雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

青い銀河とオレンジの花 断片 12 名古屋市昭和区相生山 20201208

2020年12月08日 08時14分44秒 | 青い銀河とオレンジの花


青い銀河とオレンジの花 断片 12 名古屋市昭和区相生山 20201208


 最近、中沢新一さんの『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書、2004年)を読んだ。


 そのなかで、こう書いてあるので、びっくりした。


 「網野さんは名古屋大学に職を得ることになった。最初は単身赴任だっったが、1年ほどして家族みんなで名古屋に住むようになった。昭和区(現天白区)相生山(あいおいやま)の広漠とした丘陵地帯に建てられた新しい団地アパートが今度の住まいである。」(p20)


 中沢さんは網野さん一家と相生山を散歩して、奇妙な「焼き鳥屋」と遭遇するのだが、ボクもじつは同じ相生山にいたのだ。


 ボクが相生山にいたのは1973年から1976年までの3年間だ。大学を中退して、名勤生協(名古屋勤労市民生協)に就職した。相生山店で精肉部見習いをやっていた。


 あの当時は、いま思うと未熟な自分で、周囲の人々にはほんとうに迷惑をかけたと思う。ごめんなさい。


 それはともかく住居は当時の長久手村、地下鉄の東の終点から歩いたところにあった生協の寮から毎日、車で通った。最初は同僚に載せてもらって、途中から自分で買った中古の軽自動車「ホンダのゼット」に乗って。


 団地の一角にあるお店で働いて、昼休みには近くの喫茶店に行くのが日課だった。団地の外には出たことがないので、相生山周辺のことは何も知らない。


 学部にも進学せずに大学を終えたので、当時、名古屋大学にいたはずの網野善彦さんとも会うこともなく、もちろん「焼き鳥屋」さんとも遭遇せず、時は過ぎた。


 40数年もあとに、相生山のことをいま読もうとは思いもしなかった。



青い銀河とオレンジの花 断片資料 2 原告の思い 中谷信和(第4次原告団、浜松市)、第6回口頭弁論20121001にて 20201117

2020年11月17日 20時53分16秒 | 青い銀河とオレンジの花




青い銀河とオレンジの花 断片資料 2 原告の思い 中谷信和(第4次原告団、浜松市)、第6回口頭弁論20121001にて 20201117


「2012年10月02日 06時00分26秒 | 原告・支援者の思い
原告の思い 6 中谷信和(第4次原告団、浜松市)、第6回口頭弁論(10/1)にて


 原告意見陳述の全文を掲載します


「浜岡原子力発電所永久停止請求事件
第6回口頭弁論 2012年10月1日 静岡地方裁判所浜松支部


                                第4次原告団 中谷信和


     意見陳述書


 第4次原告の中谷です。原水爆禁止の市民団体の立場から、放射線が人間に与える影響について発言します。


 日本人が受ける自然放射能は年間で2から3ミリシーベルトです。国際組織による外部被曝の線量の低めの評価では、年間2000人の日本人がガンで亡くなっていることになります。


 もちろん、私たちに与えてきた放射線の影響は、自然放射線だけではありません。広島・長崎以後、核実験と原発の放射能が地球を汚してきました。


 1954年,アメリカによるビキニ水爆実験1回だけで、太平洋を広島原爆の1000倍の死の灰で汚しました。全世界で2000回以上繰りかえされた核実験によって、40年前のピーク時には、日本でも、放射性降下物は3.11直前の1万倍もありました。


 核実験の人間への影響を明らかにした一例をあげます。アメリカのスターングラス教授はアメリカで1才未満の乳児の肺炎とインフルエンザによる死亡率が、1950年代から6〇年代に、その前後は急激に減っているのに、異常な停滞をしているのを公表し、核実験の死の灰の影響であると推定しています。


 国際組織の推計では、1945年から半世紀で放射線によって失われた命は、全世界で117万人または6500万人です。


 核実験だけでなく、すべての原発も、日常的に低レベルの放射能を放出し続けています。アメリカのグールド博士は、全米の原子炉や原子力施設の周辺160kmの3000の郡で、女性の乳癌が他地域より数倍高い発生率であることをつきとめました。


 浜岡原発でも日常的に低レベルの放射能を大気と海に放出しています。静岡県と中部電力が1980年におこなった調査で松の葉とカキの貝殻からコバルト60とマンガン54が検出されています。


