雨宮日記 6月30日(水) ショパン・コンサート・仲道郁代さん
このところ、N子さんと聞きに行っている、しょぱん・レクチャコンサートの第4回で、毎回の講師・平野さんと、今日はピアニストの仲道郁代さんです。
大きなホールでピアニストの演奏を聴くだけではなくて、講師の平野さんの丁寧な解説と演奏者との対話が聞けて、百数十人くらいの小さな会場で間近でピアノが聞けるという、2つの幸せが味わえます。
しかも、今日は、浜松出身の(だからどうってことはないんですけど、なんとなく感性とか合うのかなと親しみがわくでしょ?)仲道郁代さん。
実際に始まってみると、3回までの演奏家と違って、最初から平野さんの目の前の客席で座っていたり(平野さん「目の前で聞かれているとしゃべりにくいんですけどね」)、舞台へ呼ばれて対談すると、すごいしゃべるし、自分からどんどん演奏するし、ピアニストらしからぬ(いえ、そんなことないですね。ピアニストらしいのですね)積極性にびっくりして、これまで、ぼくはCDでしか聞いたことがなかったのですが、ますます好きになりました。
それと、すごいショパンの時代や演奏家をすごく勉強していることも。
一番、共感して、帰りの遠鉄電車でN子さんと話したことは、ショパンも、ベートーベンも、モーツアルトも、みんな、前の時代や同時代の音楽をすごく勉強して、それを作り替えている。
つまり、伝統と変革、その両方が必要なんですと、言った仲道さんに、ぼくたち夫婦も同感です。
なにしろ、今年県内のある○○運動(○○行進)で、遠くから来て、遠くまで行く若い女性が改善提案を言ったら「例年通りです」と言われたと言ってなげいていました。
私とN子さんのかかわる運動では、「例年通り」などということはあり得ないのですが。毎年、少しづつでも変化させていきます。
でなければ、生きている意味はありません。
仲道さんが、同じクラシックの曲でも、演奏者によってまったく違うし、同じ演奏者でも今日の演奏と明日の演奏は違いますと、言っていたのに、ぼくもN子さんも共感しました。
「生きる」とか「歌う」って、たぶん、そういうことなんじゃないでしょうか。
今日の歌と、明日の歌は違います。
どこまで自分の歌、自分たちの歌を歌えるのか?
人生であれ、理論であれ、文化であれ。
このところ、N子さんと聞きに行っている、しょぱん・レクチャコンサートの第4回で、毎回の講師・平野さんと、今日はピアニストの仲道郁代さんです。
大きなホールでピアニストの演奏を聴くだけではなくて、講師の平野さんの丁寧な解説と演奏者との対話が聞けて、百数十人くらいの小さな会場で間近でピアノが聞けるという、2つの幸せが味わえます。
しかも、今日は、浜松出身の(だからどうってことはないんですけど、なんとなく感性とか合うのかなと親しみがわくでしょ?)仲道郁代さん。
実際に始まってみると、3回までの演奏家と違って、最初から平野さんの目の前の客席で座っていたり(平野さん「目の前で聞かれているとしゃべりにくいんですけどね」)、舞台へ呼ばれて対談すると、すごいしゃべるし、自分からどんどん演奏するし、ピアニストらしからぬ(いえ、そんなことないですね。ピアニストらしいのですね)積極性にびっくりして、これまで、ぼくはCDでしか聞いたことがなかったのですが、ますます好きになりました。
それと、すごいショパンの時代や演奏家をすごく勉強していることも。
一番、共感して、帰りの遠鉄電車でN子さんと話したことは、ショパンも、ベートーベンも、モーツアルトも、みんな、前の時代や同時代の音楽をすごく勉強して、それを作り替えている。
つまり、伝統と変革、その両方が必要なんですと、言った仲道さんに、ぼくたち夫婦も同感です。
なにしろ、今年県内のある○○運動(○○行進)で、遠くから来て、遠くまで行く若い女性が改善提案を言ったら「例年通りです」と言われたと言ってなげいていました。
私とN子さんのかかわる運動では、「例年通り」などということはあり得ないのですが。毎年、少しづつでも変化させていきます。
でなければ、生きている意味はありません。
仲道さんが、同じクラシックの曲でも、演奏者によってまったく違うし、同じ演奏者でも今日の演奏と明日の演奏は違いますと、言っていたのに、ぼくもN子さんも共感しました。
「生きる」とか「歌う」って、たぶん、そういうことなんじゃないでしょうか。
今日の歌と、明日の歌は違います。
どこまで自分の歌、自分たちの歌を歌えるのか?
人生であれ、理論であれ、文化であれ。