雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑪ 「戦後文学は古典となるか 4 武田泰淳と堀田善衛」

2017年08月31日 17時58分16秒 | 雨宮家の歴史
『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑪ 「戦後文学は古典となるか 4」

  4 武田泰淳と堀田善衛

 一番早く入隊したのは武田であった。なお彼等は召集兵であり、島尾だけが現役入隊、その作品はいずれも一兵士の視点で書かれたことにも注目したい。

 昭和十二年七月、盧溝橋に端を発した日中戦争(当時は支那事変といった)は、八月には上海に飛び火した。

 五箇師団が動員され、呉(うー)スンクリークを舞台に悪戦苦闘が続き、八十日間に四万名の戦死傷者が出た。第三師団の静岡歩兵第三十四連隊も出征兵士三千八百名のうち九割の三千五百名の死傷者を出した。留守宅を守っていた連隊長夫人は、犠牲者の怨念の的となり、服毒自殺した(文献⑧)。

 第百一師団の歩兵第百一連隊長加納大佐も戦死した。武田はこの第百一師団の補充輜重兵として召集された。徐州作戦、武漢作戦に参加、九江警備などを経て二年間の兵役を済ませて昭和十四年十月に召集解除になり、東京へ帰還した。

 武田は旧制浦和高校時代に、中国語を学び、東京大学文学部支那文学科に入学した。事情あって一年で退学したが、同級生の竹内好(よしみ)、一年上級の岡崎俊夫たちと「中学文学研究会」を作り、会報を発行した(第一号は昭和十年)。

 武田は、父が浄土真宗の寺の住職だった関係により、後年泰淳和尚といわれるように僧侶の資格を取っていた。戦地で戦死者の慰霊式に僧侶の代理としてお経をあげた。机上でしか知ることのなかった中国の現実を見て,武田は何を感じたか。

 戦地であるから、上官の命令による中国人の射殺と、村に置き去りにされた老人への発砲を戦後の第一作『審判』で告白している。

 また安徽省廬州にいた当時に書いた『土民の顔』(昭和十三年「中国文学月報44」)に「戦地で見た支那人の顔には、土の如き堅固な知恵があらわれ、伝統的な感情の陰影がきざまれ、語られたことのない哲学の皺が深々とよっていた。家の壁には砲弾の痕すさまじく、学校の倒れた机の上には泥にまみれた教科書があり、道には物言わぬ屍が横たわっていた。」と書いている。

 武田は、戦争は文化を破壊する、文化は無力だ、戦地での殺人でも自分に罪があると、中国幻想をくだかれた体験から、昭和十四年に除隊して足かけ四年を費やして十七年末に、生きているのが恥かしいという苦しみの「司馬遷は生き恥をさらした男である」という有名な巻頭言を以て『司馬遷』を書きあげた。

 その生き恥をさらした男は二十年八月の敗戦を上海で迎えた。フランス租界にあった中日文化協会に十九年六月に就職したからである。徴兵逃れだったという。

 二十年三月に堀田善衛が「国際文化振興会」の上海資料室に海軍の伝(つて)で来た。振興会は外務省の外郭団体であり、堀田はこの振興会で中国語を勉強し、武田の『司馬遷』や竹内好の『魯迅』を読んで、中国には現代があると感じた。

 堀田は十九年二月に富山の部隊に召集されたが、訓練中に肋骨を折る傷を負い、陸軍病院に三ヶ月入院して召集解除になったので、兵役の心配はなかった。もう戦争の行く末はわかっていた。武田と堀田の結びついた二人を、南京にいた名取洋之助が呼んでくれたが、もう、する仕事などは無かった。

 大日本帝国の敗戦を二人が知ったのは、建物の壁に貼られた「山河光復」と書かれたビラによる。八月十一日の朝であった。戦勝を喜ぶ中国人の歌声や爆竹の音の中で、武田は「今やわれわれは世界によって裁かれる罪人である」と胸の中でくり返しながら、「滅亡」という言葉を反芻した。その夜半、二人は会って手を取り合い泣いた。武田はいち早く翌二十一年二月に高砂丸で帰国した。

 堀田は武田と相談して二十年十一月、国民政府中央宣伝対日工作委員会(実態は思想や動向を調査する査察機関で秘密警察的文化機関だった)へ入った。彼はアジアに生まれる新しい台風に向って自分の身を預けた。しかし、ある事件に巻き込まれて経済特務の家宅捜索を受け、身の危険を感じて二十一年の年末大晦日に入港した船で引き揚げ、翌二十二年一月三日佐世保に上陸、帰国した。

 この一年九ヶ月の上海時代が無ければ、芥川賞の『広場の孤独』以下の『祖国喪失』より『方丈記私記』を経て『ゴヤ』に至る堀田善衛は存在しなかったであろう。

 六人の作家のうち、最も長生きしたのは堀田の八十歳(平成十年)であり、短命だったのは梅崎春生の五十歳(昭和四十年)であった。法名「春秋院幻花転成愛恵居士」を送ったのは武田であり、その泰淳が亡くなったとき(昭和五十一年ー六十四歳)島尾の夫人ミホが送った大島紬の着物で柩は覆われた。

< 次回、「5 大岡昇平」へ続く >


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑩ 「戦後文学は古典となるか 3 野間宏」

2017年08月30日 15時15分29秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑩ 「戦後文学は古典となるか 3」

  3 野間宏

 私が最初にひもといたのは野間宏の『真空地帯』であった。一晩徹夜して読みあげたのを覚えている。野間は軍隊を召集解除になって内地におったから、いち早く復帰して『暗い絵』により登場したが、『真空地帯』は昭和二十七年書き下ろしによって刊行された。軍隊の内務班を主題にしたものであるが、その中に私が遭遇した事件と同じことが書かれていた。

 「彼の身体によみがえってくるものは、看守の命令に従わなかったという理由で、皮のさく衣を胸にはめられ、訓練所にひきだされて水をぶっかけられたときのことだった。さく衣は皮でできていて、水をかけるごとに引きしまり、彼の骨と胸は内へ強く締めつけられ、彼は一分ごとにうめき、わめかなければ呼吸が出来なかった。彼の口はよだれと砂とでべたべたによごれ、彼のだらんとした身体は、冷たいどろの土の上にほうっておかれた。そして彼は気を失った。(文献⑦)」

 朝鮮平壌郊外の軍需工場に勤めていた私は、昭和二十年初頭召集を受けて平壌の朝鮮第四十四部隊に入隊した。レイテ島で散滅した歩兵第七十七連隊の留守隊であった。米軍の上陸に備えて、南鮮に展開する野戦部隊の編成のためであった。

 出動も間近になったある日、日夕点呼(につせきてんこ)のあと待機を命ぜられた。仮住居の武道場の中央に逃亡して捕まり、中隊に戻された一人の朝鮮籍の兵士が立たされていた。

 朝鮮に徴兵制が施行されたのは、前年の昭和十九年であった。日本語のわからない壮丁がいるからと朝鮮総督府は反対したが、閣議で強行決定された。

 彼の中隊の人事係准尉がむちを持って待っていた。むちは彼の身体にまきつき、床に転がった。「起て」准尉の怒号にふらふらと起きあがった彼に容赦なくむちの嵐が飛んだ。皮のさく衣がまかれた彼の身体に水がバケツからぶっかけられた。『真空地帯』と同じ状況であった。彼のその後の状況はわからなかったが、軍隊の陰湿な部分を見せつけられ、民族の対決が軍隊にまで及んだ思いであった。

 南鮮に展開していた私の所属する野戦部隊では、『真空地帯』のような内務班は既に崩壊していた。大岡と武田は、軍隊も地方とつながりがあり、決して「真空地帯」ではないと否定的意見であったが、自由がないのは確かであった。

< 次回 「4 武田泰淳と堀田善衛」へ続く >

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」

2017年08月29日 16時26分22秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」


  2 戦後文学

 日本の戦後文学は「帰る」ことから始まった、と座談会の主の一人、川村湊は述べている。(文献⑤)
 そう、海外に居た日本人は民間、軍隊を含め北海道、本州、四国、九州の四島に限定された敗戦国日本に帰らねばならなかった。これはポツダム宣言による占領軍の方針だった。軍隊が優先され、フィリピン・レイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平は、日本に一番近い朝鮮にいた私より早く昭和二十年十二月末には浦賀へ帰還上陸した。

 戦時中、筆を折っていた作家たちが帰って来て、殊に軍隊にあって死と対決した作家たちが、既成作家たちとは違う視点より書いたものが「戦後文学」といわれ、その作家たちを「戦後派」というようになった。彼等はいきなり戦後、文学活動を始めたわけではなく、戦前より文筆に親しみ軍隊生活をそれを基にした。「戦後派」というけれど、「戦中派」といっても間違いではない。体験した大戦での生と死の問題を、「自分」とは何であるかを突きつめて書いた。これらは戦前の既成作家たちとは、甚だ異なる所であった。

