脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

病名による差別をしないでください。

2012年04月10日 | 心の葛藤

日本てんかん協会が、要望書を提出

 

てんかん隠す背景に、差別偏見 2011年6月20日

 

病名による、差別をしないでください。

日本てんかん協会

以下上記ホームページから。


1. 運転に不適切なのは病気の症状(状態)であり、
  病気そのものや病気のある人ではありません。

  病名による差別はしないでください。

2. 病気のある人に、症状(状態)によっては運転できないという
  社会的責任を適切に自覚するための方策を、
  関係機関と協力をして一層推進してください。

3. 病気の症状(状態)のために運転免許証が取得できない場合には、
  その状態にある人の生活の不便を補填する施策を、
  関係省庁と協力をして推進してください。

 _______________________________________

 

 

私は何の罪もない交通事故の被害者であり、

加害者による交通事故という暴力により、

脳脊髄液減少症になったものです。

 

てんかん患者ではありませんし、

交通事故の被害者でもありますが、

この要望書内容に賛同します。

 

私は交通事故被害者ですが、

命までは奪われなかった。

 

でも、命は奪われずとも、人生をメチャクチャにされました。

 

誤解と偏見と孤独の中で

生きてきました。

 

脳脊髄液漏れという見えない事故後遺症を与えられたために、

 

社会から理解されず、

医師にも家族にも症状を信じてもらえない、

医療の相手にもされないまま、

 

あの脳脊髄液漏れの多彩で、死んだ方がましと何度も思うような、

拷問のような症状を抱えて、

ここまで生き延びることは、

本当に、「生き地獄」そのものでした。

 

命はあっても、

私がもし、健康なまま生きたら、得られたであろう人生は、

加害者によって殺されたも同然なのです。

 

それなのに、 

 私の加害者は、何の処罰も受けず、

今も、何のおとがめもなく、のうのうと生きています。

 

私は脳脊髄液減少症に対して、

何の保障も受けられず、

何年も何年も苦しみぬいた揚句、

やっと髄液漏れに気づき、

専門医にたどりつく、 

検査に健康保険もきかない時代から、

検査と自費の治療を繰り返してきました。

 

だから、

交通事故被害者と損害保険会社に対して、

同じ目にあわせてあげたいほどの、

煮えたぎるような怒りと、

 

まじめに正直に生きてきたのに、

どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかという、

やりばのない悲しみと、

 

何の保障もない理不尽さとで、あまりにもつらく、

 

「交通事故によって発症した」ということが

認められない現実が

あまりにも受け入れがたく、

それが精神的にも、追いつめ、

今も生きていることさえつらいことがあるのです。

 

死なずにすんだからまだいい、とか

命があるだけ感謝しなきゃとも

よく身うちからはいわれますが、

私にとってはそんな言葉は

なんの慰みにもならないのです。

 

何度も、何度も、

悲しくてつらくて、消えてしまいたいほど、

精神的にも追いつめられ続け苦しみました。

 

だから、交通事故により命は奪われずとも、

私も交通事故の加害者への怒りと、

被害者の苦しみは、

どちらも少しはわかっているつもりです。

 

それでも、私はこの要望書内容に

賛同します。

 

私の患う脳脊髄液減少症は、

私が好きでなったものではありません。

 

交通事故という

他人の暴力で、させられた理不尽な病なのに、

私に対する、

健康な人たち側からだけの一歩的な見かたや、判断にも、

苦しめられてきました。

 

だから、病を持った人たちの

社会の無理解や誤解や偏見に対する苦しみも、

想像できるのです。 

 

 

飲酒運転や、睡眠不足での運転のように、

自己管理で、交通事故を防ぐことのできるのに

その努力を怠ったまま、

悪質な危険運転をし、

重大な事故を犯すことは許されないし、

決して野放しにできないことです。

 

自己管理を怠った結果、事故を起こした場合、

危険運転致死罪を適用するのもやむをえないと思います。

 

厳しく処罰すべきです。

 

でも、だからといって、

病や、交通事故で、病やケガを負った人の社会復帰までもを

世間一般の安全確保の名のもとに、

一切を締め出してしまうような世間の動きが起こることを、

私は非常に危惧しています。

 

 

病名や、病気を持った人すべての

社会的差別を助長するようなことは

しないでいただきたいと思います。

 

 

差別を恐れて、病を隠す行為は

原爆症でも、

水俣病でも、ハンセン病でも

実際に過去にあったことです。

 

なぜ、それらの罪もない、被害者といっていい病人たちが、

その家族たちが、

病を隠さなければならなかったか、考えてみてほしいのです。

 

社会が、それらの人たちを理解し、支え、温かく応援してくれていたなら、

病名を隠す必要があったでしょうか?

 

そこに病を持たない健康な人たちからの

差別や偏見があったからこそ、

隠さなければ生きられないと思い詰めてのことでは

なかったのでしょうか?

 

本来ならば、

病人や被害者という社会的弱者は、

被害にあっていない健康な人たちから

あたたかな理解と支援があってしかるべきなのに、

 

逆に、阻害され、差別され、うとまれ、排除された事実が

先行して現実に起こっていたからこそ、

病名を隠さなければならなかったのではないですか?

 

弱った病人たち、被害者たちが、

ただでさえ、その病の症状の苦しみと

働けないことでの経済苦に苦しんでいるのに、

 

社会の人たちから助けてもらえるどころか、

それらの病を持たない健康な人たちから、

差別と偏見で、

社会的に阻害されてきたからこそ、

「隠さなければ」という発想が生まれるのではないでしょうか?

