波風が立った後は、静かさがまた、ひとしおです。
マハトマ・まど・みちおさんの詩から
いちばんぼし
いちばんぼしが でた
うちゅうの
目のようだ
ああ
うちゅうが
ぼくを みている
今日も、皆さんひとりびとりに、平和がありますように
ピース
波風が立った後は、静かさがまた、ひとしおです。
マハトマ・まど・みちおさんの詩から
いちばんぼし
いちばんぼしが でた
うちゅうの
目のようだ
ああ
うちゅうが
ぼくを みている
今日も、皆さんひとりびとりに、平和がありますように
ピース
人は他の人と繋がりを実感しながら生きていると、心も身体も魂までもが健康でいられるものらしい。
ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第11章、「癒しのやり取り」のp.235、第4パラグラフから。
子ども達が性的な悪戯をされたために生じた、いろんな嫌悪感を私は診てきました。その嫌悪感は、ギルマーのケースでも、ティナのケースでも、その他のケースでも、はっきり認められました。性的虐待に関する心配は、正真正銘恐ろしい経験を基づいていることを、私は他の人よりも良く分かっています。しかし、もう1つ承知していることは、性的虐待をする輩は、一番脆いものを奪い取ることのよって、街の一番の弱みに付け入ることで、栄える、ということです。ワルなら誰でも、一番弱い餌食を探しているのです。それが人間の生態のまた別の一面です。ですから、私どもの子ども達を、その悪から守るためには、私どもは健全な関係を作らなくてはいけませんし、他者との絆を作らなくてはなりません。私どもは子ども達をハグしなくっちゃね、ということです。
タッチが足りないのは、ニッポンばかりじゃ、ないのですね。性的悪戯や、中学生を拉致して2年も匿ったあの大学生も、心の病気、しかも、愛着、ないしは、信頼に関する心の病、発達トラウマ障害と診ますね。
戦争トラウマでも、発達トラウマ障害でも、自分のトラウマについて語るためには、仲間かプロのセラピストが相手になることが大切です。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.247、3行目から。
困った様子と沈黙が、セラピーでは当たり前になります。私どもが肝に銘じていることは、私どもの患者さんたちが圧倒されてしまうのは、話しを詳しく聞かせて、と相手に迫る場合だ、ということです。ですから、私どももトラウマの治療をする時には、「揺れる」ようになってきましたね。この「揺れる」と言う言葉は、友人のピーター・レビンが創り出した言葉を使っている訳です。私どもは、話しの詳細を避ける訳にはいかないけれども、初めての事でもだいじょぶだと、患者さんたちの伝えてから、話しの詳細を聴き出します。このように、真実にはゆっくりと近づきます。
ヴァン・デ・コーク教授も、こなれた感じがします。話は詳しく聴かなくちゃいけない。でも、それを急いだり、正しいことだからやんなさい、という態度はいけません。話しても大丈夫だよ、という安心感が一番大事。その事情を、簡明に私どもに教えてくれています。
今晩も、今から7年前、311(2011)を遡って2年前、ヴァン・デ・コーク教授が、2009年に出した、発達トラウマ障害(DTD : defelopmental trauma disorder)をDSM-Ⅴにハッキリと入れてね、という提案書(http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf) の6日目。
序章(イントロダクション)の「まったく診断されないままでいるケース」の次。
間違った診断をされちゃうケース
こういう子ども達に見合うトラウマ関連の診断がない場合、赤ちゃんの頃からいろんなトラウマを繰り返し負わされている子ども達は、別の診断をされてしまうことが多いです。別の診断をされますと、効果のない治療をされてしまいやすいでしょ。たとえば、シカゴ市子どもトラウマ・センターがサービスを提供している子どもは、以前の診断、双極性障害(躁うつ病)、ADHD、もしくは、双極性障害+ADHDと診断に見合うサービスのために、それぞれに見合う薬物を貰います。 それでサイコセラピーを受けない子どもも多い。トラウマの生育歴に着目した治療はホッタラカシですし、薬を貰うと症状が実際にひどくなる場合も多いんですよね(ストルバッハ、「私的な対話」、1.25,2009)。
診断、アセスメントがいかに大事か分かりますでしょ。
その道の「専門家」が、その診断、アセスメントを間違えることが、いかに罪深いことなのかも分かりますでしょ。
発達トラウマ障害≒愛着障害の診断、アセスメントを間違えると、ここにあるように、もらわないで済む薬を貰うことになります。リタリンやコンサータの場合が、今のニッポンでは、多い。そうすると、無駄金を間違った処方に払わなくてはならない、という経済的損失が、その子どもと家族にもたらすことになります。一昨年度の心理臨床学会での、杉山登志郎さんの講演によれば、この発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達は、間違った処方で、間違った薬を貰う一大集団をなすということです。すると、国の財政を、無駄な薬の医療費として、支払っていることになります。国家的財政的損失でもあります。
でも、それだけではありません。私は、一番問題だ、と思うのは、発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達が、アメリカ精神医学界や、アメリカ子ども虐待専門家協会が、やってはならない事=禁忌だとすることを、されちゃってる、ということです。発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達にやってはならないことは、何かを強制されることです。今のニッポンでは、学校でも、児童施設でも、日課やルールを、発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達に強制する、ということを、仕事として、税金を使ってやっちゃってる、という訳です。つまり、今のニッポンでは、発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達を、税金を使って虐待している、のが、現実です。
「専門家」の無責任、罪深さがハッキリ分かりますね。