雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「文芸評論」 ㉖ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 5」

2017年09月24日 07時20分42秒 | 雨宮家の歴史
『落葉松』「文芸評論」 ㉖ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 5」


 『昭和万葉集』(全二十巻)が昭和五十四年から五十五年にかけて刊行された。これに当地腫瘍歌人が記載されている。数字は巻数で、6☆7を境に戦前☆戦後に分かれる。

 細田西郊  1☆       アララギ
 細田仲次  3☆       アララギ
 白井善司  145☆1415 国民文学派
 赤井哲太郎 1346☆14  国民文学派
 柳本城西  2☆789 アララギ、犬蓼
 御津磯夫  35☆15   三河アララギ
 鈴木喜之輔 34☆      アララギ
 中谷福男  6☆       アララギ
 紙谷庭太郎 45☆15 アララギ
 松原旭(注④)6☆1220 水がめ
 加山俊   ☆910 アララギ
 前田道夫  ☆1314171920 アララギ
 山田震太郎 ☆1619 「翔る」主宰

 「アララギには廃刊など申す事実は到底あり得べからざる事に候。若し寸毫にてもアララギを疑はむものは正に無間地獄に随すべし」この言は『アララギ』第三巻第二号(明治四十三年)の茂吉の「編集消息抄」である。その強気の茂吉も遅刊、休刊が続き経営的にも苦しんで、明治四十五年『アララギ』子規没後十周年記念号を以て廃刊するつもりだった。が意外にも左千夫も無条件で賛成したので拍子抜けして、赤彦に知らせたところ、不賛成で全力を挙げて応援するから踏み止まれと言われ、『アララギ』の廃刊は思いとどまった。(二十五周年記念号による)。

 左千夫の死後、赤彦が編集に携わり部数も倍増し、最盛期には一万部にも達した。赤彦死後、一時茂吉が再び継いだが昭和五年文明に移ると共に、戦中・戦後の復興を成し遂げた。平成二年百才を以て文明の死と共に求心力を失った『アララギ』は平成九年、九十年の幕を閉じた。

牛飼いが歌よむ時に世の中の
    新しいき歌大いにおこる
 (明治三十三年 左千夫)

みずうみの氷は解けてなお寒し
三日月の影波にうつろう
  (大正十三年 赤彦)

最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆうべとなりにけるかも
 (昭和二十一年 茂吉)

小工場に酸素溶接のひらめき立ち
砂町四十町夜ならむとす
 (昭和八年 文明)

 私も老いました。次の文明の歌(昭和二十一年)をもって終わりたいと思います。

  君もわれもはげしき時代に生れあひて
静かなる老なで願ひ得るや否や 


注① 『雁來紅』 葉鶏頭のこと。秋、雁の来 る頃に紅色になるので、この名がある。紅綠 天が最も愛した植物で、表紙にその彩色画を 見る。
注② 相生垣貫二 戦後は国語科担当となり、 羽公と共に「蛇骨賞」を受賞。句誌『海坂』 を創刊した。
注③ 御津磯夫 愛知県御津町の医師、今泉忠 夫。「三河アララギ」主宰。『引馬野考』(昭 和九年)著者。「犬蓼」と交流。
注④ 松原旭 名古屋女学院出身。家は積志の 西伝寺。水がめ派。「犬蓼歌会」に出席。歌集 『黄色亜麻(きいろあま)』(昭和二七年)。


文献① 『浜松市史 新編史料篇四』p920 (平成十八年刊)
文献② 『浜松市史 新編資料編三』平成十六 年刊、p1138に掲載
文献③ 同人歌誌『砦』創刊号(平成七年八月) 「編集→所便に見るアララギ戦後の復刊」 
文献④ 『支那事変歌集』(茂吉・文明共選「ア ララギ双書77」)、収録歌三千六百余首

編注① 福男は福井市生まれで引佐ではない
編注② 仙花紙 
編注③ 小松 現在の浜松市浜北区小松

     
< あと本編は、わずか >




『落葉松』「文芸評論」 ㉕ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 4」

2017年09月23日 22時13分52秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ㉕ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 4」

 私の手許に『アララギ』の昭和十九年九月、二十年十月(戦後復刊二号)、十一月、十二月、二十一年一月、二月の六冊がある。惜しむらくは復刊一号の二十年九月の見当たらぬことである。その復刊一号の編集所便(文献③)に文明が「十九年十二月号を二十年三月に発送したのち、本号(二十年九月)まで休刊の止むなきに至った」と言っている。

 空襲による編集所、印刷屋、歌稿などの消失により、二十年一月号より八月号まで八冊欠号となったのである。世相の混乱している戦後の最中、たとえ仙花紙(編注②)とはいえ九月から発刊し得たということは、関係者の並々ならぬ努力があったと思う。文明は「アララギも相当古くなったから、会員諸君がこの辺で新しい方面を学び取る努力を怠れば、腐ってしまうかも知れない」と、戦後の出発に当たり、既にアララギの行末を見据えているかの如き発言をしていることは注目すべきである。

 復刊二号の二十年十月号も仙花紙八頁であるが、「私案としては、地方のアララギ会というものが十分に文化的役割を果たし得るように地方会員が進んで勉強して欲しいことである。新しい任務があるのではあるまいか」と、従来エリート選者による中央集権的な感があったアララギとしては地方分散を考え「地方会員諸君が自ら研鑽の機会を多く持つようにされたい。連絡先としてさし当たり次の諸氏を煩わしたい」と画期的な提言をして、全国を十四の地区に分け静岡地方は張間(はりま)喜一(県静岡工業試験場長)を指名した。それに応えて張間は『静岡県アララギ月刊』を二十一年十月創刊した。
 
 当地の戦後の動きを福男の日記に見る。

 「(二十年十一月十日) 柳本先生ヨリ書信 新町通リニテ小生疎開先ヲ探シ中ノ紙谷庭太郎氏ニ会ス 犬蓼廻冊再興ニ就テオ話シアリ又柳本先生ノ書信モ当地ノ消息ヲ伝ヘ十五日マデニ歌稿送レトノ事ナリ
 (二十一年四月三日)小松(編注③)ノ池谷(宗観)宅ニテ犬蓼短歌会。城西、紙谷、鈴木、寺田、太田進一、加山、野中みさを、池谷、素小生。
 (二十一年八月九日)午後一時追分小学校ニテアララギ歌会。城西、庭太郎、大竹玄吾、加山、鈴木(旧上村)、池谷、斉田、松山夫人、井口、安中、中谷」
 安中新平が追分の校長だった関係があるが、戦後初のアララギ短歌会だったのではないか。

 『谷島屋タイムス』には年次不明の次のような記事がある。

 「浜松アララギ歌会、中谷福男の尽力によって創立の運びに至る。十二月三日午後六時より元城町江見定則方(家康鎧掛松裏通り)にて開催す。連尺町博文舎内 中谷福男」
 博文舎は谷島屋書店の古書部で谷島屋が改築する昭和十三年まで会ったから、十一、二年頃ではないかと思うが意外に遅かった。集った人達も不明である。
 戦後の二回目は、翌二十二年の四月二十七日、同じく追分小学校で開かれた。

 『アララギ』二十一年一月号になると、仙花紙ではあるが四十頁に増えて、岡麓が巻頭を飾り、茂吉、文明と続き投稿歌も載り始めた。同号で注目すべきは「写生論発表のために」(杉浦明平(編注③))の一文である。

 「短歌は戦争中に国民の生活と感情とを比較的正しく表日した唯一のものであった。恐らく渡辺直己(なおき)の歌が文章として発表されたら直ちに発禁は免れぬ運命であったろう」

 映画監督の小津安次郎が「お茶漬けの味」で、出征兵士をお茶漬けで送るとは何事かと不許可になった時代である。直己の歌は『支那事変歌集』(文献④、昭和十五年)に九十六首載っている。

  黒部峡に召集受けし感動が
       疲れし夜は浮び来るかも

  涙拭ひて逆襲し来る敵兵は
髪長き江西(かんしい)学生軍なりき

 編者の文明が「公表がはばかるものがあるので削った」という幾つかの歌がある。

命令を持ちゆかん心決すれど
軍の人間物品化に思ふ

憤ほろしき心わきくる夕暮に
    反戦主義の語をおもひたり

 なお、この歌集に城西としては異彩と思われる歌二首を見る。

旗の先にアイスカクテル括りつけ
    過せる列車の兵にとらしむ

還りける小川部隊に君はなし
かなしきかもよその遺骨さへ


< 続く >


『落葉松』「文芸評論」 ㉔ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 3

2017年09月20日 16時37分13秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ㉔ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 3」


 福男は「アララギ」に入会したとき、岡麓を選者に選んだ。アララギも初期の頃は雑誌代を払えば何首でも自由に歌を載せることが出来たが、大正二年(第六巻)から会員組織にした。特別会員は五十銭出資して五十首、普通会員は三十銭で二十五首を投稿できた。

 大正四年(第八巻)編集担当が茂吉より赤彦に代わると同時に、選者を赤彦・千樫・憲吉・茂吉の四人が分担して選歌を掲載することになった。これは会員が増えたためであった。しかし専属的な制度にすると、党派的な弊害が生じるであろうと投稿者を順廻りに各選者に廻していたが、いつしか自然的に師弟の関係が固定するようになっていった。福男が麓を選者に選んだのも自然の成行きであった。

 子規没後十五年程歌を離れていた麓が、憲吉の進めで復帰したのは大正五年であった。根岸派としては左千夫、長塚節亡きあと子規直門の最長老として麓を迎えた。茂吉はこの大正五年を以て、歌壇の主汐流をアララギが形成したと考える、と言っている。