 たとえ微量でも、内部被曝と生物濃縮を考慮すれば、安全とは言えません。


 原発1基で1年間に広島原爆千個分の死の灰がつくられ、大事故では、その一部が環境に放出されます。チェルノブイリ事故から25年目の昨年、ウクライナ政府の「調査報告書 未来のための安全」は、子どもや大人の甲状腺ガン、慢性疾患、白内障、心臓・血管疾患などの多発と、子供たちの多数の健康悪化を報告しています。
 福島県では子どもたち4万2千人の43%に甲状腺異常が見つかっています。


 この大地が、放射能で汚染されていくことを、黙って見ていられません。もともと地球の生きものは40億年前、放射線から守られた海のなかで生まれました。そして、大気や磁場ができたことで上陸してたくさんの種が繁栄することができました。わたしたちの青い地球は、いのちと生態系を守るオアシスです。


 いのちと未来を守るために、まず私たちに一番近く、一番危険な浜岡原発を永久停止させる決断をする時です。国民のいのちを守るための、司法としての責任が果たされることを心から願って、私の陳述とします。」」



青い銀河とオレンジの花 断片資料 1 「青い地球」原稿 「青い地球」編集に復帰して 雨宮智彦 20201111

2020年11月11日 07時07分31秒 | 青い銀河とオレンジの花


青い銀河とオレンジの花 断片資料 1 「青い地球」原稿 「青い地球」編集に復帰して 雨宮智彦 20201111




 「青い銀河とオレンジの花 断片資料」は、「青い銀河とオレンジの花 断片」とともに自伝「青い銀河とオレンジの花」の破片です。


 あとで「断片」と「断片資料」を再構成すればボクの自伝になると思います。自分でそれができればいいのですが。


これは、2年前の2018年夏に浜松市平和委員会理事になり、浜松市平和委員会機関紙「青い地球」編集長として復帰、9月15日号「青い地球」に掲載した原稿です。


 以下、原稿です。




「「青い地球」編集に復帰して  雨宮智彦


 2年4ヶ月前、2016年5月の真夜中に脳出血で緊急入院しました。64才で右半身不随になり、いまも右手・右足はほとんで動きません。外出する時は車椅子です。


 残った左手で本を読み、食事をし、パソコンを打っています。妻の則子さんのアシストと介護でなんとか生きながらえています。


 退院した時は「要介護2」でしたが、1年後に「要支援1」に落とされました。介護行政の冷たさを身で味わいました。今年、介護度は「要介護1」になりましたが、身体の症状はほとんど変わりないのに、そんなに毎回介護度の評価がくるくる変わるのは何か決め方に欠陥があるのだと思います。


 頭と口と左手は幸いだいじょうぶだったようなので、今年の総会で「浜松市平和委員会理事」に選出してもらい、任務として「青い地球編集長」を申し出て受けました。


 もちろん取材・編集・印刷と、仲閒のみんなの協力抜きにはできない仕事です。ぜひあなたも原稿を書いてください。お願いします。





 「ニュー戦前」が急ピッチでボクたちの前に姿を表わしています。それも「改革」「平和」の旗じるしのもとに。 それに抵抗したたかうか、屈従しコントロールされ忖度し生きるか、無関心・無関係を装うか、逃げるか。


 私たちは、当たり前のことですが多数派ではありません。多数の人・中間の人・向こうがわの人・無関係の人をどう説得するか、ボクたちの側でよく考えてよく練った戦略・戦術が今求められているのではないでしょうか。


 ボクがあとどれくらい生きて、平和のために力を尽くせるのか誰にもわかりません。でもまだ自分の命あるかぎり則子さんや仲閒とともに、戦争や核兵器に抵抗しあらがい、平和を広げていきたい。」



青い銀河とオレンジの花 断片 11 映画「2001年宇宙の旅」を見に行く 20201028

2020年10月28日 21時54分08秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片 11 映画「2001年宇宙の旅」を見に行く 20201028 


