「古墳に興奮!(その3)」のつづき、「登れる古墳」第2弾です。
6世紀前半に造られたと考えられている、直径105m、高さ18.9mの日本最大の円墳「丸墓山古墳」です。
北東側と南側に階段が二つありまして、私は北東側の階段をくねくねと登りました。
この「丸墓山」という名前、単純に「丸いお墓の山」なのかと思ったところ、さきたま史跡の博物館のガイドブックの説明では、
「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。
だそうで、そう簡単ではありません。
ところで、丸墓山古墳はまだ発掘調査が行われていないんだそうな。もしかすると、国宝級の遺物
が埋まっているかもしれません。
でも、逆に、盗掘されていなかったとすれば、遺体が収められたお墓の上を、私たちは土足で歩き回っているということか
なんだか罰が当たりそうです…
さて、さきたま古墳公園の最高地点からの眺めは見事でございました。
さっき縦走(?)してきた稲荷山古墳や、
後円部の内部を観てきた将軍山古墳とか、
遠くには富士山まで見えました
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一最後の障害だった北条氏を攻略しました。この戦(小田原の役)、北条氏の本拠地の小田原城攻めと並行して、北条系諸将への攻撃も行われました。
その一つが、成田氏が本拠地とする忍城(おしじょう)でした。
忍城攻略戦の大将は石田三成。三成は、大谷吉継、長束正家のほか、佐竹義宣(右の写真は秋田の佐竹史料館のパンフレットに載っていた義宣公の毛虫の鎧)、真田昌幸ら東国の蒼々たる大名ら総勢2万3千余の大軍を率いて忍城を攻めました。
その時、三成が陣を敷いたのが、丸墓山古墳だったのだとか。
丸墓山古墳から忍城方向(行田市の中心部)を眺めるとこんな具合。
三成は、秀吉の備中高松城攻略戦にならって、忍城を水攻めしたものの、大失敗
。
以降、三成には「戦下手」の評価がついて回ることになります。
ですが、「忍城の水攻め」は、三成の考えた戦法ではなく、主君の秀吉からの指示だったという説があります。詳しくはこちらのサイトをご覧いただくとして、実際に丸墓山古墳から忍(行田)の街を眺めると、ほとんど真っ平らな地形です。これを水攻めするなんて、普通は考えないでしょう。
と思ったら、備中高松城も忍城ほどではないにしろ、平坦な場所にありました。
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右の写真は丸墓山古墳南側の通路なんですが、周りよりも微妙に高くなっているのが見て取れると思います。
これは、三成が忍城の水攻めのために築いた堤(石田堤=いしだづつみ)の跡なんだそうです。
そんないわくつきの道だったにしては、普通の道でした。