永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(住い・寝殿造り)

2008年08月13日 | Weblog
寝殿造り
 
 平安時代の貴族住宅の形式。中央に南面して寝殿を建て、その左右背後に対屋を設け、寝殿と対屋は廊(渡殿)で連絡し、寝殿の南庭を隔てて池を作り中島を築き、池に臨んで釣殿を設ける。
 
 邸の四方に築垣を設け、東西に門を開く。
 南庭と門との間に中門を設けて出入の用に供する。
 寝殿・対屋は周囲に蔀戸を釣り、妻戸を設け、室内は板敷とし、簾・壁代・几帳・帳台などを用いた。

◆寝殿造り(イラスト)
 末摘花のお屋敷も、故親王・常陸の宮のお住いであったので、築地に囲まれた寝殿造りのこのような広さを持っていたと思われる。

源氏物語を読んできて(134)

2008年08月12日 | Weblog
8/12  

【蓬生(よもぎう)】の巻  その(9)

 年来、辛い思いをかこちながらも、お側を離れずにいた人(侍従)が、急に旅立って行きましたのさえ、心細く悲しく思われている末摘花に、もう世の中に役立ちそうもない老女房までもが、

「いでや道理ぞ。いかでか立ちとまり給はむ。われらもえこそ念じはつまじけれ、と、おのが身身につけたる便りども思ひ出でて、とまるまじう思へるを、人わろく聞きおはす」
――全くもっともなことですよ。いつまでもここに居るものですか。私たちも我慢しきれそうにもないことですもの、と、めいめい自分の縁故を思い出して、ここを出て行こうとしていますのを、末摘花は人聞きの悪いことと思って聞いていらっしゃる――

 十一月の頃になりますと、雪や霰の降る日が多くて、外ではとっくに消えてしまう雪も、蓬や葎の陰に深く積もっています。出入りする下人さえ居らず、末摘花はなす事もなく、ぼんやりとしていらっしゃる。共に泣いたり笑ったりした侍従も居なくなってしまって、夜も塵じみた御帳台の中で、人気のないお身の回りを、今更に悲しくお思いになるのでした。

 二條の院では、源氏は紫の上にご執心で、忍び歩きもなさらないのでした。ましてや、末摘花のことなどは、まだ無事で居られるか、くらいは思い出されることもありましょうが、尋ねてみようなどというお気持ちはさらさらなく、この年も暮れてしまったのでした。
 
 四月の頃、源氏は花散里のことを思い出されて、お忍びでお出かけになります。この日頃降り続いていた雨も止んで、月もさし出でております。昔の忍び歩きを思い出させる、なまめいた夕月夜でした。

◆この年の秋は、澪標(みおつくし)の秋とだぶっている時期。

◆侍従の生き方=
 かつての出仕役目の呼び名で書いている。
母(末摘花の乳母)も亡くなり、宮仕え先の斎院も亡くなり、乳姉妹の末摘花をお世話する後見人がいない状態で、このお屋敷の生活の収入がない。惟光とも情交があったとみえるが、須磨への間に途絶えた。その後、受領の甥の思われ人となった。今後の身の振り方を思って遠路太宰へ行くことにした。もとより正妻ではない。
この階級の女の一つの生き方をみる。

ではまた。
 


源氏物語を読んできて(住い・左京)

2008年08月12日 | Weblog
◆左京と四条以北
  
 朱雀大路によって右京(西の京)よ左京(東の京)に分れるが、造都当時から、西の京は低湿地が多くて栄えず、東の京のしかも四条以北に人家が集中していた。
  この物語でも、六條御息所の邸宅を除いて、ほとんどの舞台が左京である。

◆左京・四条以南
  
 物語に出てくる、夕顔の宿は、源氏の乳母の隣の家で五条であった。六條御息所のとこれへ通う道すがらとあった。隣家の声がうるさく聞えるような、がさつな住人の居る描写がある。
 六條御息所へ忍んで通うような所は、遠く離れたところでなければならなかったか。


源氏物語を読んできて(133)

2008年08月11日 | Weblog
8/11  

【蓬生(よもぎう)】の巻  その(8)

 それでも、末摘花は別れの記念になるものと、お探しになりますが、普段着の着物は垢じみており、長年の奉公に対して慰労の志を示す物とてなく、

「わが御髪(みぐし)の落ちたりけるを取り集めて、鬘にし給へるが、九尺ばかりにて、いと清らなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のいとかうばしき、一壺具して給ふ」
――御自分の髪の抜けたのを取り集めて、鬘(かづら)になさったのが9尺ほどで、たいそう見事なものを、趣のある箱にお入れになり、昔の薫衣香(くんえこう)のとりわけて香ばしいのを、一壺添えてお与えになります――

