雨宮家の歴史 25 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-23 南鮮へ 」
朝の体操、雪降る夕べの軍歌演習に仰ぎ見た瑞気山(ずいきさん)(営庭の東側にある小高い丘)とも、いよいよお別れの日が近づいて来た。七十七連隊歌にも歌われていたが、歌自体記憶にない。朝鮮の初年兵がたどたどしい日本語で軍歌演習をさせられていたが、彼等が武田麟太郎氏のいうように、逃亡するのも無理ならぬところであった。志願兵はともかく、前年入隊した日本語の分かる学徒入隊者でも、八路軍と対峙している山西省や河北省の第一線で、中共地区へ逃亡していたのである。
軍人勅諭で、「我国ノ軍隊ハ世々天皇ノ統率シ給フ所ニソアル」と、陸海軍の軍人は一兵卒に至るまで天皇に直属していた。国民のためではなく、天皇のために我が国の軍隊は存在していた。「朕ハ汝等軍人ノ大元帥ナルソ」といい、更に「上官ノ命ヲ承ルコト実ハ直(ただち)ニ朕カ命ヲ承ル義ナリト心得ヨ」と、日本の軍隊は「天皇の軍隊」であった。
出動も近づいたある夜、点呼のあと武道場に寝泊まりしていた二大隊の兵士全員は、そのままその場に待機させられた。やがて、中央の板敷きの床に一人の朝鮮籍の初年兵が素裸で立たされた。逃亡したが捕らえられて、中隊に戻されたのである。彼の中隊の人事係の准尉が、革のむちを持って相対した。むちは彼の身体に巻きつき、床に転がった。皮のさく衣(○○○)が彼の身体に巻かれた。
「起て」
准尉の怒声に、ふらふらと立ち上がった彼に、容赦なくむちの嵐が飛んだ。床に倒れた彼に、冷たい水がバケツからぶっかけられた。
野間宏の『真空地帯』に、同じような場面があるので記す。
「看守の命令に従わなかったという理由で、皮のさく衣(○○○)を胸にはめられ、水をぶっかけられた。皮のさく衣(○○○)は水をかけるごとに引きしまり、彼の肩と胸は内へ強くしめつけられ、彼は一分ごとにうめき、わめかなければ呼吸ができなかった。彼の口は、よだれと砂でべたべたによごれ、彼のだらんとした身体は冷たい泥土の上にほうっておかれた。そして彼は気を失った。」
野間宏は、在隊中に治安維持法違反で逮捕されて、大阪陸軍刑務所に入所したから、その時の経験と思われるが、当時、刑務所では日常茶飯事の懲罰方法であったと思われる。
戦争が終わって、もうそんなものは姿を消したと思っていたところ、今回(平成十四年十一月)名古屋刑務所で、同様の懲罰方法が行われて一人が死亡、一人が小腸を四十センチ切り取る手術を受けるほどの内出血を起こしたという。刑務官五人が逮捕起訴されたが、戦後も六十年近くなるというのに、天皇制下の悪習がまだ残っていたことには驚いた。加害者が直接手を下さず、外傷も残らないので闇から闇へ消し去ることが可能だったからである。
倒れた朝鮮兵の最後は不明であるが、「天皇の軍隊」の陰惨な裏舞台を見せつけられた思いであった。
部隊の編成も終わり、五月末のある夕べ、ラッパ隊吹奏の先導のもと、南鮮へ向かって四十四部隊の営門をあとにした。平壌には再び戻ることはなかった。無論、岐陽工場へもである。
最初の駐屯地は、全羅北道裡里(りり)邑(町)であった。京城から南下し、大田で分岐して西南岸の木浦(もつぽ)に至る湖南線の要衝で、麗水線、郡山線が接続していた。
この地は朝鮮一の沃野である全北平野の中心地で、穀倉地帯であり、郡山はその米の輸出港であった。農場経営の先駆は既に明治三十六年に始まり、米屋や地主が進出し、日本人所有農地の三割をこの地で占めていた。居留民も二百人を超え、朝鮮人よりも多かった。
日本人が朝鮮で地主になったのは、土地を買ったのではなくて、土地を担保に金を貸し付けて、抵当流れにして土地を取ったのである。それは、明治四十一年に設立された国策会社、東洋拓殖株式会社(略して東拓)も同様であった。裡里にも東拓の支店があった。随所に○○農場なる看板を見かけたが、それらの土地は、地主となった日本人が平均して五,六割高い小作料を朝鮮人より取っていた。朝鮮人は、自分の作ったおいしい米を日本へ輸出し、不味い外米か粟などを食べていた。土地を失った農民は、小作人になるか、鴨緑江北岸の間島地区の流民となるか、玄界灘を渡って在日朝鮮人になるしかなかった。一見、空襲もなくのどかな全北平野も、実情は深いところに苦難の根を持っていた。
師団司令部が裡里農林学校に、私たちの連隊本部と第一大隊本部が裡里工業学校に、第二大隊本部が裡里小学校にそれぞれ駐屯した。四六四連隊が最後尾で、四六一から四六三は郡山方面の海岸線に散った。
裡里から湖南線で四駅南の井邑(せいゆう)護朝部隊の百五十師団司令部があった。百五十師団は西南岸の木浦まで全羅南道一帯に展開していた。