 映画「2001年宇宙の旅」が公開されたのは1968年(昭和43年)のことだ。ボクが高校生の頃だった。17才頃だと思う。


 SF小説が好きで映画原作者が好きなアーサー・C・クラークだったので、初めてひとりで東京まで行って見た。


 日帰りで帰っても良かったが、東京にいた父の弟、菊男おじさん一家がいとこがいて幼い頃から親しかったので、田端の家に泊めてもらったのを覚えている。


 映画「2001年」の年、2001年はとうに過ぎ去ったが、技術進歩はクラークさんの楽観的予測よりかなり遅いようだ。


 いま手元に17cmのオリジナル・サウンド・トラックがある。その頃買った物だと思う。



 3つの音楽が入っている。冒頭シーンでのリヒヤルト・シュトラウス「ツァラトストラはかく語りき」、地球から宇宙ステーションへの細いロケットの飛行のシーンで流れるヨハン・シュトラウスの「美しぅ青きドナウ」。


 そして謎のモノリス(石柱)のシーンで流れる音楽、リゲッテイ作曲「ソプラノ、メゾ・ソプラノ、2つの混声合唱と管弦楽のためのレクイエム」が一番印象的だった。


 今でも、この3つの音楽が流れると映画の映像が脳内に出てきてしまう。


 映画「2001年宇宙の旅」のことは「本と映像の森」で書いた。以下、「本と映像の森 27 クラークさん他映画『2001年宇宙の旅』」の再掲。





「本と映像の森 27 クラークさん他映画『2001年宇宙の旅』
2010年04月07日 05時37分07秒 | 本と映像の森


 「本と映像の森13 A・C・クラークさん『2010年宇宙の旅』ハヤカワ文庫、早川書房」の続きです。


 クラークさんの『2010年宇宙の旅』を娘のIさんに「読む?」と聞いたら「読む」と言うので貸したら、「お父さん、この前編の「2001年宇宙の旅」というのを読まないと、わかりにくいので、ない?」と言われました。
 「本はどっかにあるけど(たぶん,押し入れの中かどこか)、てっとり早いのは、たぶん映画のDVDが出ているので、借りてきて観るのがいちばん早いと思う」と答えました。


 Iさんは、さっそく高林のゲオで映画「2001年宇宙の旅」を借りてきて見たようです。
 Iさんが言うには「セリフが少なくて、説明不足でわかりにくい!」と。
 それはまあ、1968年に映画が完成したときに、言われたことですけどね。


 「本と映像の森13」には書きませんでしたが、1968年の当時、浜松ではすぐ見れそうにないので、ぼくは当時、高校生でしたが、親に交通費をねだって(たぶん)、東京まで見に行って、たぶん東京の叔父さんの家に泊まったことを思い出しました。


 なぜ、わざわざ見に行ったかというと、当時、宇宙や天文学が大好きな「天文少年」だったので、たぶん、今も発行されている月刊雑誌『天文ガイド』か何かで見たのかもしれません。


 Iさんから借りて、何年ぶりでしょうか、41年ぶりではないと思いますが(たぶんどこかで、再視聴しています)、明日までにどうしても書かないといけない原稿を、パソコンの左半分で「一太郎」で打ちながら、右半分で「2001年宇宙の旅」をみました。
 
 やはり「映像詩」なんですね。人類が月へ実際に行ったのは、映画公開の翌年の1969年で、よくこれだけの映像を特撮でつくりあげたものだと思います。
  
 ここで論じるより「論より証拠」で、もし、この映画を見ていない「人類」の方がいたら、まず見て下さい。


 高校生の時に、この映画を見たので,あれ以来、ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しき青きドナウ」を聞くと、絶対に、頭のなかに、たくさんの星がまたたく宇宙に、白いすてきな宇宙船が、地球衛星軌道のステーションに接近して、ドッキングするシーンが浮かんでしまいます。


 監督は、スタンリー・キューブリックさんで、原作小説を書いたアーサー・C・クラークさんとは、もしかして異質の人間なのかな?クラークさんは、たいへんだったみたいですね。


 「2001年宇宙の旅」のラストシーンの印象的な、地球を宇宙空間から見下ろしている「スターチャイルド」(映画ではたぶん、モノリスに吸い込まれて宇宙旅行をさせられたデビッド・ボーマン船長の生まれ変わり)は、「2010年」では、影も形もありません。
 
 もう一つ、モノリスに吸い込まれたボーマンさんの幻想的な旅で、一度、「高速回路」から出たような印象のシーンで、球状星団のような映像の後に、絵の具を流したような幻想的な映像が出てきます。


 そのあと、惑星の上を高速で動くような映像の前です。


 これは、クラークさんの傑作「地球幼年期の終わり」に出てくるような、肉体をもった生命体が進化して、物質から解放された純粋の精神体を描いているのではないかと思います。「幼年期の終わり」を参照してください。


