
待つ教育

ルターの「天にも昇る悦び」 真に自分のためになることは、必ず人様のためにもなる不思議ですね。 Young Man Luther 『青年ルター』p201......
今宵の聖書の言葉は,「通りすがり」です。
通りすがり,と聞いたら,余計なことには関わらないで,通り過ぎる,という感じですね。そうすると,周りの人やモノや自然が,目に入っても,見えません。人間は意識して見ないと,見てても見えない存在だからです。
でも,何かに関心がある人は,通りすがりでも,関心のあることには眼が向くみたい。鳥が好きで関心がある人は,通りすがりでも,鳥に気が付くのでしょう。アクセサリーに関心がある人なら,通りすがりの相手でも,気に入ったアクセサリーをしていたら,そのアクセサリーやそのアクセサリーを付けている人に眼が向くのでしょうね。
イエスは通りすがりにいろんなことをする人でした。弟子たちを集めたのも通りすがりでしたし,セラピー,癒しをしたのも,通りすがりでしたからね。その一つが,『新約聖書』の4番目に出てくる「ヨハネによる福音書」の第9章の最初に出てきます。
「シロアムの池
9章 1道すがらイエスは生まれつきの目しいを見られた。2弟子たちがたずねた、「先生(ラビ)、目しいに生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか、この人ですか、両親ですか」と。3イエスは答えられた、「この人が罪を犯したのでも両親がでもない。神のわざがこの人に現われるためである。4わたしをつかわされた方のわざをわれらは日のあるうちにせねばならぬ。夜が来る。するとだれも働けない。5世にある間わたしは世の光である」と。6こういって地に睡し、睡で練粉を作り、それを目しいの両目の上にぬって、彼にいわれた、7「シロアム(訳せば、つかわされたもの)の池へ洗いに行きなさい」と。彼は行って洗い、見えるようになって帰って来た。8近所の人々や前に物乞いであったのを見ていた人々はいった、「この人はすわって物乞いしていたではないか」と。9ある人は「その人だ」といい、ある人は「否、似ているだけだ」といった。しかし本人は「わたしです」といった。10そこで彼らはいった、「それならどうして目があいたのか」と。11彼は答えた、「イエスという人が練粉を作ってわたしの両目にぬり、『シロアムヘ行って洗いなさい』といいました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」と。12彼らは「その人はどこにいるか」とたずねたが、「知りません」と彼はいう。」
前田護郎先生は「道すがら」と訳しています。イエス・キリストは,何に関心があったんでしょう?
このシロアムの池で眼を洗って,眼が見えるようになって人は,眼の治療をして貰いましたね。でも,セラピー,治療してもらったのは,果たして眼だけだったのでしょうか?
私は,この人が,人から尋ねられて,「わたしです」とハッキリと応えたことがヒントだと考えますね。この人は,視力を回復しただけではなくて,「わたし」,すなわち,自分自身,≪本当の私≫,命を回復したのだ,と言えないでしょうか? イエスは,この「ヨハネによる福音書」第10章10節で,「10盗びとが来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、いのちを得させ、いのちにあり余らせるためである。」とハッキリ言ってますもんね。
私どもも,自分の≪本当の自分≫=命を回復して,人様が≪本当の自分≫=命を回復する,お手伝いができるようになりたいものですね。