その師団軍医部に若い日の松本清張が衛生上等兵として勤務していた。上等兵ともなれば、内務班では神様であるが、軍医部では兵隊はもう一人の一等兵のみで、あとは軍医部長以下将校、下士官なので相変わらず初年兵と同じように飯炊き・食器洗い・洗濯などの雑用に使役されていた。如何にも清張らしいが、時間をさいて京城の本屋で手に入れた英語の教科書を勉強していたという(『半生の訳』)。
ちょうど雨季に入り、田植えの人手不足の勤労奉仕で、一日全員出動した。衛生兵は赤十字印のついた鞄をもって待機していたが。けが人は出なかった。
六月末に、第二大隊は裡里と郡山の中間の地境里(村)へ移動した。小学校に駐留したが、周りは見渡す限りの田んぼであった。生徒たちはどこへ行ってしまったのだろう。ときどき、近くの女教師の家へ、衛生兵が揃って風呂を借りに行った。五右衛門風呂であった。
第二大隊には軍医が二人いた。外科の長尾中尉はバリバリ張り切っていたが、戦闘が始まらねば用がなかった。内科の源馬少尉は、温厚篤実な町医者という感じであった。召集されたのであろう。少し齢をとっていた。二人とも慈恵医専の出身だった。
食事が出来ると「検食」として一食分、医務室へ運ばれて来る。軍医の検査を受けるためである。形式に過ぎなかったが、長尾軍医はいつも「おいっ、中谷食え」とチラッと見るだけである。私たち急造衛生兵は、おすそ別けに預かる訳であるが、毒味役であるから最悪の場合も考えねばならなかった。
医務室は、畳の室があったから、宿直室だったかと思うが、校舎とは運動場を間に離れて独立していた。診断に週番上等兵に連れられて来る兵は、大隊行李要員の第二国民兵の四十歳代が主で、腰が痛いとか脚が痛いという老人病が多かった。長尾軍医の指示で、カンボリジンという神経痛のくすりを皮下注射してやるが、された兵は迷惑だったと思う。衛生兵教育で一度も注射などしたことはなかったからである。
部隊の編成が外地の平壌だった関係から、内地の郷土部隊とは違い、全国から集まってきた兵士で構成されていた。衛生兵仲間で「外人部隊」とうわさしていた。師団長や部隊長など幹部は東北、第二大隊の幹部と兵は岡山、大隊行李の輜重兵は鳥取(主に第二国民兵)、私たちのような朝鮮での召集兵、朝鮮の志願兵、徴兵された初年兵と雑多であった。
ある日、私は大隊副官に呼ばれた。副官は大隊本部の中隊長役であり、彼は幹候(幹部候補生)の中尉で、岡山の女学校の先生だったという。「連隊で幹候の試験があるから、受験せよ」ということだった。私は衛生兵の方がのんきだったし、所詮下級将校は消耗品に過ぎなかったので、受験する気はなかったが、半ば強制的に受験させられてしまった。
合格発表を見て驚いた。筆記試験の軍人勅諭など殆ど白紙だったのに、序列が三分の一ぐらいのところで合格していた。私みたいな輩(やから)が指揮官になっては、日本もいよいよおしまいだなと思った。陸軍二等衛生兵が陸軍兵科幹部候補生(二階級上がって上等兵待遇)となった。上等兵の襟章は隣に寝ている上等兵が譲ってくれた。幹候の襟章は売っている店もないので、諦めた。集合教育は、原隊の平壌第四十四部隊で行われる予定とのことで、それまでの間、今まで通り医務室勤務となった。木村衛生准尉(昇進していた)が「中谷少尉殿」とおどけて敬礼をするのには困惑した。
平壌で部隊編成中に、物資収集の名目でたびたび公用腕章を出してくれた木村准尉殿が、今度も私に紅葉外出を命じた。中途半端な立場で准尉殿も困ったのではと思う。「医務室日報」を連隊本部医務室に届ける仕事であった。「医務室日報」は、医務室で軍医が診察した傷病兵の数・病名・薬の種類・練兵休(訓練・勤務に就けず班内で休む兵)、入室者(入院するほどではなく、医務室内で休んで経過を見る)などを記録した文書である。連隊本部は、裡里工業学校にあった。幹候試験はここで行われたが、その時、川崎軍旗少尉が連隊長と共に、六月七日宮中で授与された軍旗を見せて貰ったが、結局、軍旗祭も行われないうちに戦争が終わってしまったから、軍旗も焼却されてしまったのであろう。
連隊本部のある裡里工業学校へは、郡山線で通った。地境より三十分ぐらいかかり、駅より更に学校まで三十分歩く。毎日同じ汽車に乗る女学生がいた。彼女は、部隊の駐留している小学校に隣接している××農場の門から出て来たから、農場の娘だったかと思うが、防空頭巾を背負い、紺絣のモンペ姿(編注②)にズックの学校靴を履いていた。動員されていたのだろうが、顔立ちは千葉早智子に似ていた。千葉早智子といっても,彼女を知っているのは昔の美青年たちだけで、東宝かP・C・Lの女優だった。成瀬巳喜男監督の「妻よばらのようにの主演女優である。
連隊本部へ通った時のことは、長くなるので番外編でまとめることにする。
(次回、「Ⅰ-24 敗戦」へ続く )