 大正十一年の選者は麓・赤彦・千樫・憲吉・文明・土田耕平の六氏であった。茂吉は文部省在外研究員としてドイツに滞在(大正十~十四年)していた。

 「岡麓 通称三郎 明治十年三月三日本郷金助町に生る 三谷ともいえり はじめ傘谷(からかさだに)という 歌を詠み書を教えて一生をおはる」

 これは麓が自分の写真の裏に書きつけた自伝である。岡家は代々幕府の御典医で、祖父は十三代将軍家定付の漢方医であった。長兄、次兄が他界したので岡家を継いだ。生家は歌を離れているとき手放して出版社を経営したが、武士の商法で失敗し、聖心女子学園で周治担当の教師を、代々木山谷の自宅では書道塾を開いていた。前編で多田親愛に仮名書を習い、後年生活の資となったと話したのはこのことである。

 「都雅で軽妙なところがあると思えば、奥の方に渋みがあり、艶もあり、円味もあり、深いあわれもある」と茂吉は麓の歌を評した。
 
  すみすりてよこれたる手をあらはむと
 月夜あかりにこほりをたたく

 麓直筆の短冊が掛軸に表装されてわが家に残されている。

  庭すみに束ねられたる紫陽花の
新芽に今朝も氷雨(ひさめ)ふりつぐ

 その麓に師事したのが福男である。

 「アララギ浜松短歌会の主導的人物といえばこの人にまず指を屈するだろう。浜松市書店主・歌人 中谷福男氏。浜松市の谷島屋書店の番頭を二十年間つとめ歌道に入ってから三十年という歌歴の持主。気分の転換や頭の大掃除には歌がなによりの良薬という。
 自然美や人間美を深く広く表現したいと理屈抜きで親近感の歌が得意のこの人は、みえすいたお世辞がいえず俗気がなさすぎて経済的には貧困だという。練達の写実精神が商道に生かされたらと評している人が多い。「金に執着していては立派な歌は出来ません。早い話が点のつけどころ、句読点のおきどころで別の意味になる」とごく平凡に〝平凡の開眼〟をしてくれる。
 東京開成中の出身で同校の先輩斉藤茂吉博士に師事(一年生のとき、茂吉は五年生であった)。雅号はなく、浜松市新町に書店を持ち、晴耕雨読が日常の仕事。お酒は好まず甘党。軽妙なしゃれも得意だが、反面〝失笑症〟ではないかといわれるほど謹厳なところがある。極端な考え方の出来ない典雅な人というのが一般の評。引佐郡の産(編注①)、本年六十五才。」

 以上は、某新聞。県版の「顔」欄に載った(昭和二十八年、月日不明)。大体的を射ている。茂吉を訪ねた時の歌がある(昭和九年)。

をやみなき秋雨のなかたずねつつ
脳病院に今ぞ参りぬ
  (世田谷区松原の青山脳病院)


< 続く >

『落葉松』「文芸評論」 ㉓ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 2」

2017年09月19日 19時13分44秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ㉓ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 2」


 十一年四月の『まんだら』以来『落葉松』『はりはら』『アカシア』と引きつがれて、足かけ四年半に亘った大正歌人群は、雪膓が大正末年に自由俳句に転向した為、指導者を失い、城西の「犬蓼短歌会」へと移っていった。

 『犬蓼』二百五号(大正十五年一月)の編集余録に東城の筆にて、大正十四年の総勘定として「新人彗星の如く出現す。曰く亮一、曰く源一郎、曰く福男云々」とある。それぞれ松浦亮一、長谷川源一郎、中谷福男の諸氏のことである。

 『落葉松』が創刊された大正十二年七月と同じくして、青塘社同人の山本さとるによって『処女地』が発刊された。

 『谷島屋タイムス』20号(大正十二年八月)(文献②)にも、アララギ歌風の浸透を伝える史料、平松東城・小松東幹・近藤用一・中谷福男・山本さとる・高杉幸次郎・鈴木登志夫の七名の短歌作品を収める。いずれもアララギ歌会である。平松、中谷は城西の門下、とある。

 「犬蓼」会員は又「アララギ」会員でもあった。『アララギ』三巻六号(明治四十三年)の巻頭を飾った木村秀枝と佐藤綠郎の作は『犬蓼』二十三号所載(中編参照)の歌であり、『アララギ』四巻八号(明治四十四年)の「子規十周年記念号」に城西の作二首を見る。

 くれないの蚊帳の釣り手を目守りつ
うつろ心にいめに入るかも

 さみだれの夕晴れくれど花摘の葉の
たまる水かわきあへずも

 城西のふる里の風土を愛する秀歌抄の一つ。

西来院に築山御前の墓所を訪ふ
 しのび立つおくつきどころ荒れにけり
         松葉もつもり玉垣の上に

 西来院はわが家の菩提寺であり、藤の花の名所で、「咲きながら のびすすむなり 藤の花」の松島十湖の句碑があり、少年時代は遊び場であった。築山御前の墓所も荒れ放題で土塀なども崩れたままであった。戦後寄付する人あり、修復されてよみがえった。

 「アララギ」初期の郷土歌人を「アララギ二十五周年号」(昭和八年)に見ると次の如くである。
  初出号
 柳本城西 一巻二号 明41
 山下愛花 一巻二号 明41~六巻五号 大2
 木村秀枝 一巻二号 明41~八巻三号 大4
 槇不言舎 一巻二号 明41~十六巻六号大12
 奥島欣人 一巻二号 明41~二巻一号大4
 佐藤緑廊 一巻二号 明41~八巻二号大4
 川下静夫 三巻五号 明43~八巻三号大4
 大塚唯我 三巻六号 明43~十巻二号大6
 加藤雪膓 五巻三号 明45~十八巻四号大14
 伊藤紅綠天 五巻三号明45~七巻十一号大3
 平松東城 十三巻十二号大9
           ~十四巻一号大10
 奥村晋 十五巻五号 大11
           ~十六巻6号大12
 中谷福男 十五巻七号 大11
 近藤用一 十五巻十二号 大11
        ~十七巻七号 大13
 蒲清近 十五巻四号 大11
        ~十五巻5号 大11
 御津磯夫 十七巻十一号 大13
~二十二巻八号 昭4
 細田西郊 十九巻十号大15
~二十二巻十一号 昭4
 細田仲次 二十一巻十二号 昭3
~二十五巻九号 昭9
 安中新平 二十三巻三号 昭5~
 斉田玉葉 二十四巻七号 昭6~
 佐藤房一 二十四巻二号 昭6~
 太田進一 二十四巻二号 昭6~

 このあと、鈴木喜之輔、大竹玄吾、紙谷庭太郎、加山俊。前田道夫などの俊英に引き継がれていった。

< 続く >


落葉松』「文芸評論」 ㉒ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 1」

2017年09月18日 11時54分53秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ㉒ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 1」


 Ⅲ 6 大正歌人群 ー浜松詩歌事始 後編

 大正十三年一月三日、「新年遠江短歌大会」が弁天島の泊砂亭で開かれた。この歌会は聖樹(せいじゆ)社(磐田中泉)、落葉松(からまつ)社、谷島屋タイムス社、犬蓼短歌会の連合で開催された。その頃、遠江の短歌界は最盛期で、歌人たちはそれぞれ精進して、ここに大連合して一同に会した。

 平成二年三月十日付『静岡新聞』の「懐かしの写真館」に「遠江の歌人ら大連合」の見出しで、その時の写真が載った。

 参列者は、後列は、花井陽三郎、白井善司(しらいぜんじ)、野沢虎造、赤井哲太郎、旭赤光(あさひしやくこう)、柳本城西(やなぎもとじようせい)、袴田恵丹(けいたん)、近藤用一、蒲清近(かんばせいこん)、宮崎狐星、江間作一、山本誠一、林俊三。

 前列は、永田武之(たけし)、宇波(うなみ)耕作、瀬川草外(そうがい)、加藤雪膓、鈴木肇(はじめ)、松山草平、中津川空郎(あきお)、世話役の中谷福男。当日出席していた久野養、石川新作、他一名の三氏は写真欠。合計二十四名でした。城西、草外の医師は洋服姿、他は全員和服姿でした。弁天島の松林も懐かしく、当時を偲ぶ一枚の写真でした。

 子規直門の県下一の俳人と目された雪膓が単価に転じたのは明治四十四年であった。大正二年に伊藤紅綠天らと「曠野会」を設立、「第三者」なる機関誌を発行した。紅綠天は大正四年に二十二才の若さで死去し、遺詠『雁來紅(注1)』を雪膓の「彼の純な心境と清い風格とを永遠に偲ばんとするものである」を結語として第三者社より刊行した。

 雪膓は明治三十五年、文検に合格して中等教員となり、明治三十八年以来、浜松中学校(現浜松北高校)教諭だったが、大正五年八月、十四年間に及ぶ教員生活に別れを告げ、明石合名会社(石油販売)に入社し、大阪出張所長として大阪に赴任し、一人で専ら短歌に精進していた。大正十一年、出張所閉鎖により帰浜したが、ちょうど浜松地域に近代短歌の芽ざしが出始めた時であった。

 大正十一年四月一日に、当市の青年歌人奥村晋・細田西郊等の同人の手により短歌雑誌「まんだら」が創刊された。(『谷島屋タイムス』第三号(大正十一年三月))

 二号は五月、三号は六,七月合併号として七月に発行されたが、三号で終刊となった。寄る辺を失った歌人たちは、画策を考えたが「木犀(もくさい)歌会」なる名目で歌会を大正十二年一月三日、浜松城跡の天守閣楼上で行うことにした。ちょうど頭首の「新年遠江短歌大会」の一年前のことであった。当時の天守閣には畳敷きの部屋があった。当日は雪の降る寒い日であった。この歌会を「天守閣歌会」といった。

 雪膓と浜松歌人たちとの接触はこの時からで、雪膓宅で毎月歌会が開かれた。当時雪膓の住まいは中沢町の楽器中通りにあり、入り口の受付に卓子があり、令息の万古刀氏が玄関番をしていた。歌会では同人たちが夜の更けるまで過ごした。議論は大抵雪膓と草外の間で行われ「異論のある方は遠慮なく言ってくれ給え」という雪膓の鋭い舌鋒に立ち打ち出来るのは、東北人特有のねばり強さを持つ草外より他に無かった。