 同じような考え・表現が、マンガ「日本沈没」全15巻の最終部分に出てきます。


 それの現実性はともかく、ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムさん著『ソラリス』の映画化「そらりす」とともに、SF映画の代表作といっても異論は、わたしはありません。」





青い銀河とオレンジの花 断片 10 自伝の作り方 ① 文字と写真 20200905

2020年09月05日 19時58分54秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花 断片 10 自伝の作り方 ① 文字と写真 20200905


 「青い銀河とオレンジの花 断片」を書き出したあとで、こんな「自伝の作り方」を書くのは変という気もするが、しかたない。


 自伝というと、すぐ頭に浮かぶのは活字がぎっしり詰まった厚い本だと思うが、むかしから「文字ー映像」が同等だったボクの場合は自伝は、活字だけでは完結しない。


 やはり映像世界があってこそボクの自伝になると思う。


 20代から撮りためた写真がとってあるので、それを使って「青い銀河とオレンジの花」の世界を豊かにしていきたい。


 ただ写真プリントや写真ネガを選んでパソコンファイルにとりこむ作業がめんどうで時間がかかるのです。時間が尽きるまで、この作業は継続していきたい。



青い銀河とオレンジの花 断片 3 新町という今はない町

2020年07月29日 15時56分40秒 | 青い銀河とオレンジの花
青い銀河とオレンジの花 断片 3 新町という今はない町


 生後2ヶ月で父母兄とともに移住した浜松市新町(しんまち)には、ボクが小学校1年生の終わりまでいました。

 祖父のやっていた本屋「林泉書房」を父もいっしょにやりはじめました。このころは大家族でおばあちゃんはもちろんその母親「おおばあちゃん」や父の姉妹もいっしょに住む「大家族」でした。

 新町は東海道筋の西を板屋町、東を馬込川で区切られた商人町で、江戸時代には古文書に新町の名前が書かれています。

 うちは戦前、この新町の東海道北側の一角を借りて古書店をはじめ、戦後、こんどは南側を借りてバラックで商売を再建しました。

 今は「浜松市中央」というあたりです。浜松市が「消して」しまった「新町」は今ではバス停にしかその名前は残っていません。




青い銀河とオレンジの花 断片 1 生きるためのよびかけ  わたしたちから あなたたちへ 20200719

2020年07月19日 19時51分48秒 | 青い銀河とオレンジの花


青い銀河とオレンジの花 断片 1 生きるためのよびかけ  わたしたちから あなたたちへ 20200719


 自伝「青い銀河とオレンジの花」のための「断片」を書きとめていきます。これまでにアップしたものもありますが、すこしづつ書き足してゆくつもりです。

 どこまで行けるか、わかりませんが、歩けるかぎり歩いてゆきたいと思います。

 「生きるためのよびかけ  わたしたちから あなたたちへ」はボクが里山をやっていたころのものです。



生きるためのよびかけ  わたしたちから あなたたちへ

あなたは 初夏の木々の息吹きを 感じますか?
鳥たちの 甘いさえずりが 耳に 聞こえますか?
ほら トンボたちの 飛翔
聞こえる? カエルたちの ラブコール
暑い夏 そして秋の セミたちの 鳴き声
生き物たちの 必死の恋が あなたの心に 届きますか?

いつのまにか 春の小川は コンクリートの水路になり
まわりの 水田はつぶされ マンションと駐車場になり
遊び場だった 緑の森は ゴルフ場や産廃処分場になり
ぼくたちは 生命と地球から遮断され 分断され 
お互いの 共感もなくなって ばらばらの個人になって
自然からも はるかに 遠くなってしまい

もし あなたが 今 里山のホタルの小さな光を 愛するなら
里山に 咲いているササユリと 共感できるなら
湿地の草むらで ひっそりと飛んでいる モノサシトンボと ゆったりと会話できるなら

あなたの子どもたちや孫たちの命は 
この地球の今と 遠く未来に届くでしょう

もう ぼくもいない きみもいない 遠い 温かな未来
ぼくときみの 子孫や 
あなたたちの 子孫が
ぼくときみが歩いた川べりを ゆったりと 歩いている
ぼくときみが汗をにじませて手をとりあって見たホタルを 見ている