 本多秋五は『物語 戦後文学史』を「週刊読書人」に昭和三十三年十月より三十八年十一月まで、百四十六回、五年間に亘って連載した。私にとっては格好の「戦後文学」入門書となり、これにより多くのことを学んだ。

 いまその切り抜きを見ると、紙質も上等といえぬ紙面は日焼けで黄ばんでしまっているが、作家ごとに、その作家の著書にはさんでしまったので抜け落ちているものが多い。その最終回(昭和三十八年十一月三十日付)で、本多は結びの言葉として次のように述べている。

 「戦後文学が追究した究極のものは、人間の「自由」ではなかったかと思う。「自由」という言葉をしばしば口にしたのは椎名麟三ひとりであり、他の戦後文学者はかならずしもそうではなかったが、埴谷雄高も武田泰淳も、野間宏も梅崎春生も堀田善衛もそれぞれの角度から、それぞれの色合いの「自由」を追求したのだ、といえるのではないか。自我の実現、個人主義の実現といっても意味は遠くないが、彼等の多くが、やはり「自由」こそ究極のものと考えた方が妥当性は多いと思う。戦後文学者の己を知るという求心的にして遠心的な努力は、人間の「自由」の探求にむけられたいたと私は考える。」

 この戦後文学者たちに、中村真一郎を司会として「あさって会」という集まりがあり(文献⑥)、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、堀田善衛、椎名麟三、梅崎春生の七人のメンバーがあった。その後、大岡昇平が加わり、彼等を中心として「戦後文学」はあった。その作品の内容は作家によって、それぞれ大きく違っていたが、ひとつ共通するものがあった。それは本多のいう「自由」と「戦争」であった。

 私は本稿で、彼等のなかから軍隊体験のあった大岡昇平、武田泰淳、梅崎春生、野間宏、堀田善衛、それに島尾敏雄を加えて(以上、年齢順)、六名の作家の出生、学歴、軍歴、戦後文学歴の年譜を次頁から図示し、それを参考にかれらの軌跡を辿って見ようと思う。

< 「3 野間宏」へ続く >


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑧ 「戦後文学は古典となるか 1」

2017年08月27日 20時08分17秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑧ 「戦後文学は古典となるか 1」


 Ⅲ 3 戦後文学は古典となるか

  1 はじめに

 戦後六十年経った。私も八十歳の坂を越えた。戦後六十年を「戦後の定年」だとか「戦後も還暦だ」と言った人がいた。
 六十年の時間差を埋める作業は決して楽ではない、と島田雅彦(以下、敬称略)は言っているが(文献①)柘植光彦の司会による川村湊・富岡幸一郎三氏の座談会「戦後派の再検討」(文献②)の中で、戦後も六十年経てば、戦後派作家といわれた椎名麟三や野間宏の名前すら知らなくなり、むろん戦後文学など読まれなくなっている。

 中国人のジャーナリスト・莫邦富(もうばんふ)も「私に取材に来る日本のメディア関係者に必ず「大岡昇平の『野火』を読みましたか」と尋ねることにしている。しかし、読んだという人は残念ながら、一人もいない。」(文献③)

 なぜ読まれなくなってしまったのか、読まれないまま消滅してしまっていいのだろうか。消滅させないとしたら、現代文学はそこから何を学び、何を受けつぐべきであろうか。さらに、富岡幸一郎は「戦後文学は古典となる可能性もある」と言及している。

 古典というと『古事記』や『万葉集』など古代のものを考えるが、西郷信綱は「古典と呼ばれるものはどこにあるかといえば、それは過去と現代のあいだ、つまり過去に属するとともに現代にも属するという他ない。その作られた時代とともに滅びず、現代人に対話を呼びかける潜在力を持ったものが古典である。」と言っている。(文献④)

 日本がアメリカと戦争をしたということすら知らない人がいる現在、戦後派作家の名前など知らないのは当然かも知れない。むろんその作品など読まれなくなったのでは古典とはいえず、読み継がれていかなければならないが、果たして戦後文学がどういう運命をたどったか検討してみたい。

< ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」へ続く >

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑦ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 下』

2017年08月26日 22時01分46秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑦ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 下』


 「二十年四月十五日 出撃決定す」
 「戦友はこの二、三日私がつかれた顔をしていると心配する。私は私の死というものに対してある解釈をえようとしていたのである。」
 「出撃は二十日頃、あと二十日の命である。私自身が少しづつゆらぐのではないかなどという不安がないでもない。」

 出撃を前に五月頃、帰郷が許されて、入隊以来一年半ぶりに和田は沼津の実家に帰省した。

 「父母の顔を見たら、何もかもぶち明けてしまいそうな気がしてならない。」

 彼を迎えて、両親は何かを感じ取った。妹たちを電報で呼びよせて、短い休暇を水いらずで過ごした。若菜も兄と二人で千本浜を散歩して、写真館で永遠の別れとなった記念の写真を撮った。若菜はまだ小学五年生であったと妹たちは語っている。
 若菜は、後年、この時のことを次ぎのように短歌に詠んでいる。

  回天出撃目前の兄と知らざれば
 海に石投げともにたわむれぬ

 一度出撃した和田は戦果をあげ得ず帰光した。

 「残念也 無念也 何の顔あってか出戻りの姿を光にあらわさむ。三十一日、再びイ三六三潜にて出撃予定なり。」

 手記はここで途絶えている。意気消沈してしまったのであろうか。最後の日となった七月二十五日の訓練に、和田は手記や私物一切を士官のトランクを借りて、それに入れて回天に乗り込んでいる。訓練なのに、何故私物一切を持って回天へ乗り込んだのであろうか。
 今となっては何もわからない。そして海底につっ込んで二度と浮き上がらなかった。その場所は私の工場の前の海だった。
 瀬戸内の鏡のような夕凪ぎの周防灘を見ていると、且ってここが戦場であり、多くの若者たちが、死出の旅路にい出立ったところとは考えられない。
 沈んだ回天内で酸素が無くなって息絶えるまで、和田は何を考えていたのであろうか、無言の抵抗をして何も書き残していない。
 戦いは終った。しかし和田は戻らなかった。が、台風が守護神となって彼を助けた。九月、猛烈な台風が周防灘より日本海へ抜けた。枕崎台風である。沈んでいた回天が、荒れた波に揉まれて浮上し、山口県の東端、上の関の長島の入り江に流れついた。和田はあぐらをかき、座ったまま眠るように死んでいた。死んでも横になれない何と非情なものであった。

いつの日にか兄の回天流れ着きて
     瀬戸の小島に立ち見むと
 若菜

 私は今の若者に、この手記をすすめる。
 且ての若者たちが、いかに真剣に戦争に対して、又死に対して悩み、生長していったかを知って貰いたい。私たちは、彼らの死は決して無駄死にではなかったと思っている。

 あとがき

 戦後五十年、私が抱きつづけてきた「回天」がこの作品で、陽の目を見ることが出来たことは大変喜ばしいことです。
 靖国神社境内の「遊就館」に全長五十メートル実物の人間魚雷「回天」が飾られているそうです。「回天」作戦とは一体何だったのでしょう。潜水艦での出撃延三十二隻、特攻隊員延百四十九名、戦死・殉職者合計百余名、戦果は油槽船他二隻。これだけのために優秀な若き学徒を始め、多くの兵員を消耗した戦争のおろかさを痛感します。
 徳山の大津島の回天基地跡に回天記念館があります。山口放送(徳山市)のディレクター礒野恭子氏が、和田稔の人格に魅せられて、テレビ・ドキュメンタリー「使者たちの遺言 回天に散った学徒兵の軌跡」を作成し(一九八五年)、芸術祭優秀賞、キャラクター賞、放送文化基金大賞など数々の賞を獲得いたしました。私のこの拙い感想文とともに、和田稔が望んだ彼の柩に捧げる頌歌となれば幸いです。
 「昭和が終わっても、なお終わらぬものに目をそらすことなく、生きつづけるものでありたい。」と三浦綾子氏は『銃口』のあとがきで、しめくくっています。
 戦後五十年経っても、依然として戦後は終わっていません。終わらぬものがいくらでもあります。私たちの世代は、反省の意味からも、目をそらすことなく果敢に立ち向かっていかねばなりません。

 回天については次のような参考書が出ております。

・鳥巣建之助『人間魚雷』新潮社、八三年
・神津直次『人間魚雷回天』図書出版社、八 九年
・横田寛『ああ回天特攻隊』光人社、七一年
・伊藤桂一『落日の戦場』光人社、
・礒野恭子『愛と死の768時間』青春出版 社
・読売新聞社会部『特攻』角川文庫、八四年

◎この文章は、静岡新聞社・SBS静岡放送主 催「第十六回文庫による読書感想文コンクール受賞作品」(平成六年十一月二十日)です

< 「戦後文学は古典となるか」へ続く >


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑥ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 上』

