったかわりに感覚の世界に生きる昆虫は湿度感覚も発達している。湿度の受容器は人類などの脊椎動物にはないが、昆虫では触覚上にある微細な毛(感覚子)が湿度を感知するからである。」p.74
・「ミツバチは昆虫類進化の頂点を極めているといってよいだろう。」p.91
・「単為生殖は繁殖効率では有利であるが、両性生殖にくらべて、環境への適応力につながる遺伝的な多様性を伝えてゆく点では不利であり、種族としての寿命を短くする。」p.96
・「ボウフラの語源は「棒振り」から転訛したもので、棒を振るように泳ぐことに由来するが、」p.141
・「蚊に好かれる人とそうでない人がある。その個人差には複数の要因が考えられるが、血液型もその一つだとされている。(中略)吸血した蚊を回収して吸った血液の凝集反応を調べても、O型の血液を吸った蚊が多かった。血液型物質は汗にも含まれているから、蚊は吸血前に血液型を判別しているらしい。未知のO型物質が蚊の嗅覚を刺激して誘引するのであろう。」p.174
・「自然の生態系が存続するかぎり、昆虫たちは根強く栄えてゆくだろう。昆虫は種類数で全動物の70パーセントを占め、その総数は人口の10億倍といわれている。数の上で繁栄を極めているだけではない。昆虫は大脳が進化しなかったかわりに感覚の発達がすばらしく、本書でものべてきたように、ときに、知能があると錯覚させるほどの行動をしたり、人間には不可能な "超能力" を発揮したりする。また、ミツバチ、アリ、シロアリに見られる社会生活は、これ以上は望めないほどの頂点に到達している。もっと高等な動物に見られる「烏合の衆」の集団とは違う整然とした社会構成である。人類が生物進化の頂点を極めているのはいうまでもないが、昆虫は人類の進化とは違うもう一方の頂点に立つ存在といっても過言ではあるまい。」p.185
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