そもそも形がない意識とは、その意識を持つ個だけが知り得る世界。ところが、その世界はあまりにも茫漠としていて、自身の意識さえ実態を把握しようとすると、かなり困難を極める。その難しさこそが、ヒトの世界に文学や芸術をもたらしたのだと誰か言ったことがあるだろうか。
その一方で、姿形がないのなら、個の力でどんな姿にでも作り替え、昇華させることができるはずだ。なのに、現実の様々な経験を通じて、この意識を鍛錬して、宇宙大にまで可能性を広げようとする者は、あまり見かけない。古色蒼然たるつまらない伝統や格式、差別的固定観念の神話に縛られて、自分の体裁ばかりこだわっているうちに、意識変革するチャンスをみすみす逃したうえ、自分の中にある大きな可能性に気づかないまま、朽ち果ててしまう。
そういう時代錯誤の意識が公のメディアを使って論評するとき、矛先を向けられた側がこうむる迷惑ははなはだしく大きい。たとえば、ネコやイヌはそもそもヒトに比べ知能が劣った下等な生き物であるとか、ヒトの中にも高等な者がいる反面、高等ヒトから恩恵を受けて生きるヒトまで大きな差があるとか、そういう下等ヒトの存在を隠さずに上手にもっと活用すべきだとか、とんでもない差別的意識の披露合戦が勃発している。はっきり言っておくが、ネコだって、こんな低次元な物言いをして、ネコやヒトをバカにしたりしない。
こんな風に、とのが怒り心頭なので、「残念ながら、ヒトの中には、ネコやイヌより劣った意識しかもたない者も大勢いるんだ」と慰めたところ、
「ちょっと待て!その言い方はイヌネコを侮辱する差別的言動だ」と、とのの怒りに油を注いでしまった。
「IPS細胞の研究にとやかく注文付けるわけではないにしろ、ヒトの意識レベルの低劣さに目をつむって、遺伝子ばかりいじっているうちに、とんでもない怪物を生むことにならなければいいんだけど」
とのの弁にも、差別的内容が若干含まれているような気もするのだが。(2013.5.22)