 草外は本名を瀬川深と言い、岩手県盛岡中学校の出身で、同窓の石川啄木と親交があった。「谷島屋タイムス」九十七号(昭和十一年十一月)に「啄木の追憶」の一文を寄せた。

 「僕が啄木を知ったのは中学二年からで、啄木は三年であった。当時、盛岡中学校の先
輩には及川古志郎(海軍中将)、野村胡堂(作家)、金田一京助(国文学者)等がおった。」

 「啄木が中学を去り上京する三十五年十月まで僅か三年間、僕は絶えず啄木と往来し渋民村へも何回も行って泊まったりした。」

 中公文庫『日本の詩歌③石川啄木』の年譜(明治三十四年 十六才)に「十二月三日『岩手日報』に石川翠紅(すいこう)の筆名で友人の瀬川深らと「白羊会詠草(一)夕の歌」を発表、啄木の活字になった最初の作である」とある。啄木と号するようになるのは明治三十六年(十八才)、『明星』に長詩を発表したときからである。

 草外は昭和十三年十一月十八日、誠心高等女学校での講演(『谷島屋タイムス』の編集人でもあった同校教諭中村精の要請によるものと思われる)でも「私が啄木と仲よくなりましたのは啄木が三年生で私が二年生の時でした。しかし、私は啄木の研究者ではありません」と言っている。(文献①)

 草外は伝馬町の羽公宅に下宿して俳句もやり、のちに元城町に小児科医院(京大医学部卒)を開業した.戦争で消失するまであったように思う。

 『まんだら』廃刊よりちょうど一年経った大正十二年七月、『落葉松(からまつ)』が創刊された。同人は中谷福男、近藤用一の両人で、発行所は東伊場八十八番地の中谷福男宅であった。

 「かねてから心に計画はあったが、こう突然的に創刊号を出し得るとは思わなかった。之は全く加藤雪膓、瀬川草外両先生始め皆様の深い御援助と近藤用一君の努力の賜(たまもの)であります。私達は乏しい力を奮って軌道の為につくす積もりです。華美より質素に、到達すべき彼岸は遠いが長い歳月は必ず我らの望みを入れて下さる筈です」(福男)

 「明るい小ぢんまりとした中谷兄の二階で机にむかって、よねんなく之から生まれる「落葉松」の編集をしている。隣りのトタン屋根にさやる雨の音を聞きながら,包みきれぬ喜びをおさえ集まった歌稿を整理している。一月雪膓先生を訪ねて、かねての計画について意見を発表した。先生は両手をあげんばかりに賛同して下さった。私等の歩みはおそい、けれどもたゆまぬ努力をしてこの芽生える「落葉松」も諸兄のいつくしみある御同情によって青々とした緑の繁らん事を望んでやまない次第です。表紙の誌名及びカットは相生垣貫二氏(注3)が特に私達のために描いて下さいました。厚い御同情をお礼申します」(用一)

 本誌はアート紙八頁の緑色印刷であった。出詠者は宇波耕作・川島菊子・加藤雪膓・江見孝子・松倉水声・袴田惠丹・山田千之・細田西郊・松浦辰治・亀井静子・蒲清近・奥村晋(遺稿)・近藤用一・中谷福男の諸氏であった。

 大正十三年五月の十一号を以て誌名を『はりはら』と改め、九月に十二号を発行した。用一は同人を退き、雪膓・草外・寂村・武之・福男の五氏が同人となったが、十四年五月の二十号を以て終刊となった。

 その後、東城・福男の二人で『アカシア』をガリ版刷りで発行したが、之も翌十五年の九月に九号を以て終えた。

 
< 続く >


『落葉松』「文芸評論」 ㉑ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 5」

2017年09月17日 11時27分28秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ㉑ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 5」


 前編でちょっと触れた(年代的にはだいぶ先の大正後半のことになるが)子規の「天の川」の句の詳細は次の通りである。これらは『谷島屋タイムス』の記事の要約による。

 『谷島屋タイムス』は東京日日新聞浜松通信部長だった法月(のりづき)歌客が店主(斉藤義雄)の要請により創刊号(大正十一年一月)より62号(昭和二年二月)まで、63号(昭和二年六月)より77号(昭和四年一月)までを店員の中谷福男、近藤用一が担当した。このあとしばらく休刊して78号(昭和八年九月)より終刊107号(昭和十三年十一月)までを誠心高等女学校の中村精が編集に携わった(文献④)

 アルス社の『子規全集』が刊行され始めたのは子規死去二十四年後の大正十三年六月で、全十五巻が完了したのは大正十五年末であった。その第二巻に載った子規の句

馬通る三方原や時鳥(明治28年)
天の川浜名の橋の十文字(明治29年)

を見出したのは歌客であった。雪膓との対話で、雪膓は「想像の作だろう」と両者で次のような結論を出した。

 「加藤雪膓、法月歌客両氏を発起人として弁天島駅前に子規居士の「天の川浜名の橋の十文字」を、三方原追分に「馬通る三方原や時鳥」の句碑を建立することになり、本年(大正14年) 四月一日より次の方法で基金を募集する。
 一、碑石 高五尺五寸巾二尺二寸の奥州石、    台石は長約六尺の自然石なり
 二、文字 全集の原本「寒山落木」の肉筆を    拡大したものを彫せんとす
 三、寄付金 一口五十銭也 一人にて数口以    上応ぜらる
 四、略
 五、拓本 三口以上応募の方へは碑文の拓本    一葉以上を配送す
 六、除幕式及会計報告は第一回を七月五日弁天島に於てし、在京名士一、二名を招して講演及記念運座を催す。以上。」

 「大正十四年七月五日午後一時、雪膓氏の式辞及経過報告が終わると同氏令嬢多賀子さんが石碑を覆う白い幕を切って落とし「天の川浜名の橋の十文字」が故人の筆蹟通りの鮮やかさを以てその碑面を表した。当日の盛典に臨んだ高浜虚子氏は、立って祝辞を述べ厳粛のうちに式は終わった。写真撮影後、楽園に俳筵を開き、席作の互選を行ひ、虚子の選句批評があった。夜に入って晩さん会を丸文旅館に開いたが出席者は五十余名に及んだ。

  葭簀茶屋に見上げたる蓆かな   虚子
潮なめて干からきに日の大署かな 雪膓
海月とけて烈日の砂うるほへり  雪膓

 選者は虚子であったが、雪膓の句は一句も採られなかったので、虚子と雪膓の間で口角泡をとばす論争となったのである」(『谷島屋タイムス』44号=大正十四年八月)。

 そして雪膓は虚子に対して次のような痛烈な攻撃を加えた。

 「虚子の物した除幕式当日の運座句の杜撰な選歌と自作と而して「ホトトギス」八月号に発表した一年有余年間二百句の平板な近詠ー就年百文の四位は成句があるがーとか甚だ荒蓼たるものの安価なるもの寧ろ低級な自然観賞の程度に彷徨するもなるに考えた。実に一驚を喫せざるを得ない点に於て一層深くその心をもとなき感をひき起こしたのである。(中略)。
 唯それ文語体の表面描写法の十有五年ー式没後のーは既にすぎ去って特に写生派の新月並の出現すると共に、一方には主観派の口語俳句が勃然として時代俳客の頭上に将来せんとしている。」(『谷島屋タイムス』45号=大正十四年九月)。

 百合山羽公が「県下一の俳人だった筈が、いつの間にかアララギ派の指導者になっていた。」と言ったように、大正年間雪膓は短歌界に没入していたが(後篇にて詳述)、弁天島句会を期に再び俳界に身を転じた。


注①「ザボン」 朱欒、ミカンの一種、樹は三 メートル以上の高さになり大きな実をつける。
注②「つはぶき」 石蕗。キク科の常緑多年生 植物で、クキに似た形の葉は厚く、柄が長い。 秋から冬にかけて花茎を出して黄色の花を戻 状につける。葉柄は食用、又漢方薬用になる。 暖地の海岸寄りに自生するが、観賞用に庭に 植えられる。左千夫が来浜した時はちょうど 秋であり、花が咲いていたのであろう。
注3「かづら」 葛。つる草類のこと

文献① 永塚功著『和歌文学大系 25 左千夫 集』明治書院、平成二十年、p3
文献② 西郷信綱著『斎藤茂吉』朝日新聞社、 二〇〇二年十月三十日、p12、p27
文献③ 『アララギ』二十五周年記念号、昭和 八年一月号
文献④ 『谷島屋百年史』昭和四十七年十一月三日発行、p81


< 「中編」終わり、「後編 1」へ続く >


『落葉松』「文芸評論」 ⑳ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 4」

2017年09月14日 16時54分36秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑳ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 4」


 更に同年一一月には子規遺稿として『竹の里歌』が、三十年以降の歌の自筆原稿によって左千夫・秀真・麓・節等によって俳書堂により刊行された。

 それを当時旧制一高の学生だった斎藤茂吉が神田の貸本屋から借りて読んだ。

 「正岡子規という人は俳句の方で有名だったが、歌を作るといふことは知らなかったので、それで読んで見ようと思った。」「どうも竹の里歌が気に入り申し候」と開成中学以来の親友渡辺幸造宛書簡で言っている。(三十八年五月六日付、文献②)

 『馬酔木』第三巻第二号(三十九年二月)に茂吉自作の歌五首が載った。

  来て見れば雪消(ゆきげ)の川べしろがねの
  柳ふふあり蕗(ふき)のとうも咲けり

  あづさゆみ春は寒けど日あたりの
 よろしき処(ところ)つくづくし萌ゆ

 その早春二首で初めて歌が載って感激している処、左千夫から手紙で「貴君は一首の天才なることを自覚し、今のまま真直に脇目をふらずにやってもらいたく候。決して真似などせぬよう願いたく候。(以下略)」とはげまされ、三月十八日本所の幸お宅を訪れ、入門を果たして茂吉の歌人としての第一歩を踏み出した。