2017年08月25日 18時56分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑥ 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく 上』


 Ⅲ 2 和田稔著『わだつみのこえ消えることなく』

 ー和田稔『わだつみのこえ消えることなく   ー回天特攻隊員の手記ー』
   筑摩書房 昭和四二年 単行本
   角川書店 昭和四七年 文庫 絶版ー

 この本は、学徒出陣で海軍に入隊し、回天特攻隊で事故死した東大出身の和田稔の学生時代から亡くなるまでの手記である。
 和田の父親がこの手記を大学ノートに写しながら、それを読み返すのを日課としていたとおう。悲しみを踏み越えて、晩年死期の近づいた時、やっと息子の死と自分の死とを分ち合える境地になった。父親の死後、この手記はやっと出版されたが、和田の死後、二十年の歳月が必要だった。

 戦後の昭和二十一年十月、私は山口県光市にあった光海軍工廠の跡地に建設されることになった食塩製造工場に赴任した。この事が私と和田稔の出会いとなったのである。工廠は終戦前の八月十四日に大空襲を受けて壊滅し、多数の犠牲者を出した。まだ曲がりくねった鉄骨がむき出しのままで、雑草がはびこっていた。工廠内の一部では、既に武田薬品が操業していた。塩もやっていたので、ある日、私は見学に行った。
 武田の製塩場は工廠の東の端の方で、その一角に赤さびた鉄骨とコンクリート壁がむき出しのままの建物がそのまま残っていた。そこだけが何かぽつんと荒れた感じだったので変に思ったが、そこが人間魚雷の光回天基地の跡だった。
 当時は人間魚雷と聞いても、何かわからず、この本が二十年後に出版されて、やっとその詳細がわかって来たのである。
 もっとも昭和二十三年に発表された宮本百合子の戦後第一作「播州平野」にそのおもかげが書かれている。百合子が夫顕治の光の実家に滞在していた時のことである。
 「工廠の海岸の浜つづきに、板三枚ほどの幅の埠頭が入り江に向って突き出されていた。夜になると、そっと軍人が集まった。そして人間魚雷が発射された。搭乗した特攻隊員で還るものは決してなかったし、大洋まで行ったものさえもなかった。(中略)住民たちは、それらのことをすっかり知っていた。が雨戸を締めて、誰も知らなかった。なぜならその附近は厳重な出入り禁止であったし、すべては知ってはならないことであった。」

 手記は学生時代のⅠ部と、戦いの草稿のⅡ部に分れているが、その間に遺留のノートが弟妹のために残されたが、主に妹の若菜に呼びかけている。
 「若菜、私は今、私の青春の眞昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことはなかった。私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春の頌歌であってほしい。」
 彼の望んだ花とは何だったのか。今となってはわからないが、自分の死を悲しまないで、讃めたたえてくれと遺言している。
 回天とは、魚雷を改装して人間一人が中に座れる場所をつくり、魚雷の先端に爆薬を着け、海中を潜行して敵艦に体当たりして玉砕する一人一殺の殺人兵器である。ハッチを閉めてしまうと、中からは開けることは出来ない鉄の棺桶であった。
 回天要員は学徒兵と予科練生によって編成されていた。和田は回天を希望し、長男だったので失格したが、再度熱望して採用された、光回天基地へ着任したのは昭和十九年十一月末であった。連日、きびしい訓練がつづいた。

< 下へ続く >


落葉松「文芸評論」 ⑤ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 5」 四、持統太上天皇

2017年08月24日 15時49分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑤ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 5」

四、持統太上天皇

 『万葉集』は、上は天皇より、下は名も知らぬ防人(さきもり)たちまでの歌で編み出された浪漫性あふれる大叙事詩であったが、その裏には大化の改新や壬申の乱など、骨肉相食む抗争が繰り広げられていたのである。万葉人のあまり細かいことにこだわらぬおおらかな心どころではなかった。大宝律令の発効によりやっと政権が安定して来た七〇二年、持統太上の三河御幸が実現したのである。
 「一、大宝二年(七〇二年)」で日程を簡単に記したが、『続日本紀』にその明細を見てみよう。

 「文武天皇 大宝二年
 冬十月甲辰(十日)、太上天皇、参河国に幸したもふ。諸国をして今年の田租を出だすこと無からしむ。
 十一月丙子(甲子朔十三日)、行、尾張国に至りたまふ。
 庚辰(十七日)、行、美濃国に至りたまふ。
 乙酉(二十三日)、行、伊勢国に至りたまふ。
 丁亥(二十四日)、伊勢国に至りたまふ。行の経過ぐる尾張・美濃・伊勢・伊賀等の国の郡司と百姓に、位を叙し禄賜ふこと各差有り。
 戌子(二十五日)車駕、参河より至りたまふ。駕に従へる騎士の調を免す。
 戌戊(十二月六日)、星、昼に見る(注:星は金星が昼に現れるのは兵革の兆とされるが、これは持統太上死去の兆か)。
 乙己(十三日)、太上天皇不豫(みやまい)したまふ。天下に大赦す。(病気平癒祈願のための大赦)
 甲寅(二十二日、注ー十二月二十二日であって、新暦に直すと年が替わり一月十九日となる)太上天皇崩りましぬ。遺詔したまはく、「素服、挙哀する啼勿れ、内外の文武の官のり務は常の如くせよ。喪葬の事は、勤めて倹約に従へ」とのたまふ。」 

 「十月十日」「参河に御幸したもふ」ということは御幸に出発したということであろうから、次の尾張に至った十一月十三日まで、約三十三日の空白があるのである。参河に至った日付も不明であるので、実際に参河に滞在した日数も明らかでない。そして、帰りの日付より数えると、尾張に四日、美濃に五日、伊勢に二日、伊賀に一日で藤原宮へ着き、七日たって発病、十日程して崩御ということになっている。

 全行程四十五日である。六七二年の伊賀、伊勢、志摩行幸の時は三カ国を回っても十五日間で済ませている。それを思うと、四十五日間というのは長すぎる気がする。そして帰りは四日、五日、二日、一日とだんだん急行軍となり、帰って発病、崩御ということは参河での滞在期間に何か問題があったのではないか。気丈な女帝であったが、永年の戦乱の疲れが出たのではないか。
 ましてや五十八才という年令である。宮地山の山頂は寒い山の上である。暖房設備も完備していなかった行在所ではないか。風邪でも引いて寝込んでしまったのではないかと私は推測するのである。「引馬野」の歌はその時、生じたのである。病いの女帝を看病していた女官たちを慰めるため、一日、行在所をくだって、御津海岸へ出て、遊んだ時の歌となった。

 そして、病癒えて或は病の途中であるが動けるようになって、あわただしく、尾張、美濃、伊勢、伊賀と回って帰京したのである。そして、病の公表、崩御と続くのである。
 新日本古典文学大系の『続日本紀(一)』の補注にて、「参河国逗留の間の記事を欠くのは、不審である。」と編集者が述べている。『続日本紀』の編集について、同書の上表文で「故実を司存に捜り、前聞を旧老に詢ひ、残簡と綴叙し。欠文を補てんす」とある。

 前半(六九七年~七五八年)の六十一年に対し、二三二頁。後半(七五九年~七九一年)の三十二年に対し三〇一頁を費している。前半の記事は後半に較べて約半分である。材料が少なかったこともあろうが、かなりの削除、圧縮が行われたとも考えられるとのことなので、参河滞留三十三日間の空白も、記事にするのを考慮したのかも知れない。

 それを還幸の日程のあわただしさと、発病の公表、崩御とつづく事実は、持統女帝は病いに倒れたのではないかと推測する次第である。その空白期間に「引馬野」の歌が生まれたのである。


   五、結び

 山下杜夫氏が『浜松市民文芸三十年誌』の「引馬野についての論争」の中で、今までの学者が触れなかった別の方面から、別の角度から引馬野の所在を追求するのも一つの方法であると述べられていた。私はそれに基づいて、持統太上天皇の参河巡幸路とその期間より論究してみたのであるが、結果は残念ながら、参河であるとしか結論が出なかった。もとより浅学非才の身、更に学究諸氏の研究発表を待つものである。


(備考)巡幸日程の旧暦と新暦の対照は概算なので、確定した日ではない。

(参考引用図書)

中西進『万葉集及万葉集事典』講談社文庫
土屋文明『万葉名歌』現代教養文庫
土屋文明『万葉集私注』筑摩書房
新日本古典文学大系『続日本紀(一)』岩波書 店
御津磯夫『引馬野考』三河アララギ会
『(伊場遺跡発掘調査報告書第一冊)伊場木簡』 浜松市教育委員会
坂本太郎『上代駅制の研究』至文堂
橋本進吉『古代国語の音韻について』岩波書  店
伊藤通玄他『浜名湖』浜松三省堂
内山真龍『遠江国風土記伝』谷島屋
杉浦国頭『曳馬拾遺』谷島屋
『土のいろ』十五巻一号、昭和十三年三月
松浦静雄『日本古語辞典』刀江書院、昭和十  二年




