あしたのタネをまく、アシタネブログ!

今日よりちょっといい、明日にしませんか

石橋ツアーin福岡&熊本(2日目)

2012年11月18日 11時37分34秒 | 旅、風景写真

Photo_10


旅は日目。最初の見学先は、熊本県御船町の八勢川に架かる下鶴橋。名石工橋本勘五郎、弥熊父子 」によって明治月から明治月まで満年間を費やして架設された。橋本勘五郎、弥熊父子は、東京の二重橋日本橋を始め、矢部の通潤橋や、御船橋など数多くの眼鏡橋を架設して天下にその名をうたわれた石工。


2


通潤橋は、肥後の石工(匠)の技術レベルの高さを証明する歴史的建築構造物であり、国の重要文化財に指定されている。なお通潤橋を含む通潤用水は日本を代表する用水のひとつとして農林水産省の疏水百選に選定され、橋と白糸台地一帯の棚田景観は、通潤用水と白糸台地の棚田景観として国の重要文化的景観に選定されている。


Photo_11


通潤橋は嘉永7年(年)、水源に乏しい白糸台地へ水を送るために架けられた通水橋である。建造にあたっては地元の総庄屋であった布田保之助が計画を立てて資金を調達した。


Photo_12


この水路付き石橋はアーチ型の木枠(支保工)を作った上に石を置き、水路を設置して橋が完成したところで木枠を外す工法により建造された。石橋の木枠を外す最終段階には橋の中央に白装束を纏った布田翁が鎮座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだという。 単一アーチ式水路石橋という特異な構造と物理的原理が見事に成り立っていることからその貴重さが認められて、昭和35年(年)に国の重要文化財の指定を受け、またくまもとアートポリス選定既存建造物にも選定された。この地域には通潤橋の他にも規模の大きなアーチ石橋が架けられており、加藤清正以来の肥後石工集団の技術の高さを示すものである。 (以上ウィキペディアより転載)


Photo_13


大窪橋(下益城郡美里町大窪)がこの地に架けられた理由は、当時の大窪集落の家々が全て南側にあったため。大窪集落に行くにはどうしても本橋を渡らねばならず、大窪橋なしには何事も用をなすことができなかった。当時の人々が大窪橋をいかに大事にしていたかは、車止めの石柱に残された「車通扁から津(くるまとおるべからず)」の文字からもうかがい知ることができる。


Photo_14


単一アーチ式石橋としては日本位の径間を誇る霊台橋。架橋時に培われた技術は、30年前に架橋された雄亀滝橋とともに、7年後に完成する通潤橋(国の重要文化財)に応用された。石同士はわずかなの隙間も無い精密な作りである。種山石工の石橋は一般の人々が資金を出し合って造ったため質素で欄干さえない橋が多いが、深い谷に架かっているため、欄干も用意され、土台を流水から守るための補強用の石垣もある。(ウィキペディアより)


Photo_15


二俣橋とは、緑川の支流の釈迦院川(しゃかいんがわ)と津留川(つるがわ)の合流地点でそれぞれの川に架かっているつの眼鏡橋。 澄み切った水の流れは、当時から変わらぬ風景だと思う。


Photo_16


明治の三大築港の一つに数えられ、当時の石積みを残す三角町の三角西港


Photo_17


年には国重要文化財にも指定された。その港に面して、「浦島屋」という不思議な名前の、白い洋館が立つ。明治時代の近代化の波間にいったんは消え、その後復元された「幻のホテル」だ。


Photo_18


(明治26)年、長崎からの帰りに浦島屋に泊まったラフカディオ・ハーンは、その雰囲気が気に入ったようで、「19世紀のあらゆる心労からほっと救われたような思いがした」と書いている。
日間の楽しい橋めぐりツアー。今年もたくさんの思い出が出来た。「橋の日」活動は、仕事を合間を縫っての活動は忙しい。しかし、仲間とこんな旅行ができ、本当にありがたい。また新しい年頑張っていきたい