 三十八年一月ロシアの旅順降伏のとき、左千夫より「その祝事に雀起致し暁『馬酔木』は仰せの通り御郷家へ御送り申上候」と軍事郵便を受け取った城西は第三師団野戦病院を三十九年召集解除になり帰郷して篠原村(現浜松市西区篠原町)に医院を開業した。当時、篠原村といえば浜松とはかけ離れた存在であった。

 「わが短歌会は去る四十一年五月、水清き浜名湖のほとりにささやかなる呱々の声をあげてより、歳を数うること八、月を重ねること実に八十一、これまで簡素なる廻覧式冊子を以て月々の創作、批評、研究に鎬(しのぎ)を削ってきた。この廻稿を誰いうことなしに『犬蓼』と呼ぶようになった。今この懐かしい歴史を捨てるときが来た。そして新しき境遇によりて不断の努力を続けて行こう。」廻覧形式の『犬蓼』が八頁印刷の冊子になった大正四年四月の八十一号に載った余白録の記事である。

 このように城西は四十一年五月号jから「犬蓼短歌会」を始めたが、『馬酔木』(三十六年六月創刊、三十二冊刊行)が四十一年一月廃刊されて『アララギ』(最初は『阿羅々木
』)が創刊されたのもこの四十一年十月であった。

 『犬蓼』第一号の投稿者は次の諸氏である。

 ○山下愛花 前述
 ○槇不言舎 医師。沼津短歌会の主催者。
 ○朝倉天易兒 豊橋の人。浜松短歌会主催者。
 ○丹波光癸 (緩川)東京美術学校出身。
 ○近田常世 豊橋短歌会を主催。小学校教員。       城西より二年先輩。
 ○乙部秋郎 豊橋の人。新聞記者。
 ○柳本城西 沼津短歌会にも属す。

 以上七氏で、二号より木村秀枝(ほずえ)(沼津短歌会)、佐藤緑郎(名古屋の人)が参加した。

 『浜松市史ー新編 史料篇三』(平成一六年三月刊)に「犬蓼短歌会稿と批評(『犬蓼』創刊号~三号)」は前記八氏(緑廊を除く)の歌稿と批評が載っているので参照されたい。

 左千夫は『アララギ』創刊(四十一年十月)後の十一月八日沼津に木村秀枝を訪ね、城西より選歌の依頼のあった『犬蓼』を初めて目にした。以後は『犬蓼』は五号より左千夫の評を受けるようになった。

 「城西翁は私の知った最も古い歌人の一人であり、しかも長寿を保たれ最後まで歌の道を共にした人である。四十二年四月、左千夫先生の手許に集まる歌稿はアララギの他は沼津短歌会と犬蓼短歌会の詠草ぐらいのものであった。正直のことを言うと沼津も犬蓼もアララギとしては最右翼でなお旧派の如き風貌を残すものが少なくなかった。それでも先生は、数少ない同行者を重んじて進んで選評を加えられた。」(土屋文明『犬蓼(城西歌集)』の序文要旨)

 左千夫より城西に宛てた四十二年十月八日付の書信で、「二冊の歌稿中には殆ど根岸派の趣味と無関係の歌多く佳句の此の如き歌を何のために小生に見せるのかと思われるものを不少候(中略)根岸派趣味と解せざる人のために歌の選をするは不快に候故一寸申上候。」

 これは余程眼に余ったのであろうか手厳しい言で「犬蓼」十六号に載り、十七号に同人の言で「此頃根岸派以外の歌を以て大半を占むと左千夫先生より鉄拳を頂きたり。諸氏幸いに考がみる所あられよ」(幹事 城西)。

 これに対して賛否両論が起こり、一号以来の同人だった山下愛花、丹波光癸、近田常世、乙部秋郎たち反根岸派は姿を見せなくなってしまった。

 しかし乍ら「勉めて止まざる駿遠の諸同人は、其敬すべき態度より遂に著しき進境を示し来たれり。今最近の会稿中より数首を抜いて巻頭に掲ぐ。酵乎たる真情の現れには、毫末も遊戯的気分を交へず、声調おのづから其精神を伝えたるを見るべし」と左千夫の激賞を得て、『アララギ』第三巻(四十三年)六号の巻頭を飾ったのは『犬蓼』二十三号(四十三年四月)の次の二氏の歌であった。

木村 秀枝
  子を思ふこころ隈なきたらちねの
 汝が母はあれど汝が乳はなし

  安からぬ常世の夢のしばらくを
すかす空乳に細々と眠るも

佐藤 緑郎
たまたまに帰る吾身を力にて
    さびしみおほす父母悲しも
(他二首)

 茂吉は「一般歌壇を目当とした点もあるが、既にアララギに動いていた新しい傾向にむかって云ったとも解することが出来る」と言っている)(文献③)

 『犬蓼』としては不名誉を挽回して面目を施した訳で、城西も「その時の嬉しさは忘れられない」と(文献③)の「犬蓼短歌会の思出」の仲で言っている。
 
 左千夫は茂吉から「先生も地方の同人たちから祭りあげられて納まっているようでは駄目です。」(帰ってから詫びのハガキを出したが)と言われる位、地方グループと接触があった。最も親しかったのは信州同人たちであった。上諏訪の島木赤彦の招きで、八年間に前後十回歌会に招かれていた。赤彦は歌誌『比牟呂(ひむろ)』を発行していたが四十二年に『アララギ』に合同した。左千夫は地方グループからは師として尊敬されていた。

 その左千夫が大正二年七月三十日脳溢血で急死した。その時、茂吉は赤彦を訪ねて信州上諏訪にいた。上諏訪布半旅館の浴槽の中で、古泉千樫からの「サチオセンセイシンダ」の電報を受け取り、喬木村の赤彦宅へ走った。時すでに夜半を過ぎてうた。ー途中から人力車に乗ったというが。(文献②p27)
 
ひた走るわが道暗ししんしんと
  怺(こらえ)えかねたるわが道暗し

 茂吉の第一歌集『赤光(しやくこう)』(初版(○○))の冠頭歌「非報来」である。『赤光』は茂吉が左千夫に初めて歌の教えを受けた明治三十八年より死なれた大正二年に至る九年間の作で、左千夫に始まり左千夫で終わる歌集である。その初版の践で茂吉は次のように言っている。

 「「アララギ双書第二篇」が余の歌集の割り当てになった時、予はまずこの一巻を左千夫先生の前に捧げようと思った。(ここ数年、左千夫と茂吉、赤彦、憲吉、文明ら若い門弟たちと論争的に対立して左千夫から批判され通しだった茂吉はこの歌集を以て先生から批評を受けたいと思っていた。)この歌集がようやく完成するというところで、突然先生に死なれてしまった。それ以来手につかずしばらく呆然としていた。それでもどうにか歌集は出来上がった。予は悲しくてこの一巻を先生の霊前に捧げねばならぬ。」(要旨)

 初版は先生の死ー非報来ー(八百三十四首)から始まったが、大正十年までに改版を重ね、歌も製作年代順に改め(七百六十首)先生の死が最後になった。

< 「中編 5」へ続く >


『落葉松』「文芸評論」 ⑲ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 3」

2017年09月12日 21時30分42秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑲ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 3」



 左千夫の西遊途次の浜松滞在には、この愛花と左千夫の『日本』への子規選歌の連載が機縁となった、

 山下愛花は豊橋の人で、家が薬局だった関係より浜松市元城町の熊谷眼科の薬局に勤めていた。

 朝倉貞二(天易兒(ていじ))の主催で、内藤不二丸・下村快雨・柳本城西・佐野蓬丹・山下愛花たちで「浜松短歌会」を興した。

 七月七日付で左千夫は朝倉貞二に次の様な書信を送った。

 「小生などの愚見お尋ねあらんとならば願わくは名古屋短歌会なり馬酔木(後述)の課題外へ投稿して下されば選抜又は批評を致します。失敬ながら何処か一ヶ所つかまえた歌あらば云い様はどんなにまづくとも直して採ります。内容のつまらぬのを調で綾なすのが月並歌又は旧派もしきはえせ新派です。何でも始めは無茶につくるのが第一です。沢山つくってよこし給へ。少しでも新しい事をつかまえてありさえすれば手を入れて物にして載せます。それと浜松短歌会はどうしました。愛花君に逢いましたらよろしく。(要約)」

 「名古屋短歌会」は岐阜の億島欣人が発起人として、三十六年二月機関誌『鵜川』を発刊し地方唯一の根岸派として左千夫より賞賛されていた。

 子規に生前機関誌の発行を認められなかった根岸派としては、俳句における『ホトトギス』のような機関誌を持つ必要を感じていた。三十六年二月岡麓宅での歌会の席でその具体化を図り、左千夫・麓・蕨真・節たちを中心として六月五日『馬酔木(あしび)』第一号が発行された。子規亡き後九ヶ月目であった。左千雄は七月より九回に亘って「竹の里人」を連載した、

 その頃、柳本城西(やなぎもとじようさい)は豊橋病院の外科勤務医で短歌を作り「無花果(いちじく)短歌会」を始め、互選歌集を出し、『鵜川』『馬酔木』に投稿して左千雄の選を受けていた。しかし三十七年日露戦争に軍医として出征したため、後事を託された近田常世(とこよ)は「豊橋短歌会」と改称して『甲矢(はや)』を発行していた。

 沼津の槇不言舎が「沼津短歌会」を興したのもこの頃で、西遊から帰京した左千雄が三十六年一一月二六日付で祝賀の手紙を出している。名古屋、豊橋、浜松、沼津の短歌会は夫々連携して『馬酔木』を拠り所としていたが、何れも永続しなかった。

 『竹の里人選歌』は三十三年一月から三十五年九月まで、子規が選んで『日本』に発表した短歌を、子規没後左千雄が編集し単行本として根岸短歌会より三十七年五月刊行された。

   < 続く >


『落葉松』「文芸評論」 ⑱ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 2」

2017年09月10日 22時05分26秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑱ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 2」


