雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

宇宙 2 銀河系には生命発生の可能性ある惑星がいっぱい!

2012年04月01日 22時33分04秒 | 人間・生命・宇宙
宇宙 2 銀河系には生命発生の可能性ある惑星がいっぱい!

 3月30日付けのニュースで、ヨーロッパ南天文台(つまり南米アンデス山脈の山頂にある)の惑星専用望遠鏡で、地球近辺の102個の赤色矮星を観測して、その周囲に地球の質量の1~10倍の惑星10個を発見しました。

 そのうち2個は水が液体として存在できる「生命発生可能な」位置(HZ)にあると発表されました。

 赤色矮星は、銀河系の恒星の数の80%を占めていて、推定で1600億星、ヨーロッパ南天文台は銀河系には数百億個の「生命が生存可能な惑星」がある、と推定している。

 素敵な研究ですね。
 
 でも、だとすると「宇宙文明」はどうして地球に来ないのか?

 可能な回答は、こうでしょうか「宇宙文明は発生してもほとんどすぐ自滅してしまい、長続きしない。人類と同じように」

 ☆写真は、大雨でマイカー(スズキ・アルト)の窓ガラスにくっついた枯れ葉です。もちろん、枯れ葉は、生命の生きていた痕跡です。
 


人間・心・集団の学習8 自分と他人、自立と他律(つながり)

2010年10月07日 05時31分35秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習8 自分と他人、自立と他律(つながり)

 自己と他己、自分と他人、同じ人間(という生物種)で「個体」としては違う他人。
 そういう関係を考えていきたいと思います。

 すみません。未完で、続きます。
 今日の行事の準備をして体調を整えているため書ききれません。

 (10月8日の追加)

 人間を自者の人格としてとらえると、自己決定論あるいは「自己責任論」にもなりますが、他方では、人間関係論・つながりでとらえることもできます。
 このどちらかに偏るのではなく、この両者の統合として人間はあるのだと思います。

 たとえば「人間性は個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてそれは社会的諸関係の総体である」(マルクス「フォイエルバッハについての第6テーゼ」)。

 これは部分的真実であると思います。これが全面的分析であると見誤ると、人間を社会的関係のあやつり人形にしてしまうのではないでしょうか。
 たとえば1人の人間は、「資本家」あるいは「自営農民」あるいは「労働者」という階級的カテゴリーだけでとらえるのは狭すぎると思います。
 そこには、その人間個人が、1人ひとりが「人間性」をもち「人格」であるという、自立した自己性が無視されています。
 そういう意味で、人間を全面的に見る習慣をつけないといけないと思います。

 写真は自分の注文したアイスコーヒーと、他人の注文したマンゴウアイス(だっと思う…)。

 (10月9日(土)朝、追加)

 もちろん「自立」していればいいということでもなくて「孤立」している場合もあるし、その自我が「お山の大将」であることもあります。
 「つながり」「人間関係」があればいいということでもないですね。そのつながり・関係は、フラット(水平)な、平等な関係でないと、どんどん人格にゆがみを生じてくると思います。
 そうか、もしフラットな人間関係でもそのつながりの先の相手の人格が歪んでいれば、そのゆがみをもろに受けてしまうと言うことですね。
 いろいろな場合について考えないと、いけないですね。
 
 それと、個人と個人のつながりではなく、集団全体の民主的性格が問題になるでしょうか。
 今日は、ここまでにしておきます。


 

 

人間・心・集団の学習7 「仲間」の概念について

2010年08月31日 05時03分31秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習7 「仲間」の概念について


 5月25日の「人間・心・集団の学習6 魂・人格の幸せとくらし・生活の幸せ」以来、3ヶ月ぶりのコーナーです。「雨宮日記」で書いてきた内容もありますが、すこしこのコーナーを開きます。

 「仲間」とは通常、同じ組織・同じ集団の構成員ということになりますか。「同じ仲間だろ?」という場合です。

 ぼくは自分の痛切な経験から、同じ組織の構成員=仲間という等式を否定したいと思います。
 つまり組織内で意見が違って論争をしているのに、「同じ仲間でなぜ仲良くできないのか」と公然と言われました。
 「仲良くする」ということと「論争する」ということは、ぼくは両立できると思うのですが、「ああ、仲良くすると言うことは論争しないで黙ってしまうと解釈する人がいるんだ!」とわかって、びっくりしました。

 じゃあ、誰が仲間か。
 ぼくにとっての「仲間」は、ぼくが決める範囲です。
 ですから、人によって、個人によって「仲間」の範囲は大きく違います。
 つまり、自己決定権ということです。

 ぼくにとってAさんが仲間でも、Aさんにとってはぼくは仲間ではない場合もあるでしょう。
 Aさんにとってぼくが仲間でも、ぼくにとってAさんは仲間ではない場合もあると思います。

 たぶんぼくの「仲間」の範囲は、他人より狭いだろうなと思います。
 つまり「厳選した」仲間です。
 
 ぼくにとって妻のN子さんは「旅の仲間」なのですが、もしN子さんにとってぼくが「旅の仲間」ではなかったら…怖いですね。
 
 すごく複雑な世界になりますが、「仲間」と「非仲間」という、黒か白かの単純バカの世界よりは住みやすいと思いますが、どうでしょうか。
 これもいろんな色調のスペクトルです。
 濃淡のない世界には、ぼくは住みたくありません。

 そういう意味では、もっと話を進めて、「仲間」か「非仲間」かというより「仲間度」30%とか、70%とか、そういうほうがいいかもしれませんね。
 もちろん、質的なものを量的な指標で図ろうというのは、無理な冗談です。

 

哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」

2010年06月23日 05時42分53秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」

 前回「哲学の学習17」で「狭い意味の平和」と「広い意味の平和」を考えましたが、それに関連して、「幸福」について考えます。

 「幸福」論は、たぶんいっぱいあって、まともに読んだことはないのですが、一つは、くらしが豊かで、戦争もなく命が安全であれば「幸せ」であるという、ある意味、物質的な幸福論と、いや「物よりも心だ」、「心の幸せ」さえあれば、物はいらないんだという2つの理論が対立して遊離しているように思います。
 
 私が思うのは、まず基礎(ベース)にあるのは、「いのちとくらし」、つまり一人ひとりの身体と命とくらしという物の一定の安定という「物の幸福」、それが基本ではないでしょうか。
 
 ただし、その「物(身体と命と暮らし)の幸福」は、
 ① 物の最大限の追求が目標ではなくて、その人の最小限の必要の内であること
 ② 「物の幸福」の上に成り立つ「魂と心の幸福」とバランスのとれていること、が必要であるということでしょうか。

 「魂と心の幸福」は、2つの側面があって、一つは、自分の最深の心の奥の魂が自分で決めて生きていること、もう一つは、その魂と心が、他のたくさんの魂との台頭平等の交流・つながりで生きているかどうか、です。
 
 そういう微妙なバランスを崩してしまうと、人間って歪んでしまって、他人を支配しようとしたり、他人や社会や自然を犠牲にしても最大限の自己の追求をしてしまうのではないでしょうか。

 大事なのは「均衡」だと、『ゲド戦記』でも言っていましたね。

 でも『ゲド戦記』では「すべてが変わるのだ」と(オジオンが)言っていますから、どっちなんだ?!ということにもなりますが、ぼくは「両方」だと思います。
 答えになっていませんが、直感では、ということです。

 いまの結論としては、ほんとうの幸福は、他人や、社会的条件に左右されないのではないでしょうか。

 19世紀の科学者にして革命家のカール・マルクスさんは、「超貧乏」でした。なにしろ、貧乏すぎて死んだ息子の棺桶の板を買うお金すらなかったそうです。
 「マルクス・エンゲルス全集」の書簡集を読むと、親友のエンゲルスさんに「金おくれ」の手紙がたくさんあります。
 では、マルクスさんの人生は貧困にまみれて不幸だったのか?
 そんなことは、言えませんよね。
 
 つまり、貧乏(収入)と幸福は比例しません。
 我が家も貧乏ですが、幸福です(というと怒る人がいると思います。いわく「革命的精神を忘れたのか」「革命なしに幸福はない」)。
 
 そういう方には、物の幸福と、心の幸福というバランスをどう取るのか、それが崩れると、どうなるのか、よく考えていただきたいと思います。
 
 物の幸福を否定せずに、心の幸福も尊重していきたいと思います。

 これは理論ではありません。
 いろんな文化・芸術を、みなさん、感じて、自分で考えてください。

 他の「幸福論」をもし読んだら、再論します。

哲学の学習17 「平和とは」戦争のない状態か

2010年06月22日 00時22分03秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習17 「平和とは」戦争のない状態か

 つい数日前、ある会で「平和とは」という話を提起したので、その話を書きます。
 「平和とは」というと、ふつう「戦争のない状態」という定義になると思います。これを「狭い意味での平和」と呼びます。
 この場合、戦争の反対語は平和で、平和の反対語は戦争です。

 これにたいして、「広い意味での平和」概念が提唱されています。
 この場合「平和」というためには、戦争がないだけではなく、人権が保障されていない社会は平和ではない、支配と従属がある社会は平和ではない、ハラスメントやいじめや暴力がある社会は平和ではない…自殺が多い社会は平和ではない。
 さいきん、ガルドゥングさんが提唱し、日本では安斉育郎さんなどが賛同している説です。
 わたしも、「平和」という時には広い意味での平和概念でとらえ、「戦争がない状態」のことを「狭い意味での平和」として考えたいと思います。
 これからの平和を願う運動は、社会のゆがみ・差別・貧困などをリアルにとらえ、人間と人間との関係、団体と団体の関係を正しいものに是正していく課題にも取り組まないと「戦争のない平和」でさえ来ないと思うようになりました。

 たとえば「核兵器は抑止力」としてとらえ「核兵器と生きる平和」を主唱する人々がいますが、このような「戦争はないが核兵器は存在する平和」は、限りなく戦争に傾斜した、いつわりの平和であって、ほんとうの「平和」ではないと思います。

 

哲学の学習16 相補物・対象性と対話・対位法について

2010年06月17日 05時20分36秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習16 相補物・対象性と対話・対位法について

 久しぶりに「哲学の学習」というタイトルで書きます。前に、今年1月28日付けで「哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一」を書きました。

 そこではこう書きました。

 「同化と異化が「対立物の統一」「矛盾」であるというのは。どうなのでしょうか。生命における物質代謝の両側面である、同化と異化は、なんら対立しているわけではなくて、お互いに相互に支えあっているのではないでしょうか。環境の安定なしには、恐竜類や裸子植物の大繁栄もなかったのではないでしょうか。」

 つまり、同化と異化にしろ、プラスとマイナス、左と右、原子核と電子、男と女、漫才のぼけとつっこみ、すべて、相補性と対称性によって安定し、成り立っています。

 つまり、対立する2つの側面によって、まったく別の物に変化して行くという、「科学的社会主義」の陣営の「弁証法」についての理論は、検討する余地があるのではないでしょうか。
 最低限、事実と道理によって証明されていないことは書かないのが、科学的態度であると考えます。

 同じことを、音楽の場合に考えました。
 たとえば、ピアノの右手と左手の調和と非調和。
 あるいは、ヴァイオリンソナタでの、ヴァイオリニストとピアニスト。
 あるいは、ピアノ協奏曲での、ピアノとオーケストラ。

 音楽では「対位法」というテクニックがあって、「複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和させて重ね合わせる技法」です。
 
 このことを追求していくと、いろいろおもしろそうですが、今日は深入りせずに、ここまでにします。

 ショパンの「テンポ・ルパート」という指示は、ピアニストの仲道郁代さんの解釈では、左手は、正確に指揮をして、右手は自由に揺らいで、ぶれて、という左手と右手の「自由な対話」を意味しているようです。

 ただし、それも左手の正確なタッチがあってのことで、「のだめカンタービレ」で、のだめの自由奔放な演奏を、千秋の正確なタッチが指揮しているのや、「ピアノの森」の大分コンクールで、一ノ瀬海の自由な演奏を、指揮者のセローが正確に指揮してコントロールしているからでしょうか。

 ぼく・雨宮とN子さんの夫婦漫才コンビの関係でいうと、どっちが自由奔放に「テンポ・ルパート」して、どっちが正確にコントロールしているかは…(これは、いま気がついた書けど、世界を揺るがす大問題なので、しばらく熟考してから「雨宮日記」か「哲学の学習」かに、書きます)。

 夫婦の問題が「哲学の問題」なんて、今まで誰も考えたことがないんでしょうか?もし指摘している方がいたら、教えてください。
 ぼくは、夫婦の問題は、哲学や科学の大問題だと思います。


 
 
 

人間・心・集団の学習8 魂・人格の幸せとくらし・生活の幸せ

2010年05月25日 05時49分13秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習8 魂・人格の幸せとくらし・生活の幸せ

 「幸せ」という時に、2種類の「幸せ」「幸福」があるのではないかと、思いました。
 以下、それについての考察です。

 ひとつは、当然、くらしや労働や家庭がふつうに維持できる「幸せ」です。この「幸せ」は、物質的な、他人との「協同」「たたかい」「連帯」によって、よりよくしていくことができます。

 ところが、もう1種類の「幸せ」は、物質的な・社会的関係的なものでもなく、心の・精神的なものでもなく、人間の中枢である「魂」「人格」に関係していて、これは自分自身や親しい「旅の仲間」との関係でだけ、考えられます。

 この「魂・人格の幸せ」は、「くらしの幸せ」と平行して、どちらも追求されないと、人間って、いびつに歪んでいくと思います。

 ただし、この「魂・人格」は、発達したりしないと思います。ただ、幼い頃からの「魂・人格・霊性」が、汚染されたり,歪んだりしないように、つねに「魂・人格」を磨かないといけないと思います。

 宮沢賢治さんの童話『ホモイの火』を読んでください。

人間・心・集団の学習7 民主的運営と個人的・専制的運営

2010年05月12日 06時58分41秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習7 民主的運営と個人的・専制的運営

 組織・集団の運営と決定はどうあるべきか、ここ数年、雨宮は信頼できる仲間(妻のN子さんを含みます)とともに、いろいろ悩み、追求してきました。

 解決してスッキリ運営している組織・団体もあるし、解決できずに、そこで包囲されて孤軍奮闘でのたれ死にするのもいやなので、雨宮夫妻としてはそこは見捨てた組織もあります。

 「民主団体」「民主的運営」といえるのは、2種類しかないと思います。
 
 一つの道は、満場一致制を原則にして、参加者全員で納得のいくまで、とことん、話し合って、議案を修正していくことです。


 二つめの道は,満場一致制を目標にしつつも、どうしても一致しないときには、参加者全員の投票で、多数決決定をすることです。
 
 この2つ以外に、民主組織・民主的運営はないと思います。

 戦国時代を扱った小説、たとえば、宮城谷昌光さんの小説『風は山河より』『新三河物語』を読むと、戦国時代の武将たちは、部下を集めて、まず存分に部下たちの意向を言わせて、その上で、自分が全責任を負って決めるのだと、書いてありました。
 
 もちろん、それは、民主的運営・民主的組織ではありません。ありえません。

 民主的運営とは、とにかく定期的に会議を開いて、そこで決めていることだと、考える人がいるなら、それは大きな誤解だと思います。

 民主主義を、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・上杉景勝の水準に下ろしてはいけないと思います。

 民主的か、非民主的か、の分かれ道は、満場一致制か多数決制のどちらかを採用しているか、それとも声の大きい人や責任者の判断だけで決めているかどうか、だと思います。
 
 もしみなさんが参加している会議が、みんなに総意を図らずに、責任者だけの大きな声で決めるのなら、それは、400年前の戦国時代の水準だということだと思います。
 (反論・批判、受け付けます)

 

人間・心・集団の学習6 構造論「人格・心・インターフェイス」

2010年05月05日 05時10分11秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習6 構造論「人格・心・インターフェイス」

 いろいろ考えた末に、人間の構造を「人格+能力」で考える構造論を修正します。

 安冨歩さんと本條晴一郎さんの共著『ハラスメントは連鎖する』光文社新書(「本と映像の森31」で一部のさわりを紹介)では、生まれたばかりの赤ちゃんは「人格=魂」としてとらえ、その後の学習によって、魂のまわりにインターフェイス(仲立ち)が発達し「人格=魂+インターフェイス」となるとの説でした。

 最近、思い始めたのは、これだと人間の「意識」「心」はどこにあるのだろうか、揺らぎ、悩む心、表面意識は、個々の人間の「魂」「人格」とはすこし違うのではないか、というのが出発点です。

 そこで、やはり、人間の中心になる「魂=人格」と、自然環境や他人とのコミュニケーションの装置である「インターフェイス」の間に、もう一つ、1段階入れないと、リアルではないと思うようになりました。
 
 つまり、人間精神(「精神」という概念でいいかどうかわかりませんが)を、
 ① 中心の、決定権のある司令塔としての人格(魂・霊性)+
 ② ①と③をいったりきたりして、悩み苦しむ表面的意識・心+
 ③ 外界(自然と人間)を仲立ちするインターフェイス
  ③A 受信能力(第1次信号系も言語=第2次信号系も)
  ③B 発信や労働能力
 以上、3つの重なったもの、と、とらえたいと思います。

 みなさん、どうでしょうか?

 

人間・心・集団の学習5 何が正しいかは魂(人格)が判断する

2010年04月29日 05時51分39秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習5 何が正しいかは魂(人格)が判断する

 うわ!「何が正しいかは魂(人格)が判断する」とタイトルで書いてしまいました。
 どうしよう。

 「何が正しいかは、組織で判断するんだ!個人で判断するのは個人主義だ!」と怒る人、
 「魂だ、人格だなんて、おまえは観念論者か!」と詰問する人、
 「小さな子どもは親が導くし、何も知らない大衆は○○○が導くんだ!」と断言する人。
 そういう人に、どう説明しましょうか。

 人格=魂というのは雨宮理論ですが、そもそも、人格の絶対性は、科学的社会主義の始祖のマルクスさんとエンゲルスさんの基本概念なのを知らない人がいるのは困りますね。 
 知らないのは自由ですけど、知らないのは証拠にはなりません。

 で、4月24日付け「本と映像の森31 安冨歩・本條『ハラスメントは連鎖する』」で書きました。再録します。
 
 「私の理解した範囲でまとめると、ハラスメントとは、
 ① Aという個人が他人に、「これをしろ」あるいは「これをするな」と押しつけ・強要・強制をすること。
 ② ①のことは、AがBに、教育として・助言として・先輩として・親としておこなう善意の行為だから、拒否するな、拒否するならAがBを罰するというさらなる押しつけ。
 ③ ①や②を拒否するBに、受け入れるまで①②を押しつける強制、さらに暴力(言論も含め)をふるうこと。
 つまり、たんなるいじめ・暴力ではなくて、「これはおまえを愛するがゆえの」とか「上司としての指導・教育だ」とか、入ってくるんですね。」

 民主主義の本質は、何が正しいか、一人ひとり、内面の基準で決めていいよということだと思います。

 それを否定して、他人の基準・集団の基準・社会の基準で「決めなさい」ということを押しつける・強要するということが、ハラスメントの本質であるということです。

 ボクは、みんなに「だいじょうぶだよ、他人に聞かずに、自分で決めていいんだよ」と言い続けたいと思います。

 妻のN子さんが決断して○○○するときも、保母をやめるときも、いつも「自分で決めたらいいよ」と言ってきました。

 子どもたちにも同じです。次女のIさんが「非登校」「退学」を決断するときも、長女のTさんがなかなか仕事が見つからないときも、「ボクはきみじゃないから、きみの代わりに決断はできないよ。決めるのはきみ自身だよ」と。

 もちろん、みんなのことはみんなで決めましょう。
 雨宮家の全体のことは、雨宮家の全体で決めます。

 そういう基本原則をはっきりさせながら、支配・押しつけ・強要・従属・いいなり・共依存・固定化・孤立化・いじめ・暴力・ハラスメントなどがない集団・社会を創りたいです。

 この項は、さらに思考中。


 

人間・心・集団の学習4 人間性と人格と労働・交通能力

2010年04月03日 16時54分56秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団の学習湯4 人間性と人格と労働・交通能力

 「人間・心・集団の学習」の続きです。
 「3」で森繁久弥さんが人間を「芸+人」でとらえるようになった話を書きました。
 
 人間の中核、人間性の中心には人格(パーソナリティ)があると思うのですが、それが森繁さんのいう「人」です。
 森繁さんのいう「芸」は人間が母親の体内で誕生(精子と卵子の結合)してから、身につけて習得していく能力をさします。
 もちろん生まれながらの能力もあると思います。

 この能力は、通常、大人では「労働力(労働能力)」として扱われ、いま地球上で生きている人間の大人の多くは、この労働力を月きめ、日ぎめで契約して会社に雇われて支払われた給料で商品を買って生きています。
 そうでない、自分で生産した農産物で生きている人もいますし、自分で生産した商品を売っていきてく自営業種もいます。
 
 問題は、この労働力と人格との関係です。
 たとえば、芝田進午さん著『人間性と人格の理論』(青木書店、1961年、1990年第39刷)では、こう書かれています。

「この人間性の具体的現実存在、すなわちこれらの諸能力のにない手が,本来の「人格」(パーソナリティ)にほかならない。マルクスはいう。
 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」」(第6章 人間性と人格の形成、129ページ)

 そこから芝田さんは、「人格、あるいは労働能力」と、人格と労働能力を同一視します。
しかし、これはマルクスさんの労働力の定義の読み誤りではないでしょうか。

 マルクスさんは「労働力」が「人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存」すると言っているのであって、労働力は人格のことであると言っているのではありません。

 たとえばマルクスさんは同じ『資本論』のもっと前の「第1章 商品」で、こう書いています。
 「たとえば、1クォータ-の小麦=aツェントナーの鉄」「この等式はなにを意味するか?同じ大きさの1つの共通物が二つの異なった物のなかに、すなわち1クォータ-の小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,実存するということである」(Ⅰa、63ページ、原書51ページ)。
 つまり、マルクスさんは小麦と鉄「のなかに」、小麦や鉄とは異なった別のものが「実存する」と述べています。
 すこしあとで、それは「価値ー商品価値」であると述べています。
 
 もう一度,マルクスさんの文章を読みます。
 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」
 つまり「労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存し」ている。
 マルクスさんが労働力は人格ではないと述べていることは明白であると思います。
 ただし、「生きた人格」という用語は、単純に「人格」そのものではないようにも思います。また学習します。

 労働力は人格ではないということは、マルクスさんが労働者は労働力を限定的に契約で売るのであり、自分を丸ごと売るのではないという意味を『資本論』でも述べていることでも明らかであると思います。
 
 私は人間を2つの部分に分け、人格(魂)と能力は別のもので、人格が人間の司令塔・判断能力をつかさどる重要部分であると思います。


資本論の学習7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」

2010年03月25日 04時46分18秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」

 1ページを何回も「学習」する、カタツムリのような遅い歩みですみません。

 カタツムリで思い出して,脱線しますが、最近、デンデンムシムシカタツムリを見なくなっていませんか?これは、大気汚染による酸性雨の影響で、カルシウムの殻をもつカタツムリが減っているのではないかという記事を数年前に見ました。
 ほんとうにそうかもしれません。

 子どもたちが「でんでんむし、むし、かたつむり、おまえの頭はどこにある」という歌を知らないなら、さびしい日本列島だなと思います。

 前回、引用した原文です。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 この続きで、マルクスさんは、こう書いています。

 「これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積(たいせき)されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 第1点は、注意深く読むと、新日本新書版は「もの」と「物」を訳し分けています。このことは「表わす」と「現わす」も同じだと思います。

 第2点は、マルクスさんは、価値とは、抽象的人間労働の直接の結晶であるとはしていないことです。
 抽象的人間労働の「それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 このことの意味は、また後で述べたいと思いますが、マルクスさんは、そう言っているということを確認して、この項目を終えます。



資本論の学習6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 

2010年03月25日 04時22分13秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 

 前々回の「資本論の学習4」で以下の文章を引用しました。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(新日本新書①p64、原書p52)

 その続きの学習です。

 マルクスさんは、こう言います。
 「それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的形状はすべて消し去られている。」

 そして、労働による生産物の具体的形状が消し去られたということは、その元の「労働の有用的性格も消え失せ」る、と。

 マルクスさんは、このような「労働のさまざまな具体的形態も消え失せ、これらの労働は、もはやお互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働」に「還元され」と分析し、このような労働をここで「抽象的人間労働」と定義しています。

 この問題は、次の節「第1章第2節 商品に表わされる労働の二重性」で詳しく分析されるので、ここではこれまでにしておきます。

 ただ1点だけ、次のパラグラフを考えます。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 問題は「まぼろしのような対象性」という用語です。
 「対象性」は、文章で明らかなように「凝固体」と同じ意味だと同じだと思います。
 
 つまり、具体的有用労働は、使用価値という、目に見える「まぼろしのよう」ではない対象性に「凝固」するのですが、具体性を抽象した抽象的人間労働は、その使用価値の中の価値という「まぼろしのような対象性」「凝固体」になるのだと思います。

 図式としては,以下のようになります。
 
 ① 具体的有用労働 → 凝固 → 目に見える使用価値
 ② 抽象的人間労働 → 凝固 → まぼろしのような対象性

 こういうことかな?

 

哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包

2010年03月23日 04時14分13秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包

 遠山啓さんの本の続きです。

 遠山さんは、量を、まず分離量と連続量に分けます。
 そして連続量を、外延量と内包量に分けます。

 「物体もしくは物質に対するもっとも基本的な操作は合併である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水をあわせて1つにするような操作が、この合併という操作である。
 この合併に対して加法的なのが外延量であり、そうでないのが内包量である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水の体積がそれぞれ3リットルと5リットルだとすれば、あわせた水の体積は3リットル+5リットル=8リットルになる」
 「体積・重さ・値段などは問題なく加法的である。」(p107)
 
 「これに対して、合併が加法を意味しないような量も存在する。密度・濃度・温度・速度・単価などがそうである。20度の水と30度の水をあわせてかきまぜても50度にはならないで、20度と30度とのあいだのある値をとるだろう。つまり合併から加法がでてこないのである。」(p107~108)

 「べつのいい方でいえば外延量は“大きさ”もしくは“広がり”の量であり、内包量は“強さ”の量である」(p108)
 
 遠山さんは言います「このような内包量をくらべるのには計算という手段を必要とせず、感覚の助けによって判定することができる」

 つまり「熱い」「冷たい」「暑い」「涼しい」などの感覚で判定することができるということです。
 これは量?質?
 どっちなんでしょうか。

資本論の学習5 「実存する」とは何でしょうか?

2010年03月20日 04時15分49秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習5 「実存する」とは何でしょうか?

 前回第4回に『資本論』第1章第1節から以下のような引用をしました。ページは新日本新書版第1巻です。
 
 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。」
 「したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)
 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。

 ここで問題なのは「実存する」というマルクスさんの表現です。
 ドイツ語原文では「existireren」で、その直前の「交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかない。」(p62)という「現象形態(Ersheinungsform)」とは明らかに用語が異なっています。

 マルクスさんの用語が異なっていれば、概念も違うというのが特別の理由がない限りは妥当な話だと思います。

 脱線して考えると、たぶん、ここでいう「実存」はフランスのサルトルさんの「実存主義」とは何の関係もないと思います。
 もし関係があったら、ごめんなさい。

 第4回では省略した文章はこうです。

 「両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第3のものに還元されうるものでなければならない。簡単な幾何学上の1例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現ー 底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の交換価値もある共通物に還元されて」(p63)

 つまり、「二つの異なった物のなかに」「実存する」「同じ大きさの1つの共通物」は「その目に見える形【交換価値】とはまったく異なる表現に還元され」ます。

 あとの第3章第1節では、こう述べられています。
 「鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに実存する」(p162、原書p110)

 とにかく「実存」という概念と「現象」という概念が違うということを今日は学習しました。

 「実存」という概念は、ヘーゲルさんから来ているので、またそっちも含めて縦横斜め、学習を続けます。