『落葉松』「文芸評論」 ④ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 4] 三、引馬野と榛

2017年08月23日 21時50分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ④ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 4」

三、引馬野と榛

  妹も我も一つなれかも三河なる
         二見の道ゆ別れかねつる   (巻一ー二七六)

 この歌も高市連黒人の三河御幸の時のものである。黒人はもう一つ、巻一ー二七一で

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟 
潮干にけらし鶴鳴き渡る

 という歌がある。桜田は今の名古屋市内になるようであるから、還幸の時のものであろう。
 この「二見」が、遠江の引馬野と三河の引馬野への分かれ道であった。もっとも領地とも当時、引馬野と呼ばれていた資料は無いが、(遠江の引馬野の初出は『金葉集』の大治二年(一一二七年)である)仮に引馬野としておく。
 二見は三河の国府のあった場所であり、国道一号線と三百六十二号線の合流点でもある。三百六十二号線を東進すれば、本坂峠を越えて浜名湖の北を通って、追分、市野を過ぎて、遠江国府のあった見付に至る。いわゆるのちの姫街道である。追分あたりから南方、国道二百五十七号線一帯が今、引馬野と呼ばれている。
 『遠江国風土記伝』(寛政十一年、一七九九年、三河御幸より一一〇〇年もあと)に、引馬野を次のように記している。
 「城の西北にあり、高平にして方五里。水無く人家無し。通道三あり、浜松、宮口、各々気賀関に通ず、古くは猪鼻に通ず。或人云曰う、右の時和地、祝田、都田村の秣場たり、故に三方原と曰うと。元和九年(注:一六二三年)官政あり、以来百八村の秣場となる。」
 又『曳馬拾遺』(寛政六年、一七八八年)には、こう書かれている。
 「高町の坂を、或は天林寺の前を進みて名残村より登る坂を引馬坂といひ、是も三方原に続けり、すでにこの辺り引馬野という。」
 私の見聞でも、戦前、軽便鉄道でゴトゴトのんびり走った曳馬駅は殆ど人家はまばらであった。
 三方原台地は酸性土壌のやせ地で、その上乾燥しているので、植物も満足に成長しない。台地の植物はアカマツ林とススキの原で代表される。五月にはツツジ、秋にはハギ(ツクシハギ、マルバハギ)がこぼれるように咲く。(『浜名湖』)

 「引馬野」の榛を無理に萩であると解釈しているが、榛は水辺に生息するから、乾燥した引馬野台地には育ち難いのである。茜屋の故平松実氏が『土の色』で榛について詳説しているが、萩は染色用としては効用をなさないと言っている。

 『万葉集』には榛の歌が十四首ある。主に大和地方であるが、引馬野と伊香保の二首、計三首が東国である。
 かわりに萩は『万葉集』では一番多くて百四十二首ある(芽、芽子、波義、波疑)。もし引馬野の歌が萩であるなら、何故萩原と記さなかったのであろうか。万葉仮名はでたらめな使い方ではなく、使用方法が確立されていたと思われるからである。萩は萩、榛は榛である。

 長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)は『万葉集』に十四首の歌がある。奥麿も黒人と同じく宮廷歌人であり、奥麿、黒人は共に参河御幸に供奉した。十四首のうち、十六巻の八首は即興歌で、他の六首は全部、行幸の時の従駕歌である。

 即ち六九〇年の持統天皇の紀伊行幸の時の巻二ー一四三、一四四。七〇一年の紀伊行幸の時の巻三ー二六五、巻九ー六七三。そして七〇二年の「引馬野」の歌。最後に七〇六年の文武天皇の難波行幸の時の歌である。

 行幸の時には、全部従駕しているから、都にあって遠江の引馬野を偲んで作った歌であるとか、或は三河の行在所より遠江に出かけた時の歌であるという節もあるが、『遠江風土記伝』や『曳馬拾遺』の書かれた江戸時代中期でもっ牛馬の秣場だった所である。それより約一千年も前のこの三方原の地がどんな所であったかは想像出来るであろう。
 人家もない、無論宿泊すべき場所もない所で、新暦で十二月の初冬の寒い季節である。女官連中が時間(三河の行在所より三方原まで約四十キロある。約十里である。)をかけて出かけたであろうか。疑問とするところである。

 もう一つの引馬野ー即ち三河の引馬野は、二見の一号線より別れて東三河環状線を行くと御津海岸へ出る。この先に御幸浜がある。ここら辺りが三河の引馬野といわれる地帯である。
 この海岸通りを東進して豊川を渡る所が渡津橋である。これが古の東海道であったと思われる。大宝律令の古代駅家配置図に三河の国には鳥飼(そしとり)(矢作川畔)、山網(やまのな)、渡津(わたうづ)と駅馬が見えるからである。

 そして高師山を越えて猪鼻駅(新井)へ出て浜名川を渡り、栗原(伊場遺跡)、○摩(安間か、姫街道の分岐点)を経て見付の国府に出る。しかし、この道は官人の通る道で、一般はいわゆる本坂超えの姫街道を利用したようである。即ち『万葉集』の遠江の歌十五首のうち、あらたまとか、引佐細江とか、奥浜眼の歌が多いからである。
 御津の御馬海岸が三河の引馬野であるとすると、遠江の引馬野より大分歩がある。即ち音羽川の河口で水辺であるので榛(ハンノキ)の生育にも適していたであろうし、行在所より三キロの道のりであるから、日帰りも可能で行在所の宿泊の考慮を計る必要もない。

 壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)と菟野皇女と皇子たちが吉野を脱出した時、従うものは舎人(とねり)二十人、女官十二人あまりだったという。この参河御幸の時は、舎人や女官がどの位の人数だったか想像もつかないが、「衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた時の舎人や女官たちの姿は壮観であったろうと思われる。

 次章に説明するが、私はこの時、病気に(風邪でもひいたか、寒い季節であったから)かかって臥っていたのではないかと考察する。看病する女官たちを慰めるため、一日、御馬海岸で遊んだのではないか。

 最後になったが、引馬野の地名であるが、それを固有名詞と考えるから疑問が生じてくるのである。引馬は古義で、「引」は「ヒキ(低ー即ち低い)」、「馬」は「マ(地区、所)」の転呼であって「低い土地」と意味になるのである。固有名詞でなく、普通名詞として用いられたのであるという(『日本古語辞典』)。
 されば、御馬海岸は、音羽川の河口で渥美湾(三河湾)に臨み低い海岸地帯であって、それにふさわしい歌である。

 『万葉集』の中には、まだ解明出来ない歌や、地名に至っては、当時と現在では変ってしまって、はっきりとしない不明地は多々ある。
 引馬野もその一つなのであるが、固有名詞ではなく、普通名詞であって低い土地の名であると解釈すれば、榛も萩でなく、ハンノキであるということに落着くのではなかろうか。
 さすれば、三河御幸の時のいくつかの歌から三河湾周辺の土地が、その歌の主題となってくる。引馬野もその例外ではないのである。



『落葉松』「文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」 二、参河行在所

2017年08月22日 11時28分10秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」

二、参河行在所
 
 参河に至った持統太上は何処を行在所としたのであろうか。三河アララギの御津磯夫氏の「引馬野考」によると、それは宮地山であって、頂上に行在所跡の碑が建てられているという。(もっとも碑の建設は近年である。)現在も紅葉の名所でハイキングコースになっている。宮地血山は海抜三百六十三米というから、本坂峠(役四百米)よりは低い山である。東名高速道路の音羽・蒲郡インターを降り、名鉄の赤坂駅のそばにそびえる山である。山頂より三河湾をよく眺めることができる。名鉄と東海道が並行しており、音羽川も並行して流れて南へ下り三キロほどで、御津町御馬の三河湾に注いでいる。

 この御馬の地が三河の引馬野であり、河口が安礼の崎であるといわれているのが三河説である。上陸地はこの御馬の地であろう。宮地山に登るのにも近いからである。三河の国府も近くである。しかし、ここが安礼の崎であるとするには、地形的に少し無理ではないかと思う。御馬海岸も当時と(後述するが浜名湖(遠江淡海)もそうであったように)現在とは違っていたと思われる。

 三河御幸の時の、『万葉集』の十三首の歌は、五七ー六一、二七〇ー二七七である。五七は引馬野、五八は安礼の崎、五九、六〇は本文に関係ないので省略して、六十一は的方の歌である。そして二七〇ー二七七の八首は、五八と同じく高市連黒人の作である。そのうち、近江や山城の歌はこの時ではないかも知れない。還幸路より外れるからである。

