「古墳に興奮!(その2)」のつづきです。
「さきたま古墳公園」の駐車場にこんな観光案内図がありました。
「埼玉県名発祥の地 行田」と書かれています。
行田市のHPに載せられている説明を引用しましょう。
およそ1200年前の奈良時代にできた『万葉集』の中に「前玉(さきたま)の小埼の沼(おさきのぬま)」や「佐吉多万(さきたま)の津」の歌があります。この「さきたま」は、現在の行田市埼玉周辺をさす地名であり、今も神社や字名は「さきたま」と読みます。
また、1100年前の平安時代にできた『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』 には、より広い郡名として「埼玉・佐伊太末」とあり、埼玉県の東部地域を「さいたま」郡と呼んでいたことがわかります。
このように、小さな地名、「さきたま」が変化して、より広い郡名「さいたま」として用いられるようになっていったのです。
そして、長い歴史を経て、明治4年(1871)11月14日、現在の北埼玉郡、南埼玉郡と葛飾郡の一部がまとめられて「県」となり、そのときの管 区内のもっとも広い郡名が採用され、「埼玉県」が誕生しました。
一方、埼玉県のHPには「県章」(公園の歩道には県章をあしらったタイルが敷かれていました)の説明としてこのように書かれています。
まが玉16個を円形にならべたもの。まが玉は、古代人が装飾品などとして大切にしたもの。埼玉県名の由来である「幸魂(さきみたま)」の「魂」は、「玉」の意味でもあり、まが玉は、埼玉県にゆかりの深いものとなっている。
行田市の説明と微妙に違いますな。
行田市の説明の方が説得力を持っている気がしますが、いかがでしょうか。
後日ご紹介する予定の「さきたま史跡の博物館」に、稲荷山古墳の約40年前の写真が展示されていました。
何の先入観もなくこの写真を見ると、象潟(きさかた)かと思ってしまいます。
稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳なのですが、1937年に前方部が崩されてしまい、写真のような状態になってしまったのだそうです。
「その2」で紹介した将軍山古墳といい、この稲荷山古墳といい、なんとも手荒な扱いを受けたものです。
これだけボコボコと前方後円墳があると、そのありがたみが薄れるものなのでしょうか?
さらに、残っていた後円部も、その後、崖崩れが起こって存亡の危機に
ところが、1968年に起死回生のできごとが起こりました。「古墳群の性質を知り、展示資料を収集するために、古墳を1基だけ調査することになり(「さきたま史跡の博物館」のガイドブック)」、その対象に選ばれていたのが、崩壊しつつあったこの稲荷山古墳でした。
そして、発掘してみると、予想外のことに盗掘にあっておらず、ザクザクとお宝が発見されたのだそうな。
この「お宝」のことは、後日、「さきたま史跡の博物館」と合わせて紹介します。
さて、歴史の教科書にも載っているという稲荷山古墳は、復原工事が行われて、2004年に造営時の姿(と思われる)を取り戻しました。
しかも、登ることができます
前方部から階段を昇り、
一旦下って、登れば、(中山競馬場のバンケットか?)
筑波山も見えるし(送電鉄塔が邪魔…)、
後円部の頂上に再現されたお棺の置き場所も見られます。
このお棺の土台(礰槨=れきかく)は、もちろん複製で、実物はこの後円部の地中に埋まっているそうです。
古墳に登るなんて、そうそう体験できるものではありませんよね。
「さきたま古墳公園」でも、こんな杭を何度も見ました。
そちらのお話は次回。
つづき:2010/11/27 古墳に興奮!(その4)