自然と生命と幸せが よみがえり 輝く緑の里山
笑い声
真剣な 論議
幸せな 会話
だいじょうぶだよ ぼくたちは 今を 生きているんだよ

今日も 谷間は 草の匂いの そよ風が吹いて
ミツバチが 花から花へ 花粉を集め
里の家の前を オニヤンマが 大気を切って飛翔していく
青い空を サシバが 横切っていく

夜 天球を ゆっくりと回っていく 白い星の光
闇の中を ガサゴソと動いていく イノシシの親子
森の中で 鳴いている フクロウ

そんな光景を いま 心の中に 見ながら
ぼくも きみも あなたも 
だいじょうぶだよ
いっしょに 生きようね
今のあなたで だいじょうだよ と呼びかけながら 
生きている
もっと もっと 生きていたい

 ( 2006/6/23up、2006/10/20 2009/9/21補正 )


自伝のための破片 13 林泉書房(松城町)の1

2020年03月29日 08時32分17秒 | 青い銀河とオレンジの花

自伝のための破片 13 林泉書房(松城町)の1 

 『全国古本屋地図』という本が手元にあります。全国の古本屋さんを地図を掲載して1つひとつの古書店を説明している本です。

 昭和52年10月15日第1版~昭和53年8月15日改定新版第2刷、164ページ、定価800円。

 この本の56ページに「林泉書房(松城町六四)は新本兼業、主人は老歌人であったが亡くなってしまって閉店してしまったのは惜しい。」と書いてあります。

 「林泉書房(松城町六四)」はぼくの家です。ここに「主人は老歌人」とあるのはぼくのおじいちゃん(祖父)で福男(とみお)のことです。

 おじいちゃんが亡くなったのは1974年(昭和49年)9月18日のことで86才でした。

 「昭和53年」には閉店していません。父とぼくの2人でやる新刊書店としてちゃんと存在していました。「亡くなってしまって閉店してしまった」とあるのは大間違いです。

 林泉書房が閉店になるのは、もっと先の10年後、昭和の終わりの頃のはなしになります。



雨宮家ノート 1 おじいちゃんの短歌メモを発見 20200204

2020年02月04日 12時42分53秒 | 青い銀河とオレンジの花
雨宮家ノート 1 おじいちゃんの短歌メモを発見 20200204

 ボクが「おじいちゃん」というのはボクの父親のことではありません。父の父、つまり祖父のことです。

 おじいちゃんは福男という名前で、「とみお」と読みます。福井県福井市で生まれたからでしょう。アララギ派の歌人でしたので、いつかおじいちゃんの短歌を紹介したいと思っています。

 いま父の部屋に介護ベッドを入れるため、父の部屋を則子さんが片付けていて、新聞の切り抜きや雑誌やいらない本を捨てる過程で、いちおうボクも目を通していました。

 新潮社『世界文学全集 39 カミュ 異邦人・ペスト・転落』という汚い本がありました。そういえばカミュってボクの手元にないなあと思ってなにげなしにとっておきました。そう思いつかなければ捨ててしまうところでした。

 数日後、なんの気なしにその本を開けると、本ではなくページが白い「文学全集」の講読予約者を集めるための「見本」本で、しかも前の方23ページにわたって1973年、昭和「四十八年十二月」から「四十九年八月」までおじいちゃんの短歌が書かれています。

 祖父は、昭和49年(1974年)9月18日に86才で亡くなっているので、最終の時期の短歌だと思います。

 読みにくいのだが、解読できたものはまたここで紹介したいです。




自伝のための破片 11 死者の思い出 Ⅲ

2020年01月14日 06時57分05秒 | 青い銀河とオレンジの花


自伝のための破片 11 死者の思い出 Ⅲ

 『零 ー サークル零 創刊号 ー』に書いた「詩のようなもの」のうち2つ目。ちなみに「Ⅰ」「Ⅱ」は書いてないと思う。

 あのころ瀬戸内海で油の流出事故とかがあったろうか。それともボクの妄想詩なのか。


 「死者の思い出 Ⅲ

        藤井智則

 けたたましい声でネコが鳴いたとおまえは言った
 海鳥たちは行ってしまった 海の底へ
 瀬戸内は冷い波が澱む
 ドックはヒューヒューと歌う 機械的に

 ナウマン象の牙のような細長い物体
 暗黒の水底を群は消えゆく 彼方へ
 瀬戸内を北西風が渡ってゆく
 コンビナートは煙を吐き出す 暗雲に

 けたたましい叫びで ネコが鳴いた
 いや あれはサイレンなのだ 船を岩礁へ引き寄せる
 白い巨大な空間の歪みから吹き出した油
 油を取り巻くテレビカメラと怒りのおまえのその眼
 一度死んだ死者がもう一度死ぬはずもない