 左千夫(千葉県成東(なるとう)町出身)が東京・本所茅場(かやば)町に牛乳搾取業を開業したのは、上京四年目の二十二年(子規が喀血し、羯南が「日本」を創刊した)二十五才の時だった。同業者中、随一の勤勉家で、同業の伊藤並根より茶の湯と和歌を習い、更に万葉調の桐の舎(きりのや)桂子(かつらこ)の歌会を紹介され、同門の岡麓を知った。

 桂子は橘更世子の門人にして疲瘤(ひりゆう)(病みつかれて老衰したさま)の病あり、左千夫の魁偉を以てして対座説論す、頗る奇観なりき」と、岡麓その席に列してこれを見、手柄話とした。
  
  牛飼が歌詠む時に世の中の
あたらしき歌大いに起る
(三十三年)左千夫

 この一首は牛飼を生業とする者までが歌詠むときに、この新しい時代に新しい歌が盛んになるのである、といった気概が示されていて、左千夫の歌人としての自己形成への意識と気魄が感じられ、その出発に呼応する歌と言えよう。(文献①)
 
 子規が既に成立していた俳句を先例として『歌よみに与える書』で「平等無差別老少も貴賤も無之候」と述べたように、一般民衆にも短歌を導入しようとして『日本』誌上に「新年雑詠」として、次のような注意事項をつけて募集発表したのは三十三年一月一日であった。

 「新年は太陽暦の新年と定む。従来新年の歌を年が改まりてめでたいとか、夜明くれば春めいたとかいふが如き紋切形といふに止る。ここに特に雑詠の文字を添えたるは陳腐を脱せんがために其範囲を広くし、新年にある事は何事にあれ詠むべしとの意なり。」

 これに左千夫の応募した歌三首が載った。

葦さかへし藁の軒場の鍬鎌に
しめ縄かけて年ほぎにけり

  天仰ぎき富士の嶺に居て新年の
      年迎えんとわれ思いにき

ゆたゆたと日かげかづら(注③)の 
    長かずら柱にかけし年ほぐわれは

 尚、左千夫としては、三十一年四月六日の『日本』に、春園(はるぞの)の号で「題知らず」二首が掲載されている。

 「新年雑詠」が発表された翌二日、左千夫は初めて子規庵に子規を尋ねた。雪膓(三十年)・岡麓・香取秀真(三十二年)に続き、歌人としては三人目であった。左千夫三十六才。子規三十三才。

 ちょうど岡麓が年賀に行くと、聞き覚えのある大声が聞こえてくる。子規の室に入ると、左千夫がどっしりとあぐらをかいて、子規と話をしていた。これには麓も驚いた。二人はこの日長居をして夜十時頃まで話にはずんだ。左千夫はこのあと一月七日の第十回根岸短歌会に初参加し、以後会の重鎮となっていった。

 二回目の募集短歌は「森」であった。

 「森は木の多き処をいふ。林といひ木立といふも亦妨げず。実際に森を見、森を行く時の景色感情を詠むべし。机に向かって歌書を繙くの暇あらば杖を携へて森の小道を逍遙するに如かず」
 二月十二日付の「森七」に山下愛花の三首が載った。

   学び舎を帰る処女等菫咲く
     森の下葉分け入りにけり(他三首)

 愛花に続いて左千夫の三首が載った。

かつしかや市川あたり松を多み
松の森のなかに寺あり(他二首)



『落葉松』「文芸評論」 ⑰ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 1」

2017年09月06日 17時22分41秒 | 雨宮家の歴史


『落葉松』「文芸評論」 ⑰ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 1」


 Ⅲ 5 左千夫・茂吉と城西 ー浜松詩歌事始 中編

 伊藤左千夫が山下愛花(浜松短歌会同人ー後述)の招きで西遊の途次、浜松へ寄ったのは明治三十六年(以下、年は明治)十一月十四日であった。左千夫自身の「西遊日誌抄」(『馬酔木(あしび)』ー後述ー三十七年二月号)によって見よう。

 「かみふさの蕨真(わらびまこと)(真一郎ーのちの『アララギ』創刊号の発行者)、都の左千夫二人、草鞋、霜を踏みて暁に無一塵庵を出づ。
 ○浜松
 午後の三時近き頃というに浜松へ着く。心相知る久しけれど、未だ面知らざる山下愛花、慈にありて吾等を待てるに逢ふ。君、あなたなど言ひかわしたる後は,早くも隔てなき友なりけり。ここに古き家なりという某なる料亭に宿る(鴨江の聴濤館(ちようとうかん)という。今は料亭となっている)。我等が占めたる家の二階の家近くにザボン(注①)の実の大きさ蹴鞠(けまり)ほどなるが、落々として枝たはにゆらぐ、眼さむる心地しぬ。

  をのこども三人よりあひ胡座(あぐら)かき 
        ザボンの窓に物うち語る

 言の葉草盡(つ)くる時あらねば、日の暮れぬ内にそこら少しく見て来ばやとて立ちいず、古の城の跡天守閣のありし所に登る。愛花四方を指して古今を説く。南の方遠く平らかなる磯辺さやかに波のよすると見ゆ。北は山沢広く相続き其奥を知らず。折しも夕陽斜に千里光を放つ。愛花は雑木林を指して、かれよりかれに至る即ち三方が原なりといふ。

  風寒く夕日悲しも武夫が
      血にさけびけむ其あとどころ

おのがししつかふる君に 
     武夫が命ささげて相争し

 古き石垣の石間々々には、つはぶきの花さはに咲くともあわれ深くおぼゆ。

  武夫が剣抜きなめ守りけむ
  今徒らにつはぶきの咲く

咲きかへる石間のつはぶき千代ふとも
    守りむ人に又あはめやも」

 左千夫が一世紀前に詠んだ浜松城跡の石垣のつはぶきの花は、今も同じように咲いている。

  石垣に花のとぼしきつはぶきを
   見つつあやうき石段下る
壬寅(みずのえとら)(昭和三七年)福男

 この後、左千夫は名古屋、大垣、養老の滝、石山寺、京都、奈良を通って二十四日に帰京した。


< 続く >


『落葉松』「文芸評論」 ⑯ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 3」

2017年09月05日 20時53分35秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑯ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 3」

 Ⅲ 4 雪膓と子規 ー浜松詩歌事始 前編 【その3】


 「歌よみに 」を発表する前年の九月頃、子規は腰背骨近くに二ヶ所穴が開き膿汁が流れ出て歩くことが出来ず、這って縁側に出る仕末であった。庭には草花が繁り、へちまのつるが柵に巻きついていて延びていた。『仰臥漫録』に子規の絶筆となったへちまの柵のスケッチが描かれている。庭は子規にとって「写生」の具となった。

 もともと「写生」の語は絵画の言葉であるのを移して、文芸の上の用語としたのは子規であると、茂吉は「写生ということ」(『アララギ』大正八年一月号)で述べて「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である」という定義を与えた。(『アララギ』大正九年九月号「短歌における写生の説」)。

 子規の「写生論」は新聞『小日本』の挿絵画家となった中村不折との出会いから始まる。不折は小山正太郎の画塾「不同舎」で西洋画を学んだが、小山は浅井忠と共に工部美術学校でイタリア人画家アントニオ・ファンタネージ教授から西洋美術を学んだ。不折を子規に紹介したのは浅井忠であったが、浅井は根岸の住人だったので子規と何等かの縁があったのであろう。子規は不折から西洋美術を学び「写生」の重要性と写生の材料は無限に発見でき、文学作品への活かし方を知った。不折との出会いは二十七年三月であった。(注⑫)

 「夕餉(ゆうげ)したため了りて仰向き寝るが、ふと左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり、艶にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてもあやしくも歌心なん催されける。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければ
      たたみの上にとどかざりけり」
  (『墨汁一滴』三十四年四月二十八日、            連作十首の頭歌)

 この歌は病める子規だけに許された視点からスケッチ(写生)したものであった。粟津則雄(あわづのりお)が「子規が間近に迫った死の予感を二重写しにしていたのかも知れぬ」(岩波書店『図書』一九九六年二月号「藤の花」)と言っているように、子規は藤の花ぶさの短き先端と畳との間の(健常者には感じ取れることの出来ない)空間を凝視して自身の持つ鋭い感性と相俟って自分の余命の時間をするどく感じとった。

 雪膓は(後編で述べる)俳句、短歌、自由端かと生涯において変転目まぐるしいものがあった。
 百合山羽公が「雪膓に初めて会った時、県下の有名俳人であった筈なのに、アララギ派の歌会の指導者になっていた。大正一四年の春のことである。いつから竹の里人の歌の流れに没頭したのか私にはよくわからない」と述懐している(『短歌』昭和五十七年六月号)。

 私の亡母の籍は伝馬町で正岡姓であったが、松山に「正岡会」があり四年毎(オリンピックの年)に大会を開いている。今年(平成二年)七月の第二回大会に、甥が(母の弟の長男)夫婦で参加した。伊予の正岡氏一族は、天正十三年秀吉の四国攻めで全国に散らばったといわれ、現在約二千人の正岡姓がいるが、松山に約二百人、浜松は母の親族関係の四名のみである。今年の大会には百余名集まったそうである。子規の家系は、松山藩士で父は御馬廻番役だった。子規で七代目である。

 第三回根岸短歌会(三十二年四月十八日)における子規の歌。

かりそめの病の床に就きしより
     四年になりぬ足なへにして

 二十八年の日清戦争従軍の帰りの船上で喀血してから半病人の体であったが四年経った。更に三十三年八月十三日の朝、大喀血して子規庵での歌会の続行は不可能となり、麓・左千夫宅で三十四、五年子規没するまで行われた。三十四年の春になって寝返りも出来なく顔も自分で拭くことが出来なかった。躰を動かす度にウンウンと呻きの声を漏らす子規はどんな風に唄を選ばれたのだろう。

 「先生は頭を枕にぴったりつけて横になっていられる。母堂や令妹が枕許に座して、先生は寝ながら唄稿を見て居て筆を左の手に持ち、抜きの歌に点をつけるのである。勿論抜いた歌は令妹が写す。一枚見ては呻き、二枚見ては呻き、筆を措いて中途でやめてしまふ事も幾度あるか知れない。竹の里人選歌の三分の一といふものは、以上の如き状況にあって選べれたものである。」(『左千夫歌論抄』、岩波文庫、百十一ページ「竹の里人」)

