年末、朝日新聞の村野藤吾の記事に惹かれ、村野藤吾に関する著書を数冊手にした。
その中で、世界平和記念聖堂について語っている著書があった。(石丸紀興著)
世界平和記念聖堂は、その設計をコンペによって進められることになっていた。
1948年のことだ。
世界平和記念聖堂の設計は村野藤吾が携わり、ある意味村野藤吾の代表作でもあるだろう。しかし、そこに行き着くまでは、様々な事があったようだ...。
その設計コンペには、丹下健三、井上一典、前川国男、菊竹清訓等も参加していた。実際に、丹下健三、井上一典は二等、前川国男、菊竹清訓は三等という結果に終わっている。
ここで、一等は当然村野藤吾と思いきや、そのコンペでは、一等は該当者無しという結果に終わっているのだ。
村野藤吾は、その設計コンペの審査員として参加しているのだった。
審査員側に廻っている人間が、なぜその設計に携わったのか?
これは多くの疑問をもたらした。
その後建築界では、コンペのあり方やルールをめぐる問題が取り出されたのだ。
この著書を読むと、村野藤吾が結果的に設計に携わった経緯がよく分かる。
しかし、設計料を受け取らなかったとしても、他の建築家に対する影響は避けられないだろう。
設計審査後に、教会代表者の感想が発表されている。
多くの設計にモダーンと記念的性格が顕著に具現されていても宗教的と日本的という点が非常に弱い表現に終わったとしている。
実際に丹下健三や前川国男の設計がどこまで宗教的、日本的側面が欠如していたのかは私には具体的には分からない。
しかし、いずれにしても平和記念聖堂が建築物として評価を得られているのは言うまでもない事実だ...。
その中で、世界平和記念聖堂について語っている著書があった。(石丸紀興著)
世界平和記念聖堂は、その設計をコンペによって進められることになっていた。
1948年のことだ。
世界平和記念聖堂の設計は村野藤吾が携わり、ある意味村野藤吾の代表作でもあるだろう。しかし、そこに行き着くまでは、様々な事があったようだ...。
その設計コンペには、丹下健三、井上一典、前川国男、菊竹清訓等も参加していた。実際に、丹下健三、井上一典は二等、前川国男、菊竹清訓は三等という結果に終わっている。
ここで、一等は当然村野藤吾と思いきや、そのコンペでは、一等は該当者無しという結果に終わっているのだ。
村野藤吾は、その設計コンペの審査員として参加しているのだった。
審査員側に廻っている人間が、なぜその設計に携わったのか?
これは多くの疑問をもたらした。
その後建築界では、コンペのあり方やルールをめぐる問題が取り出されたのだ。
この著書を読むと、村野藤吾が結果的に設計に携わった経緯がよく分かる。
しかし、設計料を受け取らなかったとしても、他の建築家に対する影響は避けられないだろう。
設計審査後に、教会代表者の感想が発表されている。
多くの設計にモダーンと記念的性格が顕著に具現されていても宗教的と日本的という点が非常に弱い表現に終わったとしている。
実際に丹下健三や前川国男の設計がどこまで宗教的、日本的側面が欠如していたのかは私には具体的には分からない。
しかし、いずれにしても平和記念聖堂が建築物として評価を得られているのは言うまでもない事実だ...。