『落葉松』「文芸評論」 ㉖ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 5」
『昭和万葉集』(全二十巻)が昭和五十四年から五十五年にかけて刊行された。これに当地腫瘍歌人が記載されている。数字は巻数で、6☆7を境に戦前☆戦後に分かれる。
細田西郊 1☆ アララギ
細田仲次 3☆ アララギ
白井善司 145☆1415 国民文学派
赤井哲太郎 1346☆14 国民文学派
柳本城西 2☆789 アララギ、犬蓼
御津磯夫 35☆15 三河アララギ
鈴木喜之輔 34☆ アララギ
中谷福男 6☆ アララギ
紙谷庭太郎 45☆15 アララギ
松原旭(注④)6☆1220 水がめ
加山俊 ☆910 アララギ
前田道夫 ☆1314171920 アララギ
山田震太郎 ☆1619 「翔る」主宰
「アララギには廃刊など申す事実は到底あり得べからざる事に候。若し寸毫にてもアララギを疑はむものは正に無間地獄に随すべし」この言は『アララギ』第三巻第二号(明治四十三年)の茂吉の「編集消息抄」である。その強気の茂吉も遅刊、休刊が続き経営的にも苦しんで、明治四十五年『アララギ』子規没後十周年記念号を以て廃刊するつもりだった。が意外にも左千夫も無条件で賛成したので拍子抜けして、赤彦に知らせたところ、不賛成で全力を挙げて応援するから踏み止まれと言われ、『アララギ』の廃刊は思いとどまった。(二十五周年記念号による)。
左千夫の死後、赤彦が編集に携わり部数も倍増し、最盛期には一万部にも達した。赤彦死後、一時茂吉が再び継いだが昭和五年文明に移ると共に、戦中・戦後の復興を成し遂げた。平成二年百才を以て文明の死と共に求心力を失った『アララギ』は平成九年、九十年の幕を閉じた。
牛飼いが歌よむ時に世の中の
新しいき歌大いにおこる
(明治三十三年 左千夫)
みずうみの氷は解けてなお寒し
三日月の影波にうつろう
(大正十三年 赤彦)
最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆうべとなりにけるかも
(昭和二十一年 茂吉)
小工場に酸素溶接のひらめき立ち
砂町四十町夜ならむとす
(昭和八年 文明)
私も老いました。次の文明の歌(昭和二十一年)をもって終わりたいと思います。
君もわれもはげしき時代に生れあひて
静かなる老なで願ひ得るや否や
注① 『雁來紅』 葉鶏頭のこと。秋、雁の来 る頃に紅色になるので、この名がある。紅綠 天が最も愛した植物で、表紙にその彩色画を 見る。
注② 相生垣貫二 戦後は国語科担当となり、 羽公と共に「蛇骨賞」を受賞。句誌『海坂』 を創刊した。
注③ 御津磯夫 愛知県御津町の医師、今泉忠 夫。「三河アララギ」主宰。『引馬野考』(昭 和九年)著者。「犬蓼」と交流。
注④ 松原旭 名古屋女学院出身。家は積志の 西伝寺。水がめ派。「犬蓼歌会」に出席。歌集 『黄色亜麻(きいろあま)』(昭和二七年)。
文献① 『浜松市史 新編史料篇四』p920 (平成十八年刊)
文献② 『浜松市史 新編資料編三』平成十六 年刊、p1138に掲載
文献③ 同人歌誌『砦』創刊号(平成七年八月) 「編集→所便に見るアララギ戦後の復刊」
文献④ 『支那事変歌集』(茂吉・文明共選「ア ララギ双書77」)、収録歌三千六百余首
編注① 福男は福井市生まれで引佐ではない
編注② 仙花紙
編注③ 小松 現在の浜松市浜北区小松
< あと本編は、わずか >
『昭和万葉集』(全二十巻)が昭和五十四年から五十五年にかけて刊行された。これに当地腫瘍歌人が記載されている。数字は巻数で、6☆7を境に戦前☆戦後に分かれる。
細田西郊 1☆ アララギ
細田仲次 3☆ アララギ
白井善司 145☆1415 国民文学派
赤井哲太郎 1346☆14 国民文学派
柳本城西 2☆789 アララギ、犬蓼
御津磯夫 35☆15 三河アララギ
鈴木喜之輔 34☆ アララギ
中谷福男 6☆ アララギ
紙谷庭太郎 45☆15 アララギ
松原旭(注④)6☆1220 水がめ
加山俊 ☆910 アララギ
前田道夫 ☆1314171920 アララギ
山田震太郎 ☆1619 「翔る」主宰
「アララギには廃刊など申す事実は到底あり得べからざる事に候。若し寸毫にてもアララギを疑はむものは正に無間地獄に随すべし」この言は『アララギ』第三巻第二号(明治四十三年)の茂吉の「編集消息抄」である。その強気の茂吉も遅刊、休刊が続き経営的にも苦しんで、明治四十五年『アララギ』子規没後十周年記念号を以て廃刊するつもりだった。が意外にも左千夫も無条件で賛成したので拍子抜けして、赤彦に知らせたところ、不賛成で全力を挙げて応援するから踏み止まれと言われ、『アララギ』の廃刊は思いとどまった。(二十五周年記念号による)。
左千夫の死後、赤彦が編集に携わり部数も倍増し、最盛期には一万部にも達した。赤彦死後、一時茂吉が再び継いだが昭和五年文明に移ると共に、戦中・戦後の復興を成し遂げた。平成二年百才を以て文明の死と共に求心力を失った『アララギ』は平成九年、九十年の幕を閉じた。
牛飼いが歌よむ時に世の中の
新しいき歌大いにおこる
(明治三十三年 左千夫)
みずうみの氷は解けてなお寒し
三日月の影波にうつろう
(大正十三年 赤彦)
最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆうべとなりにけるかも
(昭和二十一年 茂吉)
小工場に酸素溶接のひらめき立ち
砂町四十町夜ならむとす
(昭和八年 文明)
私も老いました。次の文明の歌(昭和二十一年)をもって終わりたいと思います。
君もわれもはげしき時代に生れあひて
静かなる老なで願ひ得るや否や
注① 『雁來紅』 葉鶏頭のこと。秋、雁の来 る頃に紅色になるので、この名がある。紅綠 天が最も愛した植物で、表紙にその彩色画を 見る。
注② 相生垣貫二 戦後は国語科担当となり、 羽公と共に「蛇骨賞」を受賞。句誌『海坂』 を創刊した。
注③ 御津磯夫 愛知県御津町の医師、今泉忠 夫。「三河アララギ」主宰。『引馬野考』(昭 和九年)著者。「犬蓼」と交流。
注④ 松原旭 名古屋女学院出身。家は積志の 西伝寺。水がめ派。「犬蓼歌会」に出席。歌集 『黄色亜麻(きいろあま)』(昭和二七年)。
文献① 『浜松市史 新編史料篇四』p920 (平成十八年刊)
文献② 『浜松市史 新編資料編三』平成十六 年刊、p1138に掲載
文献③ 同人歌誌『砦』創刊号(平成七年八月) 「編集→所便に見るアララギ戦後の復刊」
文献④ 『支那事変歌集』(茂吉・文明共選「ア ララギ双書77」)、収録歌三千六百余首
編注① 福男は福井市生まれで引佐ではない
編注② 仙花紙
編注③ 小松 現在の浜松市浜北区小松
< あと本編は、わずか >