だから隠す、その結果悲劇が起こるとしたら、

こんな悲しみの連鎖は、

もう絶ってほしいのです。

 

では、どうすればいいか?

 

まず、 

自分を苦しめる病との闘いで、すでに十分苦しんでいるのに、

さらに、社会からの差別と偏見で、

病を隠さなければ生きられないと、

追いつめられるような患者たちを

もう出さないために、

 

そのためにはどうするか?

 

「病名を隠さなければ、社会で生きられない。」と思わせないために、

何を支援してあげたらいいのか?

 

そのためにはどうするか?

 

患者たちが、何を恐れ、何をもって病を隠さなければと感じ、

何を支援してもらえれば、

そいいった不安が解消するのか?

次々逆算するように、皆で考えて、対策を立ててほしいのです。

 

患者たちに「病を隠さなければ」と感じさせてしまうような社会を野放しにしたまま、

その点についてのなんの対策もたてないまま、

 

健康な人たちの視点だけで、

病気を持った人を

社会から排除するような風潮や

厳罰化だけが先行しても、

 

それは、けっして、本当の問題解決にはならないと思うし、

悲劇の連鎖は絶てないし、

社会をいい方向へは導かないと

私は思うのです。

 病を隠さなくても、一人の人間として人権が保障され、

周囲に温かく支えられ、

病気を持っていても、どうどうと社会参加し、

生きていける社会を構築するには、

どうしたらいいのか?。

 

目に見える身体障害は比較的支援策があるけれど、

目に見えない障害はに対しては、身体障害者ほどに、十分な支援策がないのが現実。

 

どんな病や障害を持ったとしても、

社会に必要とされ、どうどうとその人らしく、

何の引け目も感じずに、

ありのままを公言でき、

ありのままで、

自分も、他人も安全に、安心して、

人生を謳歌できる社会をつくるには、どうしたらいいのか?

 

悲劇の連鎖を断つために、

問題を根本から解決するために、

やるべきことはたくさんあるはずです。

 

それが何か、

皆で考えてほしいのです。

 

たとえば、

 

病のために、自分では運転することが危険だと、

そう、自分でも感じ、周囲も感じ、

医師にもそう診断された場合、

 

それに代わる交通機関を保障されるシステムも必要だと思います。

 

病により、不自由を強いられないように、

患者に対し、

たとえば、本人だけが

何度も自由に使えるタクシーパスなどの配布があってもいいと思う。

 

どうしても近くに進学先や職場が見つからず、

歩いてや自転車でも通えない距離の

通学や、通勤には、

たとえば、ペルパーによる無料送迎サービスや、

乗合いのタクシー、

健常者の送迎希望従業員との乗合送迎マイクロバスを職場が出すとか、

通勤通学のための、なんらかの社会的支援策が

当たり前にあってもいいと思う。

 

運転できないんだから、

歩いて行ける範囲、

自転車で行ける範囲だけで仕事や通学先を探せよ!というのは、

健康な人たちだけからの考えだと思う。

 

病気や障害を持った人だって、

極端でなければ、職場をある程度の距離範囲で

選べる権利はあってほしいと思うのです。

 

たとえどんな病を持っても、安心して生きられる社会をつくることは、

ひいては、病を持たない人をも、

安心して生きられる社会につながると

私は思うのです。

 

どんな病気になっても、安心して生きられる社会をつくることで、 

病に対する差別と偏見に恐れ、

病を隠して、ビクビクしながら精神的にも身体的にも無理を重ねて生きることで、新たに招いてしまう可能性のある交通事故をも

未然に防ぐと私は思うのです。

 

こどもを虐待した親を、いくら厳罰に処したって、

虐待を未然には防ぐことにはつながらないでしょう?。

 

そんなことをいくらしても、悲劇は繰り返されてしまいます。

 

どうしたら、根本的に虐待を未然に防げ、早期に発見しうるかが重要で、

それを、今、

さまざまな分野の人たちが一生懸命考え、

対策を立てて実行しつつあるんでしょう?。

 

それと同じように、

どうしたら、

悲劇が防げるか、

その大元のところをいまいちど皆で考えてほしいと

私は思います。

 

これは「てんかん」に限ったことではありません。

 

昨年の読売新聞医療ルネサンスにも

てんかんと運転の連載記事がありましたが、

低血糖でも同じ危険があります。

 

また、 

認知症と診断されているされていないにかかわらず、

高齢者の運転操作ミスでの事故は、

頻繁に報道されています。

 

報道されない事故の数はもっともっと多いことでしょう。

 

また、

限界集落では、「認知症」ぎみの高齢者が、配偶者を、

病院まで、送迎せざるを得ない状況にある現実を

以前、テレビが報じていました。

 

そういった人たちは、表に出ていないだけで、

相当数いると思います。

 

その人たちが、

安心して病院や、買い物に行けるようなシステムを作らずして、

今のままの、健常者中心の社会をそのままで

 

根本的な本当の意味での問題解決には

繋がらず、

悲劇は繰り返されると思います。

 

病気や障害を持ったものが、

足腰の弱った高齢者が、

認知機能が低下した高齢者が、

 

誰にうとまれることも、

迷惑がられることも、

差別されることも、

誤解や偏見に苦しむこともなく、

どうどうと、その人らしく、生き生きと生きられる社会。

そういった社会を培う十分なシステムがあってはじめて、

 

病気を持った人も、そうでない人も、

互いが互いを危険視し、敵視することなく、

対立することなく、

 

互いを信頼し、尊重し、

誰もが、安心して暮らせる幸せな社会が

育っていくのではないかと

私は思うのです。

 

日本神経学会

 

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