 またおれはネコの声を聞いた
 ふりむくと茶色のネコが毛を震わせながら消えていった」

 


自伝のための破片 10 十一月の惑星詩 PARTⅠ

2020年01月13日 13時32分36秒 | 青い銀河とオレンジの花

自伝のための破片 10 十一月の惑星詩 PARTⅠ

 1975年春に浜松へ帰ってきた。1978年(昭和53年)5月に56ページの同人雑誌『零 ー サークル零 創刊号 ー』に詩のようなものを2つ書いた。

 これはその1編。「藤井智則」はボクの以前のペンネーム。

 下手な「詩のようなもの」だけど、当時の自分の気分は出ていると思う。

 ちなみに「十一月の惑星詩 PARTⅡ」以降は、ついに書かれませんでした。いま書いてもいいな。


「十一月の惑星詩 PARTⅠ

藤 井 智 則
生誕は腐食の都市
半透明な耐熱ガラスのビル街で
 ぼくたちは育った
空ははるかに灰青色に
治平から治平へ飛行体がよぎる

  湖面に 陽の影は長く
  波間を秋が去っていく

沼地の泥に沿って歩いていくと
赤茶けた岸にギラつく陽ざし
ほおをくすぐる風だけがさわやかで
地蜂がうなりをあげていた時間
沼蛙たちが合唱している

  ビル街の窓から女たちが手をふっていた
午後 人々が路上を埋めつくした

ポプラのつったった夕ぐれ
枝のざわめきがぼくたちの口にのぼる
苦悩の六十年代からまだ近く
ゆきかう男はふりっむきもしないで
花屋のバラは血をしたたらせる」


自伝のための破片 9 1973年1月の手帳の断片

2020年01月11日 14時24分10秒 | 青い銀河とオレンジの花

自伝のための破片 9 1973年1月の手帳の断片

 「自伝のための破片 8 詩「ボール・ペンへのオード 19721126」」と同じページにはさまっていた手帳の断片。

 その裏が「能率手帳 1973 昭和48年」とあるからボクの大学2年生の手帳の1月の「月間予定表」の前半分だけが残っている。

「3日 水 同窓会
 5日 金 小寒
 8日 月 授業開始
10日 水 代議員会.SK
12日 金 ZGR講演会」

 注) 代議員会=学生自治会の代議員会
    SK=党支部会議
    ZGR=全学連

 


自伝のための破片 8 詩「ボール・ペンへのオード 19721126」

2020年01月10日 15時54分53秒 | 青い銀河とオレンジの花


自伝のための破片 8 詩「ボール・ペンへのオード 19721126」


 むかしの本のあいだから40数年ぶるにメモが出てきた。20才のころ書いた詩のようなもの。

 たぶん心が膿んでいたころに書いたものだろうと思います。


「ボール・ペンへのオード 19721124 NOV.26修正

 青いボール・ペン
 紙の上に
 流れ出る思想の時間

 ペン先がとまる
 脳の電子が
 流れぬ思想の時間

 対話によって
 自己の思想を
 世界の上にとどめる 人間

 青いボールペンによって
 ぼくの思想は
 紙の上に とどまる

 ああ また ぼくは ボール・ペンをなくした
 ある秋の日の夜のこと」

 


時間の針の闇の自伝の断片 1 ペンネーム 20190930

2019年10月01日 11時36分23秒 | 青い銀河とオレンジの花


時間の針の闇の自伝の断片 1 ペンネーム 20190930

 自伝「青い地球とオレンジの花」を書く前に、準備作業があって、それをこの「時間の針の闇の自伝の断片」でしていくことにする。

 このタイトルは、むかし評論かなにかで見たソ連のSF小説のタイトル、たぶん「時間の針の闇の破片」だと記憶しているのだが。ストルガツキー兄弟だと思ったけど、ウィキペディア「ストルガツキー兄弟」には出ていない。

 今は不明ということで開始します。


 最初に使ったペンネームは「宮沢信二」。名古屋の生協で働いていたとき労組のニュース(1976年1月1日発行、創刊号)に大好きなフランスの詩人ルイ・アラゴンのことを書かせてもらった。