 高市連黒人は『万葉集』に全部で十八首の作があり、全部旅の時の歌であるが、参河行幸の時が約半分を占める。黒人は宮廷歌人であったと見られる。そのうちの

   四極山(しはつやま)うち超え見れば笠縫(かさぬい)の島
    漕ぎかくる棚無し小舟     (巻一の二七二) 
 
 五八の安礼の崎について文明氏は三河湾の西岸の西浦半島の先端の御前崎(ごぜんさき)に擬しておるが、ちょうど伊勢より三河への航路より遠望出来る岬である。この四極山は大阪の摂津とも、又この御前崎に近い幡豆町か吉良町あたりではないかとも言う。笠縫の島は前島(兎島)であろう。文明氏も、摂津とすると笠縫の島は遠浅の海で海中になってしまうと言っている(『私注』)。同じように棚無し小舟が出て来るということは御前崎(安礼の崎)と四極山が近い所であることが暗示される。同じ作者の参河行幸の時の参河での作であろうかと推定される。

 引馬野が浜松であるため、安礼の崎を新井(現在の湖西市新居町)の海岸であるとする説がある。古代の浜名湖は現在とは大分おもむきが違っていて、太古天竜川が都田辺りより浜名湖に注いでいた名残りで、土砂の隆起により南半分は埋っていて、今の湖西辺りから磐田原台地へかけては台地の続きであった。天竜川は既に現在の位置を流れていたが、村櫛半島などは、まだ形成されていなかったのである。そして、湖のはけ口として、浜名川が一本遠州灘に注いでいたのである。新居の西南部に、そのあとと思われる水帯が現在残っているという。

 外洋は荒い遠州灘であるし、ましてや冬の季節である。小さな棚無し小舟が漂うのは無理であろうし、伊勢から参河へ行く途中の船の上からの作歌であると思われるので、四極山の歌と関連して、安礼の崎は、御津の地にしろ、御前崎にしろ、三河湾内であるというのが私の推論である。

 それにこの時代、既に新井という地名の書かれた木簡が、伊場遺跡から発見されている。
 「辛卯(かのとう)年十二月新井里人宗我部○○○」

 この年は持統五年(六九一年)であるから、参河御幸の十一年前に当たる。新井という地名が既に存在しているから、わざわざ安礼の崎と歌われることもないのではなかろうか。浜名川の河口には「崎」と呼ばれそうな岬は存在しなかったと思う。



文芸評論、②、「引馬野」の歴史的、地理的考察」「一、大宝二年(七〇二年)」

2017年08月21日 15時29分25秒 | 雨宮家の歴史
文芸評論、②、「引馬野」の歴史的、地理的考察」「一、大宝二年(七〇二年)」

 先ず、「引馬野」の歌が歌われた大宝二年(七〇二年)という年を考えてみよう。持統太上天皇の参河御幸によって、この歌は生まれたのであるが、持統太上は何故この年になって参河までの行幸を強行したのであろうか。孫の文武(軽皇子、十五才、六九七年生まれ)に帝位は譲っているものの、文武は幼少であって、実質的には実権を握っていたであろう。

 この年(大宝二年)より十年前のまだ天皇であった持統六年(六九二年)二月十一日に伊勢に行幸する計画を発表して、臣下にその準備を命じた。大体行幸の一ヶ月位前から、使いをその路の諸国に派遣して、行宮を造営せしめるのが慣行になっていた。この時は、三月三日出発の予定であった。これに対して、中納言の大三輪朝臣高市麿(たけちまろ)が農事の妨げになるとして反対した。中納言は壬申の乱の時の功臣であり勇将であった。天皇に反対意見を述べるくらいであるから、重用されていたのであろう。行幸となると、農民たちが使役に徴用されて農作業が出来なくなるからである。

 壬申の乱(六七二年)より二十年が経っていた。夫の天武天皇は内政の充実のために一度も外へ出ていなかった。父の天智天皇が没落した原因の一つに地方豪族の不満があったことを、持統天皇は覚えていたのである。それ故、反対を押し切って、予定より三日遅れたが、三月六日出発し、二十日に帰京した。大三輪朝臣は辞職した。

 その間、伊賀、伊勢、志摩の諸国を回り、今年の調役(納税)を免じている。更に遠江、参河などより供奉の騎士の調役も免じている。参河の御幸も、同じく尾張、美濃、伊賀、参河の国々の壬申の乱に功のあった人々を賞で、税を免じるためであったのである。事前に不満を封じておいて、持統無き後の幼少の文武のために後顧の憂いをなくしておくためであった。

 しかし持統天皇ほど、旅好きの天皇はなかった。殊に吉野へは三十一回にも及んでいる。吉野は大海人皇子(天武)が天智天皇のもとを去った時、一緒に隠棲した思い出の地であるから、尚更の感があるが、天皇の行幸となると、その盛大なること想像を超えるものがある。

 一ヶ月前から行宮を造営せしめる事は前記の通りであるが、大宝元年(七〇一年)の紀伊白浜行には船を三十八隻も造らしめている。
 随行となると車駕に雇従する官人ー御前次第長官、御後次第長官、夫々次官、判官、主典、御前騎兵将軍、御後騎兵将軍、それぞれ副将軍、軍監、軍曹等、堂々たるろ簿の盛観である。だからその行程も極めてゆっくりであって、大宝元年の紀伊白浜御幸は二十日もかかっている。即ち九月十八日に出発して、十月八日到着、十月十九日には帰京している。路次、諸国の田租を免じ、調役を免じ、国司、郡司の位階を進めることは行幸につきものの現象であった。それと大車駕の巡行は交通路の発達を助長せしめ整備されていった。

 大宝二年の参河行幸も九月十九日に伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の五カ国に使いを派して行宮の造営を命じている。この年、『続日本紀』によると、「八月五日、駿河、下総の二カ国に大風吹く、百姓の家屋を壊し、作物に被害が出る。九月十七日、駿河、伊豆、下総、備中、阿波などの五カ国に飢饉が起る。使を派して救済せしめる。」とある。一般臣民は困窮を極めていたが、中納言は辞職しており、この時反対する者は出なかった。

 また「十月一日、ここに幣帛(みてぐら)を奉りて其のいのりを賽す参河国に幸せむとしたまうためなり。十月十日甲辰、太上天皇、参河に幸したまふ、諸国をして今年の田租を出すこと無からしむ。」とあり、その後の行程を表にしてみると次の如くである。( )内は太陽暦(概算)を示す。

  十月  十日(十一月  八日) 参河
 十一月 十三日(十二月  十日) 尾張
 十一月 十七日(十二月 十四日) 美濃
 十一月二十二日(十二月 十九日) 伊勢
 十一月二十四日(十二月二十一日) 伊賀
 十一月二十五日(十二月二十二日) 還幸

 この詳細は、「四、持統太上天皇」の項で述べる。
 『万葉集』には、この参河御幸の時と思われる歌が全部で十三首載っている。記録にはその旅程は出ていないが、回った国の順序を見ると、参河へは船で伊勢湾を横断して上陸したと見るのが至当であろう。即ち次の歌がそれを明らかにしている。

 巻一の六一、舎人娘子(とねりのをとめ)の従駕(おおみとも)して作れる歌

 大夫(ますらお)が得物矢手挿(さつやたばさみ)み立ち向かひ
   射る円方(まとがた)は見るに清潔(さやけ)し

 舎人娘子は舎人皇子と親子とあるから、持統太上の孫となる。円方は的方で、現在の三重県松坂市の東部、櫛田川の河口辺りという。ここから乗船する一行が船待ちの間、射矢をして腕を競ったのであろう。尚、船は前年の紀伊御幸に造らしめているから、それを使ったものと思われる。そして、その途中で読まれた歌が、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の次の歌である。

  巻一の五八、
   何処にか船泊てすらむ安礼の崎
    漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

 この歌も文明氏の『万葉名歌』に、「伊勢湾から海路を参河に行く時の作である」と見えるから、安礼の崎も、その間の海上のある岬をいうのであろう。安礼の崎については、次章で詳しく述べる。

 私が持統太上の御幸巡路に固執するのは「引馬野」の歌を解くには、この一首のみを分析しても不可能であって、参河御幸の時の十三首の歌の中の何首かが重要な関係を持ってくるからである。それと、御幸期間の長期四十五日間も解せぬ所である。


( 続く )


『落葉松』「第2部 文芸評論」① 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 1」

2017年08月20日 21時19分04秒 | 雨宮家の歴史
  『落葉松』「第2部 文芸評論」① 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 1」


  序
 
 万葉集の中の「引馬野」については未だに定説がなくて、歌の中の「榛原(はりはら)」とともに、その解釈は二分している。
 「引馬野」とは、万葉集巻一の五七の歌のことをさす。

 「二年壬寅に、太上上皇の参河国(みかわのくに)に幸しし時の歌
   引馬野ににほふ榛原入り乱れ 
          衣にほはせ旅のしるしに
 右の一首は長忌寸(ながのいみき)奥麿(おきまろ)の歌」