末摘花のうた
「たゆまじき筋を頼みし玉かづらおもひも外にかけはなれぬる」
――永久に離れないものと頼っていたあなたも、思いがけず遠くに行ってしまうのですね。――
(筋は、血筋と毛筋の掛けことば)

 亡くなった乳母(侍従の母)が、いつまでも姫君をお世話するようにと、遺言をして死んだのでした。末摘花は、このあと誰に頼んだらよいのでしょう、と激しく泣かれます。

侍従も、
「ままの遺言はさらにも聞えず。年頃の忍び難き世の憂さを過ぐし侍りつるに、かく覚えぬ道に誘はれて、遙かに罷りあくがるることとて、うた」
「玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけてちかはむ、命こそ知り侍らね」
――母の遺言は申し上げるまでもございません。年来苦しい世をご一緒に過ごして参りましたのに、このような思いがけない旅に誘われて、遠いところへ流浪するのが悲しいことです。お別れしましても、お見捨て申しはいたしません。行く先々の道祖神にも堅くお誓いいたしましょう。ただ、命はあてになりません。無事に帰ってこられますかどうか――

叔母は、
「いづら、暗うなりぬる、とつぶやかれて、心も空にて引き出づれば、顧みのみ、せられける。」
――さあ、さあ、侍従はどこです、日が暮れてしまったのに、と文句を言いますので、心も空に車に乗り、そのままお屋敷から出ましたものの、後ばかり振り返って行かれたのでした。――

◆鬘(かづら)を贈る=旅に鬘をおくることは良くあったそうで、旅の道祖神と関係があるらしい。

◆薫衣香(くんえこう・くのえこう)=古き時代から、ある種の香木の香りを虫が嫌うという性質を利用し日本人は、衣類の保存などに香木を刻んで調合したお香を使用してきました。

ではまた。




源氏物語を読んできて(道祖神)

2008年08月11日 | Weblog
道祖神

 道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などにおもに石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、あるいは交通安全の神として信仰されている。元々は中国の神であるが、日本に伝来してからは、日本の民間信仰の神である岐の神と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり、地蔵信仰と習合したりした。

 各地で様々な呼び名が存在する。賽の神、障の神(さいのかみ、さえのかみ)など。

源氏物語を読んできて(住い・貴族の屋敷)

2008年08月11日 | Weblog
貴族の屋敷
 
 平安朝も中期頃になると、受領でも「一町」の邸を持つ者も出てきますし、公卿の中では、一人で「一町」あるいは、それ以上の邸宅をいくつも持つ者が出た。
 
 この物語で見る、源氏の邸宅の二条の院は、母の父・按察使の大納言のものだから、「一町」はあったであろう。父帝の故桐壺院から伝領した二條の院の東の院もそれくらいであろう。

 六條御息所の邸宅も「一町」だった。巧みに不動産を増やしていく源氏のしたたかさが、物語の背面にあることも見逃せない。
 
 今後の展開で示される「六条院」は、六條御息所の邸の一画に取り込んで「四町」にも及ぶものと、物語はいう。

源氏物語を読んできて(132)

2008年08月10日 | Weblog
8/10  

【蓬生(よもぎう)】の巻  その(7)

 北の方は、なおも使用人としての魂胆のことは隠して、太宰へお連れしようと、巧みに言い続けます。

 末摘花は、
「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、何かは。かうながらこそ、朽ちも失せめとなむ思ひ侍る」
――ほんとうに嬉しいお心入れでございますが、人並みでない私がどうして人中に出られましょう。このままで朽ち果ててしまう方が良いとさえ思っております――

北の方は、
 まあ、その様にお思いなのですか。こんな気味の悪い住居で朽ち果てるなどとは、そんな例はございませんよ。源氏の大将殿が、このお屋敷をお手入れしてくだされば、玉の台(たまのうてな)とも成り代わりましょうが。大将殿は、兵部卿宮の御娘(紫の上)お一人の他にはお心をお分けになる方もないとのことです。昔から浮気なお心で、かりそめのお通いどころは、今ではみな縁が切れてしまったようですよ。ましてこのような薮原に暮らしている方で、身を清く保っていられたからといって、お尋ねになることは恐らくありますまい。
などと、教え込んでおります。

 末摘花も、そう言われてみれば、なるほどその通りだと思い合わされて、いっそう悲しくて、しくしくお泣きになるのでした。
 ただ決心は変わらず、この叔母はほとほと困り果てて、それならば、侍従だけでもと、せき立てます。