 もちろん宮沢賢治さんから借りて「治」をボクは次男なので「二」に変えた。ボクの本名から「信」だけを入れた。

 浜松へ帰ってきて、若い同世代の仲閒で同人雑誌を出そうということになり、『零 創刊号』という薄い雑誌をつくった。

 ボクも『零』に「藤井智則」という名前で詩と評論を書いた。1978年(昭和53年)5月5日発行となっている。

 翌年2月に結婚することになるボクは、彼女の名前を借りて字を「伊藤」から「藤井」へ変え、「則子」の子を取り「智」を入れた。彼女の許可を取ったかどうかは記憶にない。

 藤井智則名で詩「十一月の惑星詩」と「死者の思い出Ⅲ(瀬戸内)」、評論「萩尾望都ノート序説」を書いた。

 それからちょっと時間が空くが、いまの「雨宮智彦のブログ」を使ってブログを始めたのは10年前、2009年11月なので「雨宮智彦」は、そのころからだと思う。

 本来は、最初「天宮智彦」だった。古代や遺跡や神社好きのボクが、静岡県森町にある「天宮神社」からとったのだが、よく考えたら天宮神社はウィキペディアにも載っている古い神社です。

 「天の宮」なんて名前は恐れ多いし、祟りもこわい。

 それで「天の宮」はやめて同じ発音の「雨の宮」にした。いまでは本名よりも、この「雨宮智彦」の方が自分の名前としてしっくりくる。自分でつけた名前だしね。

 これから平和運動でもぜんぶ「雨宮智彦」で通そうかな。

 

 t追加 < 参考「雨宮日記」から >

 「天宮智彦」で検索してみたら、2010年7月11日の「雨宮日記」に書いてありましたので引用します。


 「雨宮日記 7月11日(日) 「雨宮日記のルーツ」は雨宮修平
2010年07月13日 05時58分27秒 | 雨宮日誌

 「なんで、お父さんは、古代史なんかやってるの?」と娘に言われたので、書きます。

 元々、20代のころから古代史に興味はあったのですが、深める余裕がなく、「雨宮ブログ」の前身である「遠江と日本 古代史の森」というHPを2005年1月から書き始めました。
 このときの著者名は「天宮智彦」です。
 このHPは書き続けることができず、短期間で凍結し、いまも凍結状態です。

 この表紙にこう書きました。

 「日本とわが故郷・遠江(遠州・静岡県西部・浜松市の古代史)はおもしろいです。

 「三国志」の「倭人伝」、「日本書紀」「古事記」「風土記」をどう読み取るか。
 銅鐸・銅剣・銅矛・曲玉・古墳など物証をどう理解するか。
 卑弥呼・倭の五王・天皇家などの人物像をどう考えるか。

 そして遠州の古代史には銅鐸をはじめとして、いろんな謎があります。

 静岡県浜松市の1市民として、歴史の事実と真実を考えていきたいと思います。
 更新不定期です

 (天宮智彦)」

 「天宮」は、遠江・森町にある「天宮神社」からも来ていますが、むしろ天皇家の祖先である「天族」からも由来しています。
 そこで、「雨宮ブログ」を始めるときに、「天」+「宮」では、あまりに罰当たりかなと思って、「雨宮」にしました。
 この時には、一色まことさんのピアノマンガ『ピアノの森』を読み始めていて、2人の主人公、一ノ瀬海(かい)と雨宮修平を知っていましたので、ピアノの天才・海と違って、優等生で全力で努力して悩む主人公・雨宮修平に共感して、最終的に「雨宮智彦のブログ」として始めたように思います。
 
 週刊「モーニング」に隔週連載の「ピアノの森」ではワルシャワでのしょぱんコンクールの最終予選で、12人の最終枠に入れなかった雨宮修平が衝撃を受けた場面で、今週号が終わりました。
 うわあ、雨宮、がんばれ。死ぬなよ!」

 


自伝のための断片 6 絵① 風景

2019年05月15日 16時25分11秒 | 青い銀河とオレンジの花

自伝のための断片 6 絵① 風景

 小さいころから絵を書くのは好きだった。20代の写真すきから、今のビデオワークに至る映像(右半球)好きのがはじめが絵ではなかったか。

 もちろん文字(左半球)がボクの主戦場ですが。

 これは「赤いスケッチブック」から、「1971年11月3日」。つまり20才のときということになる。

 鉛筆書き。たぶん浜松へ帰って、自宅のそばの松城の教会ではないかと思う。