 繃帯取換の仕事は妹の律の仕事であった、
 「母はガラス戸に窓掛を掩ひ、襖をことごとく閉め切って去る。余は右向きに臥し帯をとき繃帯の紐をときて用意す。繃帯は背より腹に巻きとるもの一つ、臀を掩ひて足につなぎたるもの一つ、二つあり。妹は余の後にありて、先ず臀のを解き膿を拭ふ。臀部殊に痛み烈しく、綿をもてやわらかに拭ふすら殆ど耐え難し。若し少しにても強くあたる時は死声を出して叫ぶなり。次の背中の繃帯を解き膿を拭ふ。ここは平壌は痛みなく膿を拭はるるは寧ろ善き心地なり(中略)。ある時、余は鏡にうつして背中の有様を窺わんと思ひ妹にいふに妹しきりに止めて聞かず、余は強いて鏡を持ち来らしめて写し見るに、発泡の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさ言わんやうもなく、二目とは見られぬ様子、顔色を変えて驚きぬ(後略)」(注⑬)

 九月十八日、朝から容態が悪く痰が切れず、医師を呼ぶ。羯南来る。碧梧桐が呼ばれる。「高浜も呼びにおやりや」と子規が言う。

 十一時頃、碧梧桐と律の介添えで画板に張った唐紙に俳句三句を記す。中央に
    糸瓜(へちま)咲きて痰のつまりし仏かな
と書き筆を投げ、咳をし痰を取る。四、五分後、左へ

  痰一斗糸瓜の水も間に合わず

と書して筆を捨て、更に四,五分を経て

  をとといのへちまの水も取らざりき

と書して筆を投げる。(子規、最後の力を振りしぼって出したか)。穂先が白い床を少し染める。この間、終始無言、子規昏睡に入る。時々うなっていた子規が静かになった。

 母八重が手をとると冷たく「のぼさん!のぼさん!」と連呼する。仮眠の虚子、律も目覚めて側に寄る。熟睡しているように見えるが、手は冷たく額に微温を残すのみとなり、ここに子規永眠する。時に明治三十五年九月十九日午前一時。

 左向きに傾き、床に斜めに脚をはみ出している子規を、八重と律が真っすぐに仰臥させる。肩を起こさんとしつつ母八重が落涙と共に強い声で「サア、もう一度痛いというてお見」と子規に声をかけた。(注⑭)

 子規も無念であったろう。俳句より出発して三十五年の生涯に二万三千余句の俳句を作った子規は、「歌よみに与ふる書」で短歌革新もしたが絶筆は「へちま」の三句となり俳句に帰心した。根はやはり俳人だったかなと思うのは間違いであろうか。
 戒名は子規居士。

 雪膓は追悼句として次の二句を子規の墓前に捧げた。

  終焉を記す二高足二途の秋
  わがうらみいや白し銀河とこしへに

 注① 『子規全集⑱巻 書簡(一)』講談社、      昭和五十年
 注② 土屋文明編『子規歌集』岩波文庫、
      昭和三十四年
 注③ 『病状六尺』百十、岩波文庫、昭和二
 注④ 『谷島屋タイムス』大正十一年~昭和      十三年、全百七号
 注⑤ 『谷島屋タイムス 45号』大正十四      年九月号
 注⑥ 「日本」明治二十八年一月一日号 
 注⑦ 『仰臥漫録』明治三十四年九月二三日
 注⑧ 『浜松市民文芸 第十三集』「梅沢墨      水」
 注⑨ 『子規全集 第十六巻(俳句選集)』
      講談社
 注⑩ 明治十一年刊行の木板本ー文明説
 注⑪ 『歌よみに与ふる書』岩波文庫、
      p139
 注⑫ 松井貴子「子規と写生画と中村不折」      (『国文学 04年3月号』)
 注⑬ 『左千夫歌論抄』岩波文庫、p111
 注⑭ 『子規全集 二十二巻(年譜・資料)』
       講談社





『落葉松』「文芸評論」 ⑮ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 2」

2017年09月04日 16時04分30秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑮ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 2」


 Ⅲ 4 雪膓と子規 ー浜松詩歌事始 前編 【その2】


 しかし芭蕉との出会いも並々ならぬものがあり、その敬愛の念は終生変わることはなかった。

 「五月雨ヲアツメテ早シ最上川 芭蕉

 此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句のヨウニ思ウタノデ今日迄古今有数ノ句バカリ信ジテ居タ今日フト此ノ句ヲ思ヒ出シテツクヅクト考ヘテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアッテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト
  五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒 蕪村
 トイフ句ハ遙カニ進歩シテ居ル」(注⑦)

 以下、両者の句を参考ながら並べて見る。
  閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
蝉も寝る頃や衣の袖畳(そでだたみ)  蕪村
    (袖畳は和服のたたみ方)

  此道や行く人なしに秋の暮   芭蕉
  門を出れば我も行く人秋のくれ 蕪村

  旅に病で夢は枯野をかけ廻る  芭蕉
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり
蕪村

 三十年四月、雪膓が初めて子規庵を訪ねた時早速臨時句会が開かれ、鳴雪、碧梧桐、虚子、午体、黙語、紅緑たちを子規より紹介された。子規は雪膓を投稿句などから年輩者と思っていたが、以外に若いのに驚いた。

散る桜木の間に見ゆる羅生門 (雪膓)

 県内に生活の基盤が無かったので、殆んどその名を知られなかった池新田出身の墨水(本名ー梅沢代太郎)と号する雪膓と同年輩の子規門下の俳人がおった(注⑧)。初見は雪膓より早く二十七年九月九日子規主催の碧虚(仙台第二高等学校への)送別句会であった。

  五桐一葉落ちて声あり水の上 (墨水)

 蕪村忌句会の第一回が開かれたのは三十年十二月二十四日(この時既に子規は足が立たなかった)二十名程会し、墨水も参加し晩餐に蕪一皿、酒三杯が出された。

  蕪村忌の古硯あり埃払ひたり  (墨水)
  風呂吹をくふや蕪村の像の前 (子規)

 風呂吹というのは輪切りにした大根や蕪などをゆでて熱いうちにたれ味噌などにつけて食べる料理で、今のおでんであろうか。
 三十二年の第三回蕪村忌句会に雪膓は一泊招待されて上京し、浅草へ出かけて泊まり客は夜半三時頃まで雑談した。この時の参会者は四十六名に達し子規庵句会としては最大規模の会となった。選句二十句に対し出句九百句に達した。
 
  蕪村忌の人集まつり上根岸   (子規)

  蕪村句や蕪の句など奉る    (雪膓)
  蕪村去ってまた蕪村なし幾冬ぞ (雪膓)
  風呂吹の味噌残りけり黒き鉢  (雪膓)

  風呂吹や陶然として酒の酔   (墨水)

 墨水はこの年の二月、雪膓の「芙蓉会」の設立句会に参加しているから初対面ではない。深更まで話にはずんだことであろう。

 子規は二十八年から三十三年までに手許に送られてきた俳句を書き留めて置いて、これを「日本」などの俳句欄に掲載した。その原稿を元に昭和十二年、子規居士第三十六回忌記念として寒川鼠骨(そこつ)が巧芸社より出版したのが『承露盤』である。俳句七九四九句が収められていて、そのうち雪膓の句が七十五句ある。

二十八年秋  星一つ森に落ちたる夜寒かな
同冬  生き乍ら成仏したる海鼠(なまこ)哉
同冬  入相の鐘おもしろや冬籠(ふゆごもり)

 驚くべきことは、墨水の句が『承露盤』だけでも二百三十一句もあることである。

 二十八年冬 起きよ今朝初雪ふれる松見せん
 同冬    凩や何をののしる人のコエ
 同冬    書に臥して人の眠れる炬燵かな

 両人の投稿句数を下表に見てみる。

 子規が近代短歌革新の端緒となった「歌よみに与ふる書」を『日本』に十回に亘って発表したのは三十一年(一八九八年)の二月十二日から三月四日にかけてであった。今年平成二十年(二〇〇八年)丁度百十年になる。その間の短歌界の成長はすばらしいものがあるが、当時の歌詠みたちに与えた影響は絶大なものがあった。しかし子規の意図した所は一般歌人たちではなく、特定の人達を指していた。

 この年の二月七日付の『日本』に載った坂井久良伎(『日本』社員)編集の『新自讃歌』の第一回として当時の御歌所寄人・小出の論に対して、左千夫(後編)が万葉の古調を尊んで寄人派の歌風を非とする『非新自讃歌論』を「歌よみに…」が発表される二日前の二月十日に投稿掲載された。この論は子規の短歌革新の本質に合致するものであり、三月四日付の「十たび歌よみに…」の中で「御歌所長とて必ずしも第一流の人が座るにあらざるべく候」と批判し「歌は平等無差別なり、歌の上には老少も貴賤も無之候」と言っている。

 これより先、二十九年『日本』社長陸羯南は社員の阪井久良伎に「子規に日本の歌を教えに行ってくれろ」と頼み、久良伎は子規庵に連日通った。『古今集』『新古今集』すべて子規の気にいらないので、歌人の佐佐木信綱(『心の花』主宰)に相談した。信綱は「自分が少年の時、父(弘綱)に伴って福井へ行ってきた時貰ってきた橘曙覧(あけみ)の『志濃布廻舎(しのぶのや)歌集』がある。これはどうか」と(注⑩)。見た子規は驚嘆し、『日本』に「曙覧の歌」を「尋常に非ざるを知る」として紹介した。子規はその序文に「或人余に勧めて」と名を明かしていないが、久良伎は後に川柳作家となった。

 当初、子規は短歌は俳句の長いものだと考えていたが、その違いに気づく。「歌は全く空間的の趣向を詠まんよりは、少しく時間を含みたるを趣向を読むに適せるが如し」と『歌話』で述べている。(注⑪)