 侍従は、泣く泣く「今日はとにかくお見送りだけに参りましょう。叔母様が申されるのももっともです。また姫君様がお迷いになるのももっともと思いますにつけ、中に立って拝見しております私も辛うございます」とそっと言います。

 末摘花は、侍従までが自分を見捨てて行こうとするのを、恨めしくも悲しくも思いますが、引き留める術とてなく、いっそう声を上げて泣くだけが精一杯なのでございました。

ではまた。


源氏物語を読んできて(平安京・住い)

2008年08月10日 | Weblog
京の町並
 
 平安京は、東に賀茂川、西に桂川が流れ、その2つの川の間に、東西4.5キロ、南北5.2キロの規模をもつ都城である。大内裏(宮城)が、北の中央部にあり、その南中央の朱雀門(すざくもん)から、幅84メートルの朱雀大路が南に伸び、左京と右京に両断している。

 ちなみに、大内裏の朱雀門から南方を見て、右が右京、左が左京である。
 大路と小路が東西と南北に走り、120メートル四方の一区画を「町」といい、地割りの基本を成している。
 
 「町」はさらに32に分けられ、15メートル×30メートルを「一戸主(ひとへぬし)」と呼ぶ。
 
 平安京が造られたとき、宅地の班給の基準は、公卿は「一町」、庶民は「一戸主」であった。
 
◆写真:平安京、上部が北。
    朱雀大路の最南が羅城門。平安京の入口。

源氏物語を読んできて(131)

2008年08月09日 | Weblog
8/9  

【蓬生(よもぎう)】の巻  その(6)

 冬にむかうある日、御兄の禅師がお立ち寄りになって、源氏が故桐壺院の御為の御八講を厳めしくも盛大になさったことを話されます。末摘花は、本当にこれだけのご縁だったのだと、ようやくお考えになるようになったとき、大貳の北の方が突然訪ねて来ました。

「例はさしも睦びぬを、誘ひ立てむの心にて、たてまつるべき御装束など調じて、よき車に乗りて、面持ち気色ほこりかに思ひなげなるさまして、……」
――普段はさして親しくもしておりませんのに、末摘花を誘って太宰にと思う下心に、お着せするお召し物を用意して、立派な車に乗り、顔つきはいかにも誇らしそうに、満足しきったようにして、(前触れもなく走らせてきて、門を開けさせますが、左右とも扉がぐらぐらして、よろけ倒れるのを男どもが大騒ぎをして、それでもどうにか開けてぶしつけにも、南面に車を寄せます)――

 末摘花は大貳風情の身分にふさわしからぬ不作法千万とお思いになるのでした。

 その頃、侍従には、この大貳の北の方の甥が通ってきておりました。大貳の北の方は、この侍従も連れて行くことを願おうと迎えにきたのでした。

この北の方は、表面はしんみりと、けれど夫の昇進にうれしさを隠せず、

「故宮おはせし時、おのれをば面伏せなりと思し棄てたりしかば、疎々しきやうになりそめにしかど、年頃も何かは。……」
――故父君がいらっしゃった頃は、私のことを受領なんぞの妻になり下がりましたのを、不真面目な女と寄せ付けてもくださらなかったことから、自然に疎遠になっておりましたが、今でも私の方からは疎遠とは思ってもおりませんのに、(あなたは偉そうに思い上がっておいでで、源氏の大将がお通いになっていらっしゃるとか、ご運勢の良いことと、こちらはご遠慮していたのです。でも世の中の移り変わりは定めないものでございますね。ものの数にも入らぬ身分の者はかえって気楽なもの。あなた様の今のお身の上を思うと、心配でなりません、などと話されますが、姫君は打ち解けたご返事もなさらないのでした。)――

ではまた。


源氏物語を読んできて(貴族の生活と財政・地方の役人)

2008年08月09日 | Weblog
◆地方の役人

太宰の大貳の場合
 地方官は財産作りに最適の職であった。太宰府は、今の九州の地全般で、これを統括し、外冦を防ぎ、外交のことを掌どる中央の大事な出先機関である。
 
 長官は、帥(そち)、または権帥(ごんのそち)。次官は大貳(だいに)と少貳(しょうに)である。権帥と大貳はどちらかが赴任すれば良かった。
 
 末摘花の叔母の夫は、太宰の大貳として赴任するので、受領としては有能でうま味のある昇進だったのである。従四位下相当の官位である。

 うま味とは、土地出身者の利益をはかって、中央と適当にして、私服を増やすことであり、堅物で不正に厳しくしていた場合は、財産も作れず、土地の者にも嫌われた。