雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」

2010年03月19日 04時30分42秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」

 今年、森繁久弥さんが亡くなったあと、NHKラジオで深夜に、追悼放送があり、以前の森繁さんの録音が流れていました。

 その中で、森繁さんが「以前は、芸人というのは、芸のある人だと思っていたが、いまは、芸人というのは、芸+人だ、芸も、人もどっちもだいじだと思う」という意味のことを語っていたのが印象的でした。

 芸というのは、能力のことだと思います。
 それに対して「人」というのは、人間のなかで、ふつう「人格」とか「魂」とかいわれるもので、これが一人ひとりの人間の中心、司令塔なのだと思います。

 私のイメージでは、1人の人間の中心には「魂」「人格」とか呼ばれるものがあり、その周囲に、周りの人間や自然とコミュニケーションする「能力」が発達していきます。
 それを「労働力」「労働能力」と呼んでもいいでしょうね。

 「芸」という「能力」が発達しても、それは必ずしも「人格」「魂」の発達とはならず、その変質や後退になる場合もある、ということを森繁久弥さんは言っているのだと思いました。

 自分の能力が発達したことを、自分の「人格」「魂」そのものが発達して,他人より上に立ったように誤解してしまう人もいるのではないでしょうか。
 
 (未完、詳述します)



哲学の学習13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか

2010年03月18日 04時17分57秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか

 ふつう、哲学の学習と、一人ひとりの人間の「感覚」とは無関係なのですが。
 
 いろいろ考えてきたら、そもそも一番大事なのは、「質」の定義や概念ではなく、具体的なリアルな微細な質や、質の微細な変化を、ぼくが感じ取れるかどうか、ではないかと。

 たとえば「色 カラー」の微妙な変化を日本人は、感じ取ることができるといいますね。
 萌葱色(もえぎいろ)とか。
 浅黄色(あさぎいろ)とか。
 
 妻のN子さんの介護の仕事で「入居者の心の内を感じて仕事をしなければ」という時も、グループホームの入居者のお年寄りの、表情や言葉の揺らぎを感じ取って仕事ができますかということだと思います。
 
 ぼくは、そういう微細な質、微細なゆらぎを大事にしていきたいと思います。

 現実は、無神経で、職員の意向を押しつけることが多いのだと思いますが。

 哲学の学習と、人間・心・集団の学習とは、本来、別の物ではないと思います。表裏一体、表と裏と追求していきたいと思います。



 


資本論の学習4 商品の交換価値(現象形態)と価値

2010年03月15日 04時08分26秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習4 商品の交換価値(現象形態)と価値

 「第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の第4回目です。
 今回から価値とその「現象形態」である「交換価値」の考察に入ります。

 マルクスさんは言います。
 「交換価値は、さしあたり、1つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち、比率として現われる。それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。」(新日本新書①p62)
 
 そして「ある特定の商品、たとえば」300リットルの「小麦は、X量の靴墨、Y量の絹、Z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の商品と交換される。」
 「それゆえ、こういうことになる。
 第1に、同じ商品の妥当な諸交換価値は1つの等しいものを表現する。
 しかし、第2に、交換価値は、一般にただ、それ【交換価値】とは区別されるある内実の表現様式「現象形態」でしかありえない。」(p63)

 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。

 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)

 正確に雨宮流に翻訳して「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であり、相異なる量かあるいは同じ量であるが、交換価値としては、なによりもまずまったく同じ質であり、相異なる量である」という風になりますか。
 
 つまり 使用価値は 異なる質 異なる量か同じ量
     交換価値は 同じ質  異なる量か同じ量

 交換価値で「同じ質、異なる量」と私が規定するのは、等号「=」で結んだ等式「300リットルの小麦=akgの鉄」という場合には、小麦の交換価値と鉄の交換価値は、等式の左右で同じ量でなければならないからです。

 この交換価値の「質」をマルクスさんは、次のパラグラフでこう解説しています。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(p64)

 やっと、労働生産物という、商品を生産する労働の問題が出てきました。以下、続きます。

(お知らせ)一度投稿した原稿を後で見直して修正している場合があります。そういう場合は明示してありませんのでご注意ください。

人間・心・集団2 自尊心と自負心

2010年03月14日 22時49分35秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団2 自尊心と自負心

 妻のN子さんとの会話から考えました。
 N子さんの知り合いに、自分もプライドの高い人で、自分の夫は他人より出世して偉い人だという感じの人がいるそうです。
 
 英和辞典を引いて「「プライド」って優越感とか自負心とか、ほとんど悪い意味なのね」「よく子供の自尊心を育てなさいというけど」と言うのでぼくは考えて答えました。

 「自尊心は大事だけど、それが変質して自負心、他人に負けないというマイナスの精神になるんじゃない?大事なのは、正常な自尊心がどうして曲げられて自負心や優越感になるかっていうことだと思う。そういう変質のプロセスを学習すれば、そうならないのじゃない?」
 
 「正しい自尊心が変質していくのは、正常ではない支配や従属の人間関係、差別や格差を受け入れてしまってあきらめて生きていたら、精神も変質していくと思うけど」

 その人はN子さんに「あなたは自分を持っていていいね」と言ったのだそうです。その人は、まだ見えているけど、もう自分を元にリセットして自分を自由にする余力はないのでしょうね。

写真は浜北区・不動寺の仏さまです。リラックスした、いいお顔でしょ?自分の心をきちんと持っているという感じです。

むかしの人は(いや、今生きている人も)、揺らぐ自分、自信のない自分、他人と比較してしまう自分を認識していて、そこから抜け出るためにも、神仏に祈って、自分の確立を願ったのではないでしょうか。

哲学の学習12 「質」とは何なんでしょうか

2010年03月13日 04時36分18秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習12 「質」とは何なんでしょうか

 「質」とは何かというと、たとえば森宏一さん編著『哲学辞典 第4版』(青木書店、q1971年初版、1987年第4版)では、「質とは性質のことであり、事物はすべてなんらかの性質をもって存在し、これによって一物は他から区別される」(p181)とあります。

 つまり、たとえば「本」と「パンフレット」の違い。どっちも「出版物」には違いないけど。

 同じ質の「人間」でも、「男」と「女」とは違うとか。

 日野原さんの著書『いのちと生きがい』青春出版社、では、こう書かれています。

 「命を救うとは、ただ命を長く延ばせばいいわけではなく、質が問われます。
 「ただ生きることでなく、よく生きることこそ、何よりも大切にしなければならない」これは、ソクラテスの言葉です。(『プラトン全集 クリトン』)」

 日野原さんとソクラテスさんに、共感します。

 写真は、N子さんの妹から送ってもらったミカン類。微妙に質が違います。
 

宇宙1 今年はガリレオさんが木星衛星を発見して400年

2010年03月10日 04時15分35秒 | 人間・生命・宇宙
宇宙1 今年はガリレオさんが木星衛星を発見して400年

 今年は2010年です、と大声で言うほどのことでもないかな?
 もちろん西暦です。
 今年は、平成22年、と言われても、なんの地球的意味もないですから。もちろん、日本的伝統を軽蔑するつもりはありません。
 地球的・宇宙的意味と、日本的伝統は、対立するものではなく、相補的なものだと思います。
 
 深海生物学者の長沼毅さんが書いた『生命の星・エウロパ』(NHKブックス)の冒頭の「第1章 エウロパの海」に、書かれているエピソードです。

 400年前の1610年1月7日、イタリア北東部の都市パドヴァで、夜空に輝く木星に、望遠鏡をむけたガリレオ・ガリレイさんは、木星の回りに、小さな、小さな、4つの星を発見しました。

 これが、惑星(プラネット)の周りを回る衛星(サテライト)の発見の最初です。

 ガリレオ・ガリレイさんは、木星の周りをまわる4つの衛星は、太陽を回る地球、地球を回る月の、ミニチュアモデルであると理解したのです。

 ここから始まって、ルネッサンスの崩壊していく時期に、ガリレオ・ガリレイさんは、コペルニクスさんの「地動説(太陽中心説)」に同調し、当時の権威であるローマ法王庁の「天動説(地球中心説)」に反対したために、宗教裁判にかけられてしまいました。

 400年前って、すごいですね。

 ガリレオ・ガリレイさんにすれば「そんな400年後のことは、ぼくは知らないよ。想像もできない。ぼくは、とにかく、今を必死に生きているんだから」ということでしょうか。

 今年2010年の400年後は、2410年です。

 ローマ・カトリック教会が、公式にガリレオ・ガリレイさんの「地動説」を認めたのは、いつかと言うと、なんと、1992年で、わずか18年前です。

 ぼくは小さい頃から天文マニアだったので、高校では地学部天文班でした。

 たぶん、中学生頃かな、小さな望遠鏡で、初めて、楕円形の輝く木星の周囲に、4つの小さな衛星を見たときの感動を思い出します。

 4つの衛星、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストのことはまた書きます。




 

哲学の学習11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先

2010年03月10日 04時03分50秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習11  「量」と「質」を考えます、その2

 量と質、あるいは質と量は、相補的な概念として考えられています。
 (相対立する概念という言い方・考え方もあるかもしれませんが、私はそういう「対立物」ではなく「相補物」として考えたいと思います。)

 では、人類の認識の歴史では、量と質、質と量、どちらが、先に認識されたのでしょうか。

 量とは、たとえば、1つ、2つ、というように、「数詞」=「言語」なしには、とらえられません。
 分離量であれ、連続量であれ、「数える」ことなしには、認識できません。
 
 でも、質は、たとえば「涼しい」「暑い」「でかい」「小さい」「丸」「四角」「植物」というように、言葉なしのイメージとして認識できるのではないでしょうか。

 あるいは、「なんかいやだ」「逃げないと」「心地よい」「好きだ」「嫌いだ」という感情。

 言語をもつ段階以前の人類、あるいは神経と脳のある動物たちは、みんな、「質感」を言葉としては表現できなくても、感覚しているのではないでしょうか。

 ですから、量よりも,質の方が人類の認識史から考えても先ではないでしょうか。


哲学の学習10 「量」と「質」を考えます、その1

2010年03月02日 04時14分02秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習10 「量」と「質」を考えます、その1

 ある「教科書」(87年度ですから23年前でかなり古いですけど、全面改定したという話も聞かないので、もし、今はかなり違っていたら許してください)に、次のように書かれています。

 「世界におけるすべての事物は、質の側面と同時に量の側面をもっており、そして、この質の側面と量の側面には切りはなすことのできない密接な関係があります。」
 この叙述は賛成です。
 
 次に「「それはどんなものか」という問いに対応する事物の側面、それが質です。つまり、質とは、ある事物を他の事物から区別する特徴・性質の総体のことをさします。」書いています。これも、まあいいかな。
 叙述は、質の具体的例として、「資本主義」と「社会主義」の質の違い、別の例として、液体状態にある「水」と気体状態にある「水蒸気」の違いをあげています。
 1987年なので、まだソ連のいつわり「社会主義」崩壊の前で、まだ日本共産党の認識が、ソ連社会主義は社会主義ではなく、歪んだ別の種類の社会である、というところには到達していない段階ですから、仕方ないですね。

 では、量とはなんでしょうか。
 同書では「量とは、長さ、広さ、重さ、温度、速度、人数など、「どれだけか」という問いに対応する事物の側面、つまりなんらかの単位で測定できる事物の側面のことです。10万人のデモ隊、40度の湯、1日1時間の学習などという時、問題にされているのが量の側面です。」と明確に書かれています。

 つまり「量」とは「単位で測定できる事物の側面」だと主張しています。でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみました。

 たとえば温度、現代では温度計で、どんな温度でも測ることができますが、それは温度計ができてからの話です。
 それまでは「今日は暑いね」「今日は寒いね」という感覚で会話がされています。
 
 「熱い」「冷たい」「暑い」「寒い」「大きい」「小さい」「速い」「遅い」などのけいようしをすべて「量」であると強弁するなら別だけど、事物の同じ側面を「量」として表現すると同時に「質」として表現することができるのではないでしょうか。

 つまり「事物の側面」の中には、同時に「量」であり「質」であるような側面がある。

 「事物の側面」の中には、「優しい」「きれい」「美人」のような質的にだけ表現ができて、量的表現ができない側面もあるのかな。

 だれか「美人」という質を量に変える「美人指数」を発明できれば、すごいですね。

 なんだか、本題から逸れてきたような気もしますが。量と質を考える第1回目とします。

 

哲学の学習9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係

2010年02月25日 04時33分37秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係

 「ものごとはすべて変化・発展する」かどうか、という学習の続きです。

 「変化」とは何かということですが、「ある物あるいはある物事」の「要因」「要素」「属性」の一部の量あるいは質が変化することではないかと思います。
 ただし、「ある物あるいはある物事」の統一性というか、「ある物がある物である量と質」「ある物事がある物事である量と質」は保っているので、連続性はあるわけです。

 たとえば「ある物A」の属性「a、b、c、d・・・・」とするとき、属性aがa1からa2に変化しても「A」が「A」であることに変わりありません。
 
 連続性とは何かというと、たとえば、カフカさんの小説「変身」で、主人公が毒虫(さそり?)に変身するのに、周囲の人が「この毒虫はお兄ちゃんの青年グレーゴル・ザムザが変身した姿である」という妹グレーテの認識がなければ「お兄ちゃんがいなくなって、嫌な毒虫が現われた」ということになります。
 
 あるいはガラスのコップが壊れれば、コップは「変化・発展した」わけではなくて、たんに「コップでなくなった」、ガラスの破片になっただけです。
 コップが「ガラスの破片」に変化したと強弁できなくもないですが、すでにコップでないことには変わりありません。
 
 基本はこうだと思います。ものやものごとは、
 ① 変化せずに安定している場合
 ② 「そのもの」を保持しながら、変化・展開・発展していく場合
 ③ 「そのもの」や「そのものごと」の統一性を保持できなくて崩壊・分解する場合
 つまり「ものごとはすべて変化・発展する」というのは「安定期」を無視し、「崩壊・分解の可能性を軽視していて、正しくありません。

 ①と②との関係では「物あるいは物事」が安定して存在するためには、周囲の環境・条件も長期にわたって安定していないといけません。

 ですから、「変化・発展」の時期と、「固定・安定」の時期は「物あるいは物事」を構成する2つの両面で、「変化・発展」の方が本質的で大事だとか、「固定・安定」の方は表面的で軽視できる話と言うことは正しくありません。

 地球生命の進化でも、長期の安定的地質条件と、矛盾が爆発する短期間の危機とが混在しています。

 人類の歴史でも、たとえば300年にわたる江戸時代の長期の安定期は、戦国時代の転換期と、明治維新の転換期にはさまれています。


 


資本論の学習3 商品の属性と要因、要素としての商品

2010年02月18日 22時01分16秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習3 商品の属性と要因、要素としての商品

 「第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の第3回目です。

 まず哲学の学習で書いたことを繰り返しますが、本文は第1行目で「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす1つの物、1つの外的対象、である」としています。
 また「このような物はどれも、多くの属性からなる1つの全体であり、それゆえ、さまざまな面から有用でありうる。」
 
 この「属性」について、山本広太郎さんは『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)で、以下のように述べています。

 「属性 Eigenschaft とは物 Ding の属性であり、物のうちで自立性を喪失し、観念化され、したがって「互いに分離して」いないものだからである。分離しておれば、属性ではなく、要因 Faktor (因数分解の因数はこれ)である。」(p173)

 商品の属性とは、たとえばコップが① ガラスでできている、② 透明である、とか、③ 上から見ると円形である、④ 横から見れば長方形である、⑤ 液体を入れておくことができる、などのことです。
 
 それに対して商品の要因の1つである「使用価値」とは「鉄、小麦、ダイヤモンドのような商品体そのものが、使用価値または財である」と述べているように「商品体」そのものを指しています。

 そして、商品が、価値と使用価値という2つの要因に分解できるからこそ、その独立した要因同士のからみあう運動によって、新たな「貨幣」という現象が生まれてくるのだと思います。
 『資本論』では、そのような、見た目には1つのプロセスが、それぞれの要因で、二重の意味をもって二重な結果をもたらすという「二重性」が大事だと思います。

 第1行目に戻りますが「資本主義的生産様式が支配する諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。」とあります。

 ですから、「個々の商品」「諸社会の富」「の要素形態(独 Elementarform)」であり、要素である「個々の商品」が、また、2つの要因(独 Faktren)に分かれるということです。

 この「要素」と「要因」はマルクスは使い分けていますが、同じものなのか、違うものなのか、私にはまだわかりません。学習していきたいと思います。

資本論の学習2 商品の「使用価値」とは何か

2010年02月10日 04時14分49秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習2 商品の「使用価値」とは何か

 「第1編第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の続きです。
 テーマは「商品の使用価値」とは何か、です。
 よくある誤解は「使用価値」とは、その語感から言っても、「使用することの価値」なのだから、その商品を使用するときの「効用」あるいは「満足感」とか、主観的なものではないかという誤解です。

 マルクスさんは、こう書いています。

 「ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値ままたは財である。」(新日本新書版①p60ー61)

 つまり、ある商品の「使用価値」とは、固いその商品体そのもののことです。
 だからこそ、ある商品の使用価値は「見える」のです。


「資本論」学習1商品の要因、見える使用価値と見えない価値

2010年02月07日 22時30分26秒 | 人間・生命・宇宙

「資本論」の学習1 商品の要因、見える使用価値と見えない価値

 何年か前まで「資本論」の第1巻の全行読みを仲間をつのってやりました。
 月2回、2時間くらい、全行を読んで、疑問・開設を出し合う作業でした。
 その収穫も含めて、雨宮智彦の読んだ「資本論」を少し書いていきます。
 
 なお、マルクスさんの書いたドイツ語の原題は「DAS KAPATAL」で「資本」です。「論」は含まれていません。
 原題通りなら、「資本論」ではなく「資本」というタイトルになります。
 
 推奨するテキストは、新日本出版社の新書版13巻本か、第1巻から第3巻までそれぞれ1~2冊にまとめたものです。

 「第1部 資本の生産過程」(これが、いわゆる第1巻です)のいちばん最初は、「第1編 商品と貨幣」の「第1章 消費」の「第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実態、価値の大きさ)」です。

 この「使用価値と価値」のうち、「使用価値は見える」けど「価値は見えない」というのが「資本論」の出発点になると思います。
 「見える使用価値」と「見えない価値」という2つの要因がからみあって、商品から貨幣へ展開していきます。

 以下、後述。
 

哲学の学習8 形式論理的事物と弁証法論理的事物

2010年02月02日 22時55分22秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習8 形式論理的事物と弁証法論理的事物

 「変化・発展」の稿の続きも含む内容です。

 世の中のすべてを「弁証法論理学」で「矛盾」と「発展」で分析できるように書いてあるテキストもありますが、どうでしょうか。

 たとえば、あなたが家を建てるとすると、その家は弁証法論理ではなく、形式論理学のバランスと安定の論理によって設計図が描かれ、その通りに建てられます。
 もし我が家が「弁証法的発展」によって「変化」「発展」していっては非常に困るわけです。
 ですから、家は発展しないように、AはAであり、Bではないという形式論理で建てられ、寿命が来ればそれは破壊され取り壊されます。
 つまり、家や都市など人間が作った物は、すべて形式論理学に従っています。

 それにたいして、例えば地球環境は進化・激変もしますが。一定の期間は相対的安定の時期で、一定の環境の下では、生物も安定して、産卵、成長、生殖の安定した循環を繰りかえすことができます。
 「カエルの子はカエル」で「ナマズの孫ではない」のです、
 
 生物が進化する時期は、たとえば地球誕生の初期に藍藻類の大繁殖で酸素が大気に放出され、それまで無酸素で栄養とエネルギーを得ていた「嫌気的生物」が生存の危機に陥った時期です。
 あるいは、地球全体が凍結した時期です。
 あるいは中生代末期の有名な「隕石衝突」(または地球内部からの大激変)です。
 
 このような環境の激変と生存の危機に対して、生き物たちは生き残るためには、自らが進化することを強制されます。別の言い方を言えば、そのような劇的な進化を遂げて新しい生き物に変身した種類だけが生き残れたのだと。

 要約して言うと、世の中は、変化・発展しないものと、変化・発展するものでも、のべつまくなしに変化しているわけではなく、安定する時期は長く、変化・発展する時期には短時間で激変が起こると、いうことでしょうか。

 (参考文献) 井尻正二『ヘーゲル「大論理学」に学ぶ』築地書館、1980年初版


哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一

2010年01月28日 04時54分51秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一

 32年前に発行された書籍に、次のように書かれています。
 「弁証法は事物の変化、発展の原動力を事物の内部にもとめ、この原動力になるのは。すべての事物の内部にある矛盾であることをあきらかにしています。」(同署p198)

 どう「あきらかにしてい」るのかは、そこには叙述が何もないので、私にはわかりません。どなたか、「あきらかに」わかる方がいれば、教えてください。

 そのあとには、こう書かれています。

 「事物の内部の矛盾とは、一つの事物のなかにたがいに対立する側面があって、それがたがいに結びついていることをういいます。
 たとえば、すべての生物は、外界から栄養をとる同化作用をおこなうのと同時に、これを体内でエネルギーとして消費し、老廃物を外界へ排出する異化作用をおこなっています。このどちらもが停止しても、生物は生きることができません。
 資本主義社会には、労働者階級と資本家階級という対立する二つの階級が存在します。
 一つの事物のなかの対立した二つの側面はたがいにむすびつき、一つの側面は他の側面なしにはありえないというように統一しています。たとえば、同化は異化なしにはありえないし、資本家階級はかれらの搾取する労働者階級なしには存在しえません。このような関係を対立物の統一といいます。」

 同化と異化が「対立物の統一」「矛盾」であるというのは。どうなのでしょうか。
 生命における物質代謝の両側面である、同化と異化は、なんら対立しているわけではなくて、お互いに相互に支えあっているのではないでしょうか。

 環境の安定なしには、恐竜類や裸子植物の大繁栄もなかったのではないでしょうか。

 地球に落ちた大隕石か、それとも、もっと他の要因かは、わかりませんが。
 
 生命のほんとうの矛盾は、生命内にではなくて、生命と環境のあいだの相互作用にあるのではないでしょうか。

 文明である人間社会は、環境の影響を脱して、自立的な矛盾をもっていると思います。
 しかし、歴史を溯るほど、環境とシンクロ(同調)する生き物の姿が、わき上がってくるものと思います。
 
 

哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力

2010年01月22日 04時16分45秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力

 自分の頭で考える「学習」シリーズです。

 他人の頭で考えることのできるヒトは絶対いませんが。他人の頭にたよろうとするヒトはたくさんいます。自分の感覚や判断ではなく、「世間の基準」や「他人の評判」や「他人の規範」にたよろうとすると自分の正直な心・魂・人格を殺すことになります。
 私は、自分の心・魂・人格が死んだゾンビー状態で生きたくはありません。

 通説では、事物の変化・運動・発展の原動力は、事物の内部に存在する矛盾あるいは対立によるということのようです。
 なぜ通説なのか、誰が決めたのかは、ボクに聞かないでください。なぜ通説なのか、誰が決めたのかわからないのが通説であり、常識なのです。

 これは詳しく証明したのではないですけど(時間があれば詳しく証明したいと思いますが)、具体的な1つの変化・運動・発展という「ベクトル」の矢印の長さを規定するのは、「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」ではなく、事物に内在する「エネルギー」ではないでしょうか。
 「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」が規定するのは、「変化・運動・発展」のベクトルの長さではなく、その方向を規定すると思います。

 つまり、原動力であるエネルギーが「変化・運動・発展」を起こすが、その方向性を決めるのは「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」であるということです。

 この世界は、① 物質 ② エネルギー ③ 情報、という3つの要素で成り立っていると思いますが、エネルギーが「変化・運動・発展」のベクトルの長さを規定し。情報がその方向性を規定するということだと思います。

 生物の日々の動的平衡や成長を支えているエネルギーは、ミトコンドリアで生産されるATPですが、そのエネルギーがどう使われて、生物がどのように成長していくかは、生物の細胞の核にある「遺伝情報(DNA)」に規定されています。

 社会の発展のエネルギーは「生産力」ですが、その社会の発展方向は、その社会の成員の情報伝達の総意によって規定されています。
 いまの北朝鮮やスターリンソ連、毛沢東中国、ヒトラー独裁のナチスドイツ、戦前の絶対主義的天皇制日本のような独裁社会では、社会の総意ではなく、どの独裁者によって「変化・運動・発展」ベクトルの方向が規定されていると言えるでしょう。

 もっと感じて、考えて、学習していきます。