 子規を歌人として尋ねたのは岡麓(二十八才)と香取秀真(ほづま)(二十六才)の二人で、「歌よみに 」が発表された翌三十二年一月であった。二人が知り合ったのは、二十五年二月本郷弓町にあった私立「大八洲(おおやしま)学校」(国史国文学専攻)で、秀真は東京美術学校鋳金科の学生、麓は宝田通文に国漢和歌を学び、当代上代様仮名書の第一人者と言われた多田親愛に仮名書を学んでいた。書は後年、麓の生活の資となった。大八洲学校では佐佐木信綱より短歌の添削を受けていた。

 秀真は二十七年二月、佐佐木信綱の竹柏会の月例歌会に出て驚いた。上席に御歌所寄人の小出が悠然と構えていたからである。子規が後年「歌よみに 」で批判した本人であった。

 信綱主宰の『心の花』も『歌よみに 』の発表された同じ三十一年(一八九八年)の創刊で今年(二〇〇八年)で百十周年になる。その記念号が通巻千三百十七号として今年発売されたという。創刊時には、麓と秀真は編集委員となり、子規や左千夫の作品、論文、子規の病状などが創刊時に散見している。
 「心の花」より十年遅く四十一年(一九〇八年)十月に創刊された『アララギ』が、平成九年(一九九七年)十二月、第九〇巻十二号を以て九十年の幕を閉じたが、『心の花』と『アララギ』とのどこに相違があったのだろう。

 「十四日 オ昼スギヨリ 歌ヲヨミニ ワタシ内ヘ オイデ下サレ 上根岸八十二 正岡升(のぼる)」というハガキが本郷金助町一番地の岡麓三郎(麓)宅に届いた。升というのは子規の幼名で、家内では「升(のぼ)さん」と呼ばれていた。同じく香取秀真宅にも届いていて、根岸短歌会が活動し始めたのは二人が訪問した二ヶ月後の三十二年三月十四日であった。一年前の三十一年三月二十三日に第一回短歌会があったが、集まったのは、子規、虚子、碧梧桐ら俳人のみであったから、実質的には麓、秀真が参加した第二回からが「根岸短歌会」と言える。

 三十二年一月、二人が子規庵を訪ねた時、子規は寝ていた。やせてはいるが細い目の光が鋭く、白い顔、皮膚に血の気は無いが意志の強いきかん気が浮き上がっている。病人らしくないと麓は思った。(秋山加代『山々の雨』平成四年)。

 このきかん気が子規の俳句・短歌の革新運動の原動力となった。病いを克服して立ち向かった。

     【 その3へ続く 】

『落葉松』「文芸評論」 ⑭ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 1」

2017年09月03日 16時23分00秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑭ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 1」


 Ⅲ 4 雪膓と子規 ー浜松詩歌事始 前編

 雪膓(榛原郡の生まれ、ー本名加藤孫平)が東京・上根岸の子規庵を訪ねたのは、静岡師範学校を卒業した明治(以下、年は明治を表す)三十年四月であった。その雪膓が俳句を学ばんと子規に手紙を出したのは二年前、師範学校在学中の二十八年十一月(二十才)で、子規は二十四日付けで次のような返書を送った。
 
 「お手紙拝見。未(いま)だお目見えしていませんがお元気の由何よりです。小生先月帰京しましたが病で臥せっておりましたので御返事おそくなり恐縮です。貴兄俳句を御修行のお望みで小生に添削せよとの事ですが、とても初学の私に出来るとは思いませんが、拝見の上、可否を致します。これだけは病気を押してでも致すつもりです。」(以下略。原文=候文、参照①)
 
 子規はこの二十八年に勤め先の新聞『日本』社より日清戦争に従軍記者として特派された。社長の陸羯南は、子規の身体のことを考えて反対したが本人の強い希望で押し切られ、結局、これが子規の命取りになった。子規は、野戦での不自由な生活が身に応え、五月末、満州からの帰国途中の船上で喀血(かつけつ)し、その後、須磨保養院に転院して療養に努めた。

須磨に病をやしないて   
 夏の日のあつもり塚に涼み居て
 病気なほさねばいなじとぞ思ふ            (注②)

 容態回復した八月末に松山へ帰省したが、家族は既に東京に移住(後述)していたので、松山中学校の教師だった夏目漱石の下宿へ居候して静養し、十月末大阪、奈良を廻って帰京した。大阪では腰を痛めたが、奈良では三日程滞在する間はひどくならず面白く見れた。

   柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
 は、この時の作であるが、これを評して「柿食うて居れば鐘鳴る法隆寺」と何故いわれなかったのかと、これは尤もな説であるがかうなると稍々句法が弱くなるかと思う。」(参照③)

 帰京する子規を虚子が新橋駅に出迎えたが、歩廊を歩いて来る子規は足をひきずり顔色も悪かった。そのまま寝付いてしまった。雪膓への返事が遅れたのはその為である。翌二十九年三月に医師の診断の結果、子規の晩年を苦しめる結核性の脊髄カリエスと判った。子規はリューマチと思っていた。
 実は子規の喀血は、この時が初めてではない。六年前の二十二年五月、大学予備門生(漱石と同級)の時、本郷の旧松山藩の寮の部屋で一週間続けて毎晩五  の血を吐いた(前年の八月に鎌倉江ノ島の路上でも吐いた)。それにも拘わらず深夜一時過ぎまで「ホトトギス」に関する句を四,五十句作った。ホトトギスは口の中が赤く、鳴くと血を吐いているように見える鳥で、不如帰、時鳥、子規とも書く。この時漢詩を作り「喀血後自ラ号ス子規ト」と最後の部分に記し、自ら「子規」と号するようになっったのはこの時からである。

  卯の花をめがけてきたか時鳥
  卯の花の散るまで啼くか子規

 子規は卯年であった。この時の医師は「肺結核」と診断し絶対安静を命ぜられた。当時結核といえば不治の病いで子規にとってもショックであったが、若さと負けん気に詩歌の革新に立ち向かったから結核菌は脊髄を侵すようになった。
 この夏、静養のため松山へ帰省した。東海道線が神戸まで全通したので汽車の旅であったが、案外汽船より疲れると言って途中必ずどこかへ途中下車して一,二泊した。この時は静岡、岐阜であったが、冬に新春を松山で迎えた時は、従兄の藤野古白と同道し、大磯、浜松へ泊まった。浜松の旅館は不明であるが、「町を散歩して市中のことごとくの家の軒端が傾斜していることに気づく」と日記に記している。これは城下町の名残の古い家であろう。

 子規はもう一度、羯南のすすめで母と妹を呼び寄せる為、西下した二十五年十一月九日に浜松に一泊した。この時は「花屋」へ泊った。当時、浜松で大きな旅館は「花屋」と「大米屋(おおこめや)」で、伝馬町に隣り合っていたがこの年の三月に連尺町の入枡(いります)座(芝居小屋)からの出火で市の大半を消失する大火があり、両旅館とも消失してしまった。二軒ともその後、浜松停車場前通りに移り、大米屋は現在の中央郵便局の東側へ、花屋は向かい合った道路の南側に居を構えた。(『浜松百話』静岡新聞社)

 子規の泊まったのは新築旅館であったが、
   傾城の噺ときるる夜長かな
の一句を詠んでいる。(「日記」25・11・9)

   馬通る三方原や時鳥
 (『日本』28・7・23「陣中日誌」)

   天の川浜名の橋の十文字
(『早稲田文学』29・2・15付「橋    百句のうち」)

 「三方原」は神戸入院中で結びつきが今一つはっきりしないが、雪膓は法月(のりづき)歌客(東京日日新聞浜松通信部長で「谷島屋タイムス【注④】」編集主任)との対話【注⑤】で「想像の作だ」と言っている。「天の川」の句は大正十四年七月五日,弁天島に於て虚子を招いて、句碑除幕式と句会を行った。この句会席上で虚子と雪膓との大論争があった。

 浜松に関する子規の三句は、虚子の『子規句集』(昭和十六年)には「天の川」の一句しか載っていない。

 叔父(母の弟)加藤恒忠(拓川)を頼って十六年に松山中学を中退して上京、大学予備門生となった子規を、拓川が旧松山藩の給費生としてフランスに留学することになったので、司法省法学校以来の同志「日本」新聞社主の陸羯南に子規の身元を頼んだ。子規の生涯にとって羯南との出会いは良い意味で、その一生を支配される重要な一点となった。

 羯南より「お出でなさい」と言われ、大学を中退して月給十五円(のち四十円)『日本』社員として二十五年十二月入社した。家も羯南の隣の借家を世話され、母妹を松山より呼び寄せて生活の安定を図った。羯南にとって子規の病気や生活の不安定が心配だったのである。これで落ち着くと思った。

 翌二十六年二月三日、新聞『日本』の片隅の「文芸」に俳句欄(のち短歌にも拡大)が設けられ、これこそが近代俳句、短歌革新の確立原点となるものとなった。

 子規が俳句を始めた頃は芭蕉一派の俳句を手本としていた。ある日の句会で蕪村の句が巧いという話が出たが、蕪村は南画の大家として知られ、俳句はあまり知られず句集が手に入らなかった。二十六年四月に片山桃雨が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出して来たので、子規は硯を桃雨に送った。

 行く春や硯に並ぶ蕪村集 (子規)

 蕪村句集講義が始まり、二十七年、画家中村不折との出会いは、写生風詠を基調とする俳句を広げた蕪村への理解が急速に増した。天明期俳人中最高の存在とし、その特質を「詩趣に於て変化自在を極めたるのみならず句法けい抜(他よりすぐれている)しゅう練(よく練れている)善く其詩趣に副いたるが如き空前絶後の一人」と評した(注⑥)。


< 続く >



『落葉松』文芸評論 ⑬ 「戦後文学は古典となるか 6 」「6島尾敏雄」・「7梅崎春生」

2017年09月02日 13時22分20秒 | 雨宮家の歴史
『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑬ 「戦後文学は古典となるか 6」

「6 島尾敏雄」・「7 梅崎春生」


  6 島尾敏雄

 只一人、兵士でなく海軍予備学生となった島尾は、魚雷艇第十八震洋隊長として奄美の加計呂麻島へ赴任した。特攻の命令が出たが出撃することなく戦争は終わった。

 そこでの体験が『島の果て』『出発は遂に訪れず』などであり、島の娘ミホと結婚し、奄美大島に移住して十六年かけて、ミホとの関係を描いた『死の棘(とげ)』を完成させた。最後は『魚雷艇学生』を以て終わった。


7 梅崎春生

 最も短命だった梅崎が最後になってしまったが、彼が「日常性の作家」と言われる由縁からか、大岡同様読み継がれている。彼のデビュー作『桜島』について「場所や風景は実際の体験によったが、作中の人物や事件はことごとく架空である」と述べている。(文献⑰)

 梅崎は海軍に召集されたが、軍艦に乗ることも無く、戦地に出征することもなかった。十七年(二十七才) に対馬の重砲隊に、『神聖喜劇』の大西巨人と同時入隊したが、肺疾患と誤診されて即日帰郷となった。

 その後十九年六月、今度は海軍の佐世保海兵団へ召集された。二十九歳の老兵であった(大岡は三十五歳、二児の父親であった)。予備学生志願を要請されたが、兵隊の身分にとどまって暗号兵となった。その考えが甘かった兵隊の辛さが身に沁み、下士官候補教育を受け、二十年五月入隊後約一年を経て通信科二等兵曹(陸軍の軍曹の位)となり、七月始め坊津(ぼうのつ)通信分遣隊の責任者として着任した。

 『桜島』では冒頭「七月初、坊津にいた」としか出てこないが、ここは島尾と同じ震洋特別攻撃隊の基地があり、よそ目にはのんびりと日を過したが、目に見えぬ何物かが身体をしめつけてくるのを、痛い程感じ始めた。その反動が歯ぎしりするような気持ちで、私は連日遊び呆けた。そんなある日の朝、桜島転属命令が来た。 坊津には三週間ほどいたが「生涯再び見る事もないこの坊津から枕崎へ歩いて行く峠の光景はおそろしい程新鮮であった。」

 生涯再び見ることもないと思った坊津の峠の風景を二十年後の四十年(五十歳)に見ることになる。『幻花(げんか)』である。大岡、野間が比島を、武田と堀田が上海に、島尾が奄美大島へと、具って自分たちが生死をくぐった場所を訪問、あるいは移住しているように、梅崎も三十八年に鹿児島から坊津を経て、学生時代の熊本、阿蘇を夫婦で旅行した。その時の経験が『幻花』の舞台となった。

 『幻花』とは「万物、皆幻の如く変化すること」とあるが、陶淵明の詩「帰園田居」の「人生幻花にして、ついにまさにそらに帰すべし」より取った。
 二十年前の夏、五郎は坊津より枕崎へ歩いた。今はその風景が逆である。「なぜ、この風景をおれは忘れてしまったんだろう」。感動と恍惚のこの原型を意識から失っていた。『桜島』には出てこなかった坊津の風景が出てくる。

 数百羽の鴉が飛び交いながら鳴いていた。
 冥府。町に足を踏み入れながら、ふっとそんな言葉が浮かんできた。町のたたずまいは古ぼけている。彼は戸惑う。これが俺の争務に服していた町なのか?二十年前、体力も気力も充実していた青年としてひりひりと生を感じながら生きていた。今は蓬髪の、病んだ精神の中年男として町を歩いている。『幻花』では坊津で終戦となり、復員しないことになっている。

 『幻花』から40年後の平成十七年、五郎が通った道筋を辿ったのが日和聡子(ひわさとこ)の『火の旅』である。(文献⑱)

 彼女の卒業論文は「梅崎春生論」だった。五郎が辿ったルートがノートに書かれ、それを持って旅に出た。自分はそれで何を確かめようとしているのかよくわからなかった。ただその景色のなかに自分をくぐらせてみたかったのだ。坊津の海辺の高台に建立された記念碑には「人生・幻花に似たり 梅崎春生」と刻まれている。『桜島』から六十年の歳月が経った。
 
 戦後文学が忘れ去られようとしている今日、『火の旅』のような一文が出てきたことは、まだ戦後文学は生きている。古典となるには早すぎると私は感じる。

 五郎は最後に、阿蘇の火口で「しっかり歩け、元気を出して歩け」と胸の中で叫ぶ。これが戦後文学だ。
 
 私も毎朝、馬込川の堤防を八十歳の余命と共に五郎と同じように歩く。

「しっかり歩け、元気を出して歩け」



文献① 『朝日新聞』平成十七年八月二十四日 付夕刊「文芸時評 六十年の時間差」
文献② 『国文学 解釈と鑑賞』平成十七年十 一月号
文献③ 『朝日新聞』平成十八年八月十九日付
文献④ 『日本古代文学史』岩波現代文庫
文献⑤ 『戦後文学を問う』岩波新書
文献⑥ 『静岡新聞』平成五年二月十日付夕刊、 佐岐えりぬ「あの世に旅立つ友たち」
文献⑦ 『真空地帯』新潮文庫、p294~2 95
文献⑧ 『朝日新聞』昭和六十年一月一日付遠 州版
文献⑨ 月刊『新潮』昭和四十八年十一号
文献⑩ 新潮文庫、p187
文献⑪ 新潮文庫、p131
文献⑫ 大岡昇平『レイテ戦記 下巻』中公文 庫、p210
文献⑬ 『別冊・文藝春秋』百九十八号、平成 四年
文献⑭ 『野火』新潮文庫、p33
文献⑮ 『海』昭和四十九年十二号「わが文学 生活」
文献⑯ 『文学界』平成十四年五月号「漱石、 鴎外の消えた国語教科書」
文献⑰ 『梅崎春生』講談社文芸文庫、お36 2
文献⑱ 『新潮』平成⑱ン五月号
参考文献 川西政明『昭和文学史 中巻』講談 社

( 「戦後文学は古典となるか」、完 )
( 「浜松詩歌事始」へ続く )


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑫ 「戦後文学は古典となるか 5 大岡昇平」

2017年09月01日 16時13分26秒 | 雨宮家の歴史
『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑫ 「戦後文学は古典となるか 5」


  5 大岡昇平

 『俘虜記』『野火』で世に出た大岡は昭和二十八年、アメリカ・ロックフェラー財団給費生のエール大学研究生としてニューヨークに滞在中に、武田の『ひかりごけ』を読んで「こん畜生め」と思った。(文献⑨)

 『ひかりごけ』は戦時中、北海道知床半島で起きた難破船による肉食事件を主題としていた。その中で「殺人は、「文明人」も行い得るが、人肉食は「文明人」の体面にかかわる。わが人種は殺人こそすれ、人肉食はやらないと主張するだけで、神の恵みを亨けるに足る優秀民族、先進民族と錯覚してはばかりません。『野火』の主人公が「俺は殺したが食べなかった」などと反省して、文明人ぶってるのは、明らかにこの種の錯覚のあらわれでありましょう。(文献⑩)」と書いてあったからだ。

 『野火』の「二十九 手」の章「私は右手で剣を抜いた。私は誰も見てはいないことを、もう一度確かめた。その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。(氏は生の道を求めず、死の道を選んだのである)」(文献⑪)を指すのであろうと思われるが、この問題は底が深かった。

 『レイテ戦記』でも、人肉食のことを書かねばならなくなり、武田に資料(『羅臼村郷土史』)の提供を求めたが、もう返してしまって手許に無いと返事があり、あきらめたが実物は役場にあった。

 「二〇年二月、レイテ戦は末期となり、日本の敗残兵のなかには、山の中に「瀬降り」を造って自活を始めるものもいた。最も恐ろしい人肉食いのうわさが発生するのは、この頃からである。ある兵士が、猿の肉と称する干肉をすすめられたが、気味が悪くてやめた。これは筆者が『野火』という小説にした挿話である。」(文献⑫)

 『野火』と『レイテ戦記』との間には、十五年の歳月の隔たりがあるが、国から見捨てられた兵士(もう兵士ではなかった)たちが、如何なる運命を辿るかを克明に示している。

 「無意味な死に駆り出されていく自分は」被害者であるかも知れないが、一旦戦場に立てば、無力な他国の住民に対して加害者とならざるを得ない。『レイテ戦記』のエピローグで「侵略の実行者の意識の無かった者も、戦場となったフィリッピン人にとっては、被害者という事実として残った。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には、聞える声で語り続けているのである。」としめくくっている。大岡も武田も、他民族に対する加害者としての意識を終生持っていた。

 泰淳と昇平との親密なつきあいが始まったのは、泰淳が三十九年に富士山北麓の富士桜高原別荘村に、四十一年に昇平が同じく山荘を建てて隣組になってからである。大岡は『レイテ戦記』にとりかかるところであった。ここで武田は最後の『富士』を書いた。

 先日、食道癌で亡くなった中野孝次が、武田を「東洋的茫漠」、大岡を「西洋的明晰」と評していたが(文献⑬)、大岡の硬質な文体は彼の心がけた最大のものであった。レトリックの見本のような「夜は暗かった。西空に懸った細い月は、紐で繋がれたように、太陽の後を追って沈んで行った(文献⑭)」の場面は私の頭にこびりついて離れない。大岡自身「『野火』はどうやらおしまいまでやり通したなという感じ。『俘虜記』は少し不十分。それから『レイテ戦記』(文献⑮)」と言っている。

  教室に「野火」読む子らの声澄みて
    風は静かに秋を告げおり
(平成十三年十月二十二日)

  父ありし日のまま置かるる「レイテ戦記」
   小暗き書斎に手にとりている
(平成十七年十一月二十六日)

 この二首とも「朝日歌壇」に載った歌である。決して戦後文学が忘れられて読まれなくなっている訳ではない。高校の教科書にも、大岡の前記三作と、梅崎春生(後述)の『桜島』が載っている(文献⑯)。

< 次回、「6」へ続く >