 元来、言葉は美しく、楽しいものでなければならないが、その解釈や読み方が定まらないということは、その美しさ、楽しさを半減させてしまうものである。

 土屋文明氏は『万葉名歌』(現代教養文庫)で引馬野は三河の「御津海岸に当てる説が、近頃は信じられるようになった。」と述べ、『万葉集私注』(筑摩書房)で、「三河であろうが、浜松に較べて御津の方は資料が弱い。」とも述べている。

 榛については、『万葉名歌』で「萩であるか、『はんの木』であるか、あるいはまた雑木であるかについて、事細かい論争が昔から繰り返されている。」と述べ、『万葉集私注』で「ハンノキの冬枯れが紅葉しかけた頃」と記している。(萩とは言っていない。)

 「衣にほはせ」については、『万葉名歌』で「必ずしも染色の手段を経て、実際に着物を染めるというのではなく、花なり紅葉なりの色の美しい中に入って、その色を着物に美しくうつさせなさいという詩的感興なのである。」「染色上の実際の技術的問題を引いて、この歌から榛の問題を論究しようとするのは、議論としても見当外れであるばかりでなく、根本的において歌を誤解しており(中略)一首の主眼は旅行く引馬野に匂い栄える様の紅葉(萩の花ならそれでもよい)を見て、あの中に入って着物ごとあの色になりましょうと即興的に歌っているところにあるのだ。それを忘れて理屈めく解釈をしてはだめである。」と言っている。

 古来、仙覚、契沖、春満、真渕、宣長等より近代に至って赤彦、茂吉外の学者によって『万葉集』は研究され、「引馬野」の歌の引馬野と榛についても各人各様の解釈がなされているが、何れも想像の域より出てはいない。

 歌の鑑賞にはその詩的解釈の方が重要であって、歌に現れた人物、土地、植物などは、二の次になるのであろうが、その土地に関係した者になれば、凡人の悲しさで、歌の解釈より、地名や植物の判定がどうしても重要となってくるのは致し方ないであろう。

 私は、昨年末、その曳馬の里に住みつくことになった。この機会に「引馬野」の歌について、少し感想をまとめてみたい。文明氏の意に反するが、理屈を述べてみようと思う。

  ( 続く )



雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 あとがき ー 月の沙漠 」

2017年08月19日 05時23分06秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 あとがき ー 月の沙漠 」

戦後編 あとがき ー 月の沙漠

 「自分史」という言葉を使うようになったのは、色川大吉が書いた『ある昭和史(自分史の試み)』(昭和五十一年、中央公論社)からだと言われている。その「はじめに」に、次のように書かれていてる。
 「私たちは何のために過ぎ去った半世紀をふりかえろうとしているのだろうか。歴史は病めるおのれを映し出す鏡のようなものだといわれる。昭和五十年を迎えた今、この本を庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民、私の〝個人史〟を足場にして全体の状況を浮かび上がらせようと試みた。今こそ、めいめいが、〝自分史〟として書かねばならないものだと思う。」
 私は、大体知っているが、子供、孫たちになれば、中谷家はどこの馬の骨か分らないのでは恥ずかしいだろうと思って、書き残しておこうと、二十年ぐらい前から資料などを集めてきたのである。

 祖父「卓二」については、陸軍被服廠関係の辞令と、被服廠の歴史を研究されている森谷宏氏(東京都北区在住)にお世話になった。
 「陸軍被服廠 中谷家文書 全三十四点」は、平成十五年十月上京した折、森谷氏と陸軍被服廠のあった赤羽に属する「東京都北区行政資料センター」に、資料専門員・保垣孝幸氏の立会いのもと寄付した。これで私の長年の肩の荷が降りた。病気や入院治療などのため遅れて、実危ぶまれた程であった。

 父「福男」は祖父の辞令や、短歌雑誌「アララギ」その他の文集から大体判明した。父は浜松地方における短歌界の草分け的存在であった。その歌から家族の動静を知り得た。
 
 私自身については、何も言うことはない。覚えている事実と資料を横の軸とすれば、私の信念を縦の軸として、織り成した織物のようであるが、使う人によっては、ゴワゴワと硬かったり、あるいはス・フ【ステープルファイバー】ののように肌に合わず、用を成さないようなこともあるかも知れない。読む人によって各人各様であるのは仕方ないと思う。そうかと言って、それぞれにおもねる訳にも行かず、自分流で行くほかなかった。

 一昨年の平成十四年十一月に、子供や孫たちが私の八十歳の傘寿を、岐阜の奥飛騨温泉郷の福地温泉で祝ってくれた。家内は金婚式にも出られず、この日も入院中で、出席出来なかった。無念という他ない。
 私たち夫婦の行く道も先が見えてきた。童謡「月の沙漠」の銀の鞍のラクダに、病める妻を乗せ、同じく病む私も金の鞍のラクダにまたがり、二人並んで月の沙漠をはるばると、北原白秋の詩「巡礼」(『白金の独楽』所収)の「真実一路の旅なれど、真実鈴振り思い出す、真実一路の旅を行く」を思い出し、真実を探しながら砂丘を越えて行こう。

(平成十六年=2004年)

 編集後記

 父・節三が今年【2013年=平成二十五年】三月三日で九十才を迎えました。九十才の記念に、これまで父が書きためた自分史と文芸評論を一冊の本にしようと企画しました。子供たち夫婦三組(兄夫妻、私たち、妹夫妻)で財政を分担して、次男の私が編集しました。
 なんとか一冊の本としてできあがりましたが、明治から平成に至る日本の近代史~現代史の中の父や中谷家の歴史、また浜松の短歌などの近代文芸史としても、まとまった叙述になったと思います。
 皆さんが、この本を読んだ感想などいただければ幸いです。
  
          雨宮智彦(次男)

 
☆2017年8月のブログ注 まだこれから「自伝 補遺」「文芸評論」などを掲載します


「雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー52 ガン雑感」

2017年08月18日 16時53分51秒 | 雨宮家の歴史


「雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー52 ガン雑感」

52 ガン雑感

 ガンなど無縁と思っていた私に、ガンが発生していたことは、ひと昔前の肺結核みたいなものかも知れない。もっとも私の親戚で、ガンで亡くなった人も何人かは、いる。ガンについてよく知りたいと思って、私は本屋と図書館を廻り、ガンに関する本を読んでみた。借りた本は要点を書き留めておいた。
 「患者よ、がんと闘うな」と医師が書いたのがあると思うと、「がんと闘う・がんから学ぶ・がんと生きる」と患者が書いた正反対の本もある。ガンはこわいかと聞かれれば、こわくないとは言えない。死そのものについては、どのみち、早く来るか遅く来るかということであると考えたいが、私も戦時中は、軍隊で二十五才までの命と観念していたから、八十才まで生きている今日、命があったのが不思議なくらいである。
 人間って身勝手なもので、何才までも生きたいのである。人情ではあるが、ガンなど年をとらねば発生しないと思っていたが、まだ世の中の酸も甘いも知らない子供も、ガンに冒されることを知った。小さな罪のない子供までもガンに罹るのは不公平な世の中だと思う。

 先日放映された「こども・輝けいのち(小さな勇士たち)」は涙なしには済まなかった。東京聖路加国際病院の小児科病棟を一年間に亘って追跡取材したものであるが、この病院は一流病院で、ここに入院して治療出来た子供たちは幸せである、入院出来ずに苦しんでいる子供は、他に大勢いるに違いない。小児科武長の細谷亮太医師の書いた本(『医師としてできること できなかったこと』講談社+α文庫)があるが、彼は自分の専門は小児ガンの治療と決めて、子供たちと共に過ごした。子供のガンは主に白血病であるが、今では化学療法で治る率は多くなってきた。しかし抗ガン剤であるから、子供でも吐き気や、脱毛などの副作用が出て、可哀想に大人と同じように髪の毛が抜けてしまう。女子中学生が、かつらを冠って卒業式に登校することになる。
 「ママ、死ぬのって恐いね、死んだらどうなっちゃうんだろう?」
 私でも思うようなことを、小さな子供に言わせねばならない現実は悲しい。
 「わたし、いつまでがんばればいいの?」と看護婦さんに聞くが「どれくらいがんばればいいかは神様が決めてくれるわ。もうがまんできないと思ったときはきっと楽になるからね」そのようにしてお星様になっていった子供たちの名前をあげて、黄泉路で道を迷わないように祈りたい。
 彩(あや)ちゃん・容子ちゃん・麻衣ちゃん・Sちゃん・真美ちゃん・H君・Y君・サトシ君・ケンちゃん・Kちゃん・みいちゃん・りょうた君・マー君(病院で「お食い初め」をする)・あけみちゃん・洪ちゃん・祐子ちゃん・結実(ゆみ)ちゃん・ユウジ君・タケちゃん・サトちゃんたちの幸せを願って、合掌。
 これら子供たちに比べれば、私のガンなどガンとは言えないかも知れない。しかし、いつの日か、ガンがその本省を現わして、頸をもたげてくるかも知れない。
 「人はなぜ死を恐れるのか。死ぬのをいやがるのか。そんなに生が楽しいのか。生きているのはいいことなのか。苦しみに満ちた生なのに、わたしもなぜ死を恐れねばならないのか。しかし、この時こそ、ガンは始まっていたのだ。」(高見順『闘病日記』より。食道ガンにて死去)

 現天皇が、前立腺ガンの摘出手術を東大付属病院で受けたのは平成十五年の一月であった。歴代天皇(といっても、明治・大正・昭和の三代しかない)が普通宮内庁病院で治療を受け、皇居外に出ることはこれは現天皇の「合理的・機悠的医療」が宮内庁病院では「万全でない」と判断した結果であるが、特に父君、昭和天皇のことがあったからだと私は思う。
 昭和天皇は昭和六十二年九月、腸のバイパス手術を受けられたが、この時、既に「すい臓ガン」であることは専門医の見方で一致していた。しかし、本人にも告知されず、侍従長の発表は「慢性すい炎」で、国民にはガンと公表しなかった。東大病理学教室での組織検査で、ガン細胞は認められていたのである。宮内庁の閉鎖性が戦後も続いていることを証明した。そのため、大量吐血を起こし四ヶ月間も三万CCに及ぶ輸血が続けられた。三万CCという一人の人間の血を十回ぐらいも入れ替えたことになる。放射線治療をすれば延命を期待出来たという説もある。しかし、あくまでもガンを覚られないためであった。
 これらの事実を現天皇は深く認識していたと思う。二、三年前から、血液検査の前立腺に関する項目(PSAであろう)に「やや懸念される数値」が続いた(数値は不明)。そのため平成十四年一月二十四日一泊入院の組織検査(生検)で細胞ガンを認めたのである。これらは陛下の了解を得て発表された。年明けの一月に東大付属病院に入院して、前立腺全部の摘出手術を受けられた。転位もなかったということである。

 しかし、十月頃になってPSAが微増傾向にあることが分った。小数点以下二ケタであるこというが、これはどういうことであろう。前立腺を全部(無論ガン細胞も含まれる)を切ってしまえば、PSAは零になる筈である。私の場合、手術せずにガンが残っているが、内分泌療法でPSAは〇・〇一(最低)が一年半続いている。陛下には、まだガンがどこかへ転位して残っているのではないかと心配する。私より十才も若い。

 前立腺ガンの治療方法も進歩して、健康な細胞を傷つけない努力をしている。静岡県ガンセンターでは「陽子線治療」を始めた。放射線の一首であるが、従来のX線はガンだけでなく周わりの健康な細胞も破壊してしまう。それを避ける方法である。
 東京国立医療センターでは「小線源方法」(前立腺内にチタン針を八十~百個も入れて、針に含まれる沃度125から出る弱い放射線が一年程でなくなる)。その他「超音波方法」(丸山病院)など、何れも副作用の少ないのが特色であるが、まだ保険の効かないものもあって、治療費の高くつくのが難点である。

 私もいつまで内分泌治療が続けられるか不明であるが、これらの方法については、治療費の多寡に関わらず、深い関心を持っている。



雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー51 ストレス」

2017年08月17日 07時51分04秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー51 ストレス」

51 ストレス

 退院して通院治療が始まった。
 既に内服薬として、①「カソテック」(ビカルタミド=抗男性ホルモン剤)で、腫瘍の増殖を抑制する作用があるが、肝障害が起こる可能性があるので、それを防ぐために、② 「ウルソ」を併用する、③ 排尿障害を防ぐ「ハルナール(塩酸タムスロシン)」、④ 入院した時、高血圧食を出されたが、そのため血圧を下げる「プロプレス」,⑤ 下剤(三種類)、⑥ 入眠剤として「デバス(エチゾラム)」は抗不安剤としては強度の方で、不安をとり除いて、眠気を誘う薬である。
 これらの薬は一回に十四日分しか出せないので、二週間毎の通院となる。

 通院の度に検尿がある。紙コップに採尿するのであるが、排尿傷害だった身としては、最初はうまく採れず苦労した。慣れるに従い、湯飲みに二杯ぐらいのお茶を飲んで、尿意を催して来たら出かけると、ちょうど病院での採尿に間に合うようになった。いつも、オシッコはきれいですと言われている。

 二ヶ月に一度採血して、前立腺ガンの指標となるPSAを検査する。四週間に一度、前立腺ガンの男性ホルモンの分泌指令を狂わせて分泌を抑える「LHA・RHアゴニスト(酢酸リュブロリンー商品名「リュウブリン」、武田薬品の製造で、武田はこれで大当たりをした)」を腹の臍の下あたりに皮下注射する。これが、前立腺ガンの増殖を抑制するのである。ガンそのものが消えてしまう訳ではないので、注射を中止すれば、ガンは増殖して転位する。年末まで五回の注射でPSAが〇・〇九まで下がった.一年ぐらい経って〇・〇一となり(十四回の注射)これが最低値であったから一応ガンの転位とか増殖の心配はなくなった。薬も四週間ー二十八日分が出せるようになって、月一回の通院となった。
 二年目の年末には、注射も三ヶ月で一回で済むようになった。これはリュウブリンが濃縮されて、三倍の濃度になったのである。

 しかし、薬価は月一回分は五万六千円であったが、三月に一回分の方は九万八千円になった。これに飲み薬約五万円分野採血・採尿の検査料を合わせると十五万円程になる。保険で一割の支払いであるから、注射月は一万五千円必要で、注射のない月でも五千円はかかった。それに家内の入院費が月十五、六万円かかる。長男が毎月補助を出したり、保険が出たり、預金より下ろしたりと何かとやりくりしていたが、よく保ったものだと思っている。

 ガンの指標は減っていったが、体調は発病前と同じという訳にはいかず、頭がふらついたり、夜は排尿障害の薬のため二、三回はトイレに行くので、朝までぐっすり眠るということはなかった。トイレに行けば、オシッコは日中よりも量が多く出るくらいで、出なくて困る訳ではなかった。

 天気が良ければ,自転車で家内【当時、天王町に入院中だった】の入院先へ洗濯物を取りに行ったりして気を紛らわせていた。

 「ガン」を告知されたとき、最初に私の頭に突き刺さったことは、「ガン=死」ということであった。先生の方は、治るガンであるから、軽い気持ちで言ったのであろうが、受け取る私の方としては,何も知らないから、一般に流布されている「死」ということを考えたのであった。内分泌(ホルモン)療法で、PSAの値が四ヶ月ほ程経って〇・〇九と大きく下がって、明るさが見えて来たので、「死」の心配は一応遠のいたが、「ガン」自体は残っているのであるから、完全に安心する訳にはいかなかった。リラックスして忘れ去ろうとするが、どうしても頭の中の片隅に残るのである。

 師走も半ばとなった十二月十三日、朝から胃がむかつくようになった。口の中がいがらっぽく、生つばが出てくる。朝食からおかゆである。風邪薬の故かなとも思って、風邪薬はやめた。くず湯を呑んで身体を温めたりしたが、結局、その夜は一睡も出来ず、一時間毎にトイレに行って、夜の明けるのを待った。
 近所の胃腸専門の内科医は、「風邪のビールスが胃に来たのだろう」とナウゼリン(吐き気)やガスター(H2ブロッカー)の胃ぐすりを調合した。夜、ガンのくすりと共に、全部で十種類ぐらい一度に服んだところ、中毒症状を起こしたかと思うほど胃がまた気持ち悪くなり、十五日も夜半一睡も出来なかった。そうかと思うと何ともない日もあり、一日中口が苦くて不快な日もあった。

 二十五日、泌尿器科の診察の日、消化器内科へ廻わり、年が明けた一月十日、胃カメラ検査と超音波診断も受けることになった。それまで躰が保つかなと思ったが、果して二十七日の夜になって、また一睡も出来ない状態となった。三回目である。二十八日の明け方、病院の救急医療室へ連絡して出かけた。しかし、当直医は専門医ではないので、外来が始まるまで、整形外科のベッドで休んでいた。
 ちょうどその日は、年末最終診療日で、先日の消化器内科の先生の診察の日で一番の診察に廻してくれた。付き添っていた次男の嫁さんは、近くのコンビニで弁当を買った。

