上の写真の中央辺りの左右に、二つの穴の跡が見える。その向こうに低いマウンドがある。正面が真北の方向。その穴に近づいてみたのが次の写真。
ここは函館市の外れ、垣ノ島遺跡。9000年前から3000年前までの6000年間という気の遠くなるくらいの期間、縄文の人々が暮らし続けた遺跡で、列島で2番目に古い縄文遺跡だという。ちなみに最古の集落遺跡は、青森県津軽地方の大平山元(おおだいやまもと)遺跡で、この遺跡からは、1万6千年前の縄文式土器が見つかっている。この土器は、おそらく地球上に初めて出現した土器だろうと言われている。
土器が作られたのは、2万年前の氷期のピークから4000年ほど経過したころで、夏の気温は現在より7~11度も低く、今でいえば、根室半島突端の納沙布岬と同程度だった。専門家によれば、寒いので火を焚いていたら周囲の土が焼け焦げて固くなるのを見て、土器を作り出したのかもしれないという。今でも納沙布の海は、夏もヒトを寄せつけない。泳いでいるのはラッコとトドくらいのもの。
その後7000年にわたり気温はぐんぐん上昇し、垣ノ島遺跡にヒトが住み始めたころは現在よりも2、3度高かったようだ。青森県の三内丸山遺跡の時代は5900年前から4200年前だが、この時期はさらに気温が上昇し、いわゆる縄文海進の時代を迎える。
縄文から弥生時代に移行するころは、気象の変動があり、再び気温が大きく下がった。この影響で、大陸・半島から稲作適地を求めて、比較的温暖な列島に人々の移動があったのだろうという。
垣ノ島遺跡には直径1メートルの穴が二つ掘られた跡が残っている。穴の底は突き固められていたらしい。それがこの写真だ。三内丸山遺跡には直径約2メートルの穴が6個あり、巨木の櫓が再現されている。とすれば、この遺跡にも樹木のモニュメントがあったとしても不思議ではない。
さらに驚くべきことがある。垣ノ島遺跡には数千年にわたって積み上げられた盛土遺構がある。コの字型の盛土の中央には、明らかに意図的に作られた盛り上がりがあり、その下を掘ってみるとたくさんの石が敷きつめられていた。その下部はまだ未調査だという。この緩やかな丘から真南に向かって、浅く掘り込まれた通路のような跡があり、この道は直径1メートルの二つの穴の間を通っているのだ。当時、ここには門か鳥居のようなものが建てられていたのかもしれない。(2021.10.9)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます