雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

数学の学習1 素数と俳句・短歌

2010年01月06日 04時16分40秒 | 人間・生命・宇宙
数学の学習1 素数と俳句・短歌

 たぶん、数学関係者にも文学関係者にも「なんじゃこれ」という、奇想天外なタイトルだろうと思います。
 
 ある本で指摘を受けて、調べた結果です。いま、その「ある本」の「何ページ」かを探していますので、見つかり次第、アップします。

 「素数」とは定義で、たとえば「整数p>1が、1とpのみで割り切れれるとき、pを素数という。」
 素数を小さい順に並べると、2,3,5,7,11,13,17,19,23,31、…となります。

 妻のN子さんが最近、俳句をやっているので、考えたことです。
 俳句は、たとえば、一茶の俳句
 「がりがりと(5) 竹かじりきり(7) きりぎりす(5)」
 のように、5-7ー5です。5と7は素数です。5と7と5を足すと17文字で、これも素数です。
 短歌はどうかというと、5-7-5-7ー7 です。
 たとえば、俵万智さんの『サラダ記念日』(河出文庫)で「万智(まち)ちゃんが(5) ほしいと言われ(7) 心だけ(5) ついていきたい(7) 花いちもんめ(7)」(p57)。

 つまり、俳句の構成部分と合計は 5+7+5=17で、すべて素数。
 短歌の構成部分と合計は、5+7+5+7+7=31で、すべて素数。
 これはなぜなんでしょうか。
 
 考えたのは、素数は、2以外は、すべて奇数です(2以外の偶数は素数ではない)ですから、素数であるということより、奇数であるということが俳句・短歌と関係があるのではないかと。

 日本語の特徴なのか、言語学をきちんと勉強していないので。わかりませんが、日本語の名詞に「4文字」言葉が多いことも、「名詞+接尾辞」で「5文字」が必要な理由かもしれません。

 575ではない「古歌」もあるという記憶もあるので、研究していきたいと思います。

 



 

哲学の学習5 要因と属性

2010年01月05日 05時49分52秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習5 要因と属性

 これは哲学というより、経済学かも知れませんが、そういう区別は意味がないので、そのままにします。

 『資本論』の「第1巻」の「第1編 商品と貨幣」の「第1章 商品」の第1節は「商品の2つの要因ー使用価値と価値」というタイトルです。
 
 この「要因」とは何でしょうか。
 本文は第1行目で「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす1つの物、1つの外的対象、である」としています。
 本文で言う「属性」とはなんでしょうか。

 この問題について、山本広太郎さんの『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)が参考になります。
 山本さんは以下のように述べています。
 「属性 Eigenschaft とは物 Ding の属性であり、物のうちで自立性を喪失し、観念化され、したがって「互いに分離して」いないものだからである。分離しておれば、属性ではなく、要因 Faktor (因数分解の因数はこれ)である。」(p173)

 商品が、価値と使用価値という要因に分解できるからこそ、その独立した要因の運動で、新たな「貨幣:という現象が膿まれてくるのだと思います。
 『資本論』では、そのような、見た目には1つのプロセスが、それぞれの要因で、二重の意味をもって二重な結果をもたらすという「二重性」が大事だと思います。
 
 物の「属性」となっていれば、それは単純明快で、「青い」とか「ガラス」とか「丸い」とか、そこには二重性はないということでしょうか。

 思いついたのは「組織の民主主義」の場合で、形式的には、その組織が「民主的」と言っていても、一人ひとりの構成員(人間)が、その組織の独立の要因ではなく、組織の属性になっていたら、民主的組織とは言えないな、ということです。

 
 

哲学の学習4 「発展」と「展開」その2

2010年01月04日 03時56分51秒 | 人間・生命・宇宙
 1月1日に書いた「哲学の学習3 「発展」と「展開」」の続きです。

 「弁証法」の例証として、植物が種から芽が出て、葉が出て、花が咲いて、実が成るとという例が書いてあるテキストもあるのですが、これは弁証法の「発展」の例にはなりません。
 なぜなら、たしかに「非可逆的変化」「不可逆的変化」であっても、これは遺伝子(DNA)に事前にプログラミングされた変化であって、「発展」ではなく「展開」と名付けるべきものです。
 「発展」は決して出発点に戻りませんが、生物の遺伝子の「展開」は有性生殖の動物で言うと精子と卵子の会合から始まって幼生からこども・大人になって、必ず精子・卵子に戻ります。戻らなければ、生物は存在できないからです。
 つまり同じ環境の下で、同じような生物がそこに適応して繁栄しているのです。

 マルクスさんの『資本論 第1巻』で言うと、市場経済と商品生産から「貨幣」が出てくるのは、必然的な「展開」の過程です。商品が発生すれば貨幣は出てきます。
 しかし、その後、「貨幣」が出てくれば「資本」が発生するかというと、これは必然的「展開」の過程ではありません。マルクスさんが『資本論』で何回も述べているように、これは「ここがロードス島だ!ここで跳べ!」という、必死の飛躍の過程なのです。跳んでも失敗して「資本」になれない場合が世界史では、多々あったのではないでしょうか。
 
 資本主義社会から社会主義社会に転化する「革命」も、必然的「展開」ではなく必ずしもそうならないという偶然性を含む「発展」ではないかと考えています。
 つまり、資本主義社会(たとえば現代日本)から社会主義社会に「転化」するのは、生物のた根から親への「必然的過程」ではなくて、偶然性や、滅亡したくないならどうしたらいいかという必死の「ここで跳べ!」という思考も、そこに大きく作用するのではないでしょうか。

 生物の進化の場合も同じだと思います。たとえば、中生代の恐竜ワールドから、新生代の哺乳類ワールドへの転換は、偶然の隕石落下を含みながら、必然的な、かならずそうなるというのではなく、偶然性も含んだ、かなり未来決定の幅のあることだろうと思います。

 さらに思考を続けていきます。

哲学の学習3 「発展」と「展開」

2010年01月01日 19時36分24秒 | 人間・生命・宇宙
 弁証法哲学では「発展」はきわめて重要なキー概念だと思います。発展とは、たとえば青木書店発行、森宏一さん編『哲学辞典 第4版』(1987年)の「発展}の項目(p376)ではこう書かれています。
 「変化の一形態であるが、この変化の特徴は一義的な方向をもつことである。」とし、「単純なものから複雑なものへ、低い段階から高い段階へと移りいく変化である」としている。これは正しいと思う。
 さらに「発展はたんなる量的変化ではなく、古いものが新しいものへという質的に変わることで生じる変化である」とし、その後に、重要な点を青木版『哲学辞典』は指摘していると思います。
 すなわち「繰りかえされる変化ではなく、新たな段階にのぼりいくのであって、円周をめぐる繰りかえしの変化にくらべると、変化するものがふたたび変化の出発点にもどり、またそこから始まるのではなく、変化の終点は最初の出発点より高いところにある。そしてこの高いところの出発点からつぎの変化の過程をはじめる。そこでたんなる円周上の変化とちがってラセン状に変化する」としている。
 これは正しいのですが、ここでいう「発展」ではないことろの「繰りかえされる変化」「円周をめぐる繰りかえしの変化」という概念が規定されていません。
 そのことを、生物学者の井尻正二さんは『ヘーゲル「大論理学」に学ぶ』}(築地書館、1980年)の「Ⅲ 展開と発展」(P79~p135)で、ヘーゲルが『大論理学』の第3巻「概念論」で展開した「発展」は、生物の系統発生(=進化)を述べたのではなく、生物の個体発生を述べているのであることを指摘しています。
 さらに、井尻さんは、混同されている生物進化における「発展」と、生物の個体発生とを区別し、個体発生のような。低いところから高いところへ、単純なものかた複雑なものへの場合で、かつ循環的で円周的な、出発点に戻る変化を「展開」とすることを提案しています。
 不可逆的・非可逆的な変化のなかで、出発点に戻る「展開」と、出発点に戻らない「発展」とを区別することは、きわめて重要な指摘だと思います。このことを考えていきます。

(2010年1月1日投稿)

哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」

2009年12月08日 04時10分49秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」

 ヘーゲルさんと言えば、代表作は『大論理学』と『小論理学』ですが(ぼくが言っているだけかも知れませんが)、これを読むのはきわめて難解です。
 「有」「無」「成」から始まるやつです。
 それで、いい逐条の解説書が欲しいのですが、『小論理学』のいい解説書だと思う本が出版されました。
 高村是(よし)あつさん著、広島県労働者学習協議会編『ヘーゲル『小論理学』を読む1&2』一粒の麦社、2009年9月10日発行、の2冊です。
 (すみません、著者の「あつ」の漢字が出ません。)
 さっそく買い求めたところ、『小論理学』の本文の前の異常に長い「序文」「序論」「呼び概念」をきちんと開設してくれています。なんと、全4冊を予定しているうち、この2冊が全部、「序文」「序論」「呼び概念」の解説です。
 現にこの部分は、岩波文庫、松村一人さん訳の2冊本『小論理学』の上巻の322ページのうち255ページを占めている部分です。
 ぼくの買ったのは1982年1月第32刷ですから27年前、まだぼくが……才の頃ですね。
 高村さんの解説をたよりに、ぼくも27年間放っておいた小論理学を少し読み進んでみたいと思います。
 一粒の麦社は、電話 082-231-6170 です。