 結局、胃カメラ検査も繰り上げ実施することになった。バリウムを飲むレントゲン検査は二回程やっているが、胃カメラは初めてである。胃カメラがのどを通るのであろうかと不安であるが、年末でも受診者は順番待ちである。のどを麻酔するため、口の中ののどに近い方にドロップ錠を含んでいたが、しびれて来たようだなと思っていたら,飲み込んでしまった。
 順番が来て診察台に左を下にして横になると、鎮静剤の点滴注射を始めた。長い胃カメラファイバースコープを口の中へ入れたようであったが、うまくのどを通らないのか、私はゲーfゲー吐く時のような音を出して、最初は失敗であった、
 二回目は知らない間に入って、胃カメラの映像が映っている受像器が正面にあって、赤い胃壁が見えた。検査員は「胃はなんともありませんね」と、知らぬ間に胃カメラは抜かれていた。
 鎮静剤を点滴していたので、すぐ車椅子で内科外来のベッドへ行き、寝かされた。規定で検査が終わると二時間ほど休むことになっているからである。

 胃カメラを入れただけで、こんなに胃が何ともなくなるとは思ってはいなかった。二時間待つほどもなく、一時間ほどで看護婦が私の状態を見て「もういいでしょう」と医師の室へ連れていった。
 消化器内科の先生は胃カメラ検査の胃のカラー写真を私に見せて、「この通り胃は健在で異常はありません。ストレスが胃を刺激して胃酸過多の状態になったのでしょう。安定剤を出しておきますから、ゆっくりと余計な心配はしないで、リラックスして下さい」と言った。
 これも排尿障害と同じく、自律神経の不調よりなったと思う。「50 膀胱手術」でも前述したが、自律神経には交感神経と副交感神経があって、これらは脳の中枢からの指定により調整されている。それが何かの不安とか、ストレスが加わると極端に片よって機能するようになる。特に脳の迷走神経は胃の運動と胃酸の分泌に密接に関連して、様々な異常を起こす。
 私の場合も、ストレスが胃の神経を高ぶらせて、胃酸の分泌を促進させて、余分な胃酸が口の中に入って来たのだろう。口の中が苦く、胃が動くのが分かるのである。これがひどくなれば、胃潰瘍などになってしまう。幸いそこまで行かずに済んだが、それを防ぐには過労にならないように注意し、入浴して血行をよくすること、特に不安にならないように笑いが必要だという。

 現代人は、つい多忙に紛れて笑いを忘れているようだ。自分なりの人生哲学をもって、明るく前向きに生きてるに限る。希望・意欲・愛・快活・ユーモア・信頼・感謝などは、笑いに類化してストレスを緩和する。


雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー50 膀胱の手術」

2017年08月16日 21時26分59秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー50 膀胱の手術」


Ⅱ 50 膀胱の手術

 八月に入ると、また排尿障害が起き始めた。「生検」でガン細胞を採ってから、余計悪くなったような気がする。

 先生は、水分を充分に摂るようにと言うが、コップ二杯の水(二〇〇CC)を二時間おきに飲むことになった。ベルナールという排尿促進剤を夕方に飲む。それでも出ないので、病院へ行くと、不思議なもので出る。十日と十二日の二回、どうにも我慢ならず、夜間救急治療室で導尿してもらったら、気持ちよくなった。しかし、出た尿は五〇CCぐらいだ。膀胱は三、四〇〇CCぐらい溜まる筈なのに、五〇CCぐらいで尿意を感じて出たくなるのだが、出ないのはどういう訳だろう。先生には「勝手に導尿して感染症にかかるかも知れない」と叱られた。エコー検査をしても、膀胱には二〇ー四〇CCぐらいしか溜まっていないという。私のガンは大きくないので、尿道を圧迫していないから、尿意があっても出ないのは、自律神経の調整がうまく作用しないかららしい。

 自律神経には、血管を縮ませる交感神経と、反対に血管を開かせる副交感神経がある。交感神経が働くと尿道括約筋や前立腺が収縮して尿は出ない。ところが副交感神経が働くと弛縮して尿が排出される仕組みになっている。これは脳の指令にもとづくのである。私の場合は、この副交感神経がうまく働かないのである。交感神経が強く働いて尿が出なくなるのである。これについて後章の「51 ストレス」の項で詳述する。

 先生は私に「何か趣味はあるかね」と聞かれたので「文章を書いています」と応えたところ、怪訝な顔をされていたが、後日、この自分史(戦前編)を差し上げたところ、「成程」とびっくりされていた。それ以後、私を見る目が医師から患者を見るのではなく、医師と患者と対等になったような気がする。

 「われわれにいずれ訪れる病は「ガン」か「ボケ」のどちらかである」とある本に書かれていたが、私たち夫婦は、いずれどころかもう二人ともそれにそれぞれ冒されてしまった。

 八月十三日、私は入院した。結局、排尿障害を除くため、尿道から内視鏡を入れて、膀胱の出口を広くする手術を行うことになった。前立腺のガンはそのままである。手術に対する不安はあったが、排尿の方は安心した故か、うまく出るようになった。心理的なものだろうが、自律神経が良い方に作用し始めたのであろう。

 尿は排尿のたびに、採って自分の蓄尿瓶へ入れておく。一日に、平均二千CC前後溜まった。健康な成人男性の排尿回数は,一日に五、六回で、膀胱の容量は三〇〇ー四〇〇CCだから大体標準の容量である。入院して回復したことになるが、手術は二十三日に行われる予定であった。

 入院して驚いたのは、私の食事が高血圧食(塩分制限七g)となっていたことである。私が高血圧と診断されたとは知らなかった。七月三十日の第一回のホルモン注射をした時、計ったが、一三九ー七五であった。正常血圧の基準値は一三〇ー八五であるから、高値といえば高値といえる。しかし、高齢者は一六〇ぐらいまでは許容されるから、心配する程のことはあるまいと思った。
 手術までの十日間に、① 尿道の広さをレントゲンで調べた。内視鏡が通るかどうかである。膀胱内視鏡がどんなものであるか知らないがO・Kであった、② 下腹部の尿を溜めてのC・  検査、③ 内科の心臓音波検査、④ 肺活量検査、⑤ 蓄尿してのM・R・I検査、⑥ アレルギー検査。念には念を入れてである。

 この病院への入院は初めてではない。昭和六十二年(「第六部 43 閉店」参照)、突発性難聴で二週間入院して、その後十年ぐらい通院していた。家内も何年か通院している。いわば、病院から見ればお得意さんであるが、医師と患者の関係は逆転しているとしか言いようがない。これは医者となる教育に関係していると思う。
 手術日前夜と当日朝の二回、浣腸をして排便し、十時に右腕に皮下注射(痛み止め?)をした。十一時に手術室に入り、出たのは十二時だったから一時間であるが、三十分程は麻酔準備や、身体のレントゲン写真が写し出されて「君の背骨は曲がっているねえ」と先生に言われて、画面を見たところ、成る程真っすぐの一本棒ではなく、S字型に曲がっている。後日、先生に聞いたところ、内臓には影響ないと言われた。
 麻酔を打つ腰椎の場所を探し出し「〇・二グラム」という先生の声を聞いたが、そのうちに足先がジーンとして下半身の麻酔が効いてきた。手足を十字架にしばりつけられたような格好になり、見られたものではないと思うが、何せ感覚が何もないから、何をやっているのかさっぱり分からない。

 三十分程で終わってベッドに戻ったあと、寒気がしてきてガタガタ震え出した。手術室は冷房がよく効いていたから冷えたのであろう。掛け布団を一枚足して貰って寝た。
 膀胱洗滌が一本増えて点滴が二本になった。尿道にカテーテルが入り、洗滌液を溜めるビニール袋が点滴台の下についた。トイレなどに行く時は、ビニール袋をぶらさげた点滴台二本を押して歩かねばならなかった。尿はこの洗滌液にまじって排出される。

 手術日の翌朝まで食事はなく、昼は重湯(おもゆ)、夜と翌朝はおかゆ、昼から普通食となった。少し早いように感じたが、案の定、通じが止まってしまた。看護婦に下剤を催促したが、翌朝、先生に連絡するまで待てという。朝六時頃、やっと座薬を入れたが、一日便意があって気持悪かった。夜やっと下剤が処方されたが、躰に合わないか、一日にトイレに六,七回も行く始末であった。今までは、尿との斗いだったが、今度は便との斗いになってしまった。

 膀胱洗滌中、次男の嫁さんが三食時、来て助けてくれた。尿道にカテーテルが入っているので、うまく座れず立ったまま食事をせねばならなかった。それに温かい物を食べると、すぐ汗がふき出てくるので、団扇であおいで貰うという状態であった。この汗をかくというのも、自律神経失調の状態であった。

 手術して五日目の八月二十七日、尿道のカテーテルは抜かれて膀胱洗滌作業が終わった。三十日の回診時に、明三十一日退院の許可が出た。その日の午後、名古屋の長男夫婦が見舞に来た。やっと間に合った。二人共、この日に仕事の空きが出来たのである。「ガンはガックリしないように」とうまいことを言った。

 退院前夜は、安心したか明け方まで一度も起きずぐっすりと眠った。次男の嫁さんが来て、朝食後退院し、タクシーで二十日ぶりに家に帰った。