 なお、さっき、岩波書店のホームページにアクセスしてみましたが、文庫も、ヘーゲル全集も、いま品切れ状態です。
 岩波書店に「再版して!」と呼びかけませんか?
 人類の知的「世界遺産」が読めないなんて、おかしいですよ。

 誰か、ヘーゲルさんの全著作を、正確に、わかりやすく日本語に翻訳して、誰でもいつでもアクセスできる「ヘーゲルHP」を作ってくれないかな?

 





哲学の学習1 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定

2009年12月05日 04時27分47秒 | 人間・生命・宇宙
 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定

 哲学とは何でしょうか、といきなり聞いてみても、誰も答えてくれないので「わからないときはまず辞典」というわが親の教え(親の商売は本屋さん)に従って辞典を見てましょう。
 手元にある青木書店の『哲学辞典 第4版』で「哲学」を引くと、その冒頭に「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学であり、したがって全体としての世界についての見解をしめす世界観である。また論理学および認識論をそのうちにふくんでいる。」(p321)と書いてあります。
 書いてあるから正しいというわけではありませんが「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」という規定は、ぼくとしては共感します(それが真実かどうかはまだ未定)。
 なぜかと言うと、結論の押しつけや定義集ではなくて「知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」という角度です。

 ところで、哲学と言えばヘーゲル、ヘーゲルと言えば哲学の、ヘーゲルさんはどう言っているでしょうか。
 岩波文庫版のヘーゲル『小論理学(上)』の「エンチクロベディーへの序論」では、こう述べています。
 「意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用にたよってのみ思惟的な認識および把握に進むものである」(一、p61)
 「哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義されうる。」(二、p62)
 「感情、直感、要求、意志等々の諸規定性は、それらが意識されているかぎり、一般に表象と呼ぶことができる。したがって一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる。」(三、p65)

 つまり、哲学は対象の表象を思惟によって考察し、カテゴリーや概念に変えることだというのです。
 ヘーゲルさんのここでのこういう規定にはぼくは賛同します。ところが、『小論理学』『大論理学』の実際の本文を読むと、最初から「有(存在)」「無」「成」などの概念から概念へ自動進行していくように読めます。
 これはどういうこと?
 こういう疑問から哲学の自主勉強を始めます。

 


人間・心・集団1 ヒトは自分の「物語」なしには生きられない

2009年11月28日 05時21分24秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団1 ヒトは自分の物語なしには生きられない

 最近、感じたことを書きます。
 どんなヒトでも、自分の生まれてきて・生きている意味、存在価値、なぜ自分は今を生きているのかという確認無しには生きていけないと思います。
 そういう確認がなければ、ヒトは絶望して「自分には生きていく価値がないんだ」と自死に至るしかないのではないでしょうか。
 そういう自分の生きている意味を「自分の物語」と呼びましょう。
 
 そんな物語などいらない(と思う、たぶん)、トンボや蝶々やアメーバと人間の違いでしょうか。
 もしぼくの大好きなモノサシトンボに自我があったら、ごめんね。

 ヒトは自我を持ってしまい、宗教とか哲学とか世界観とか、自分の存在価値を確認してくれる「物語」が必要なのだ、と思います。
 
 この雨宮智彦のブログ、「哲学・思想・文化・人間」はそういうヒトの側からと、哲学・思想・科学の側からと両方から考えていきたいと思います。

 雨宮智彦は、宗教を否定しません。
 雨宮智彦にとって、宗教は必要ではありませんが。

 それはヒト(「ヒト」とは、人間の1人ひとりの個体を指します)にとって必要な自分を保つための「物語」=安全装置の一つではないでしょうか。

 それが宗教であれ、哲学であれ、科学であれ、世界中のヒトが、お互いを相互尊重しながら、生きていくのが21世紀の世界の姿なのではと思います。