雨宮家の歴史 31 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 山口県光市 Ⅱ-30 朝日塩業」
第四部 山口県光市 Ⅱ 30 朝日塩業
敗戦により消滅した朝日軽金属岐陽工場は北朝鮮にあってどうにもならなかったが、本社が京城に、支社は東京にあったので、機能は主に東京支社が中心になって戦後処理をしていた。現地からの情報が入れば、社員の留守宅に報告していた。新潟港の埠頭に、岐陽工場へ日本海経由で積み出されるばかりになっていたボイラーが、雨ざらしになっていたが、解除の見通しがつくとともに、それらを使って第二会社を作る計画が首脳部の間で進んでいた。I部長も参画していたようである。
山口県東部の瀬戸内海に沿って走る山陽本線沿線に光という町がある。戦時中、ここに海軍工廠(こうしよう)があった。戦争が終わって、その跡地が遊休地になっているということを、光に引き揚げた会社関係者から知らせが東京支社にあった。
工廠関係者だった軍人や、工場の職員たちの住んでいた住宅が空き家同然となり、そこに引き揚げ者たちが住みつき始めたのである。知らせた人もその一人であった。
工廠は海に面していたから、海水は豊富である。関係者が調査した結果、まず食塩製造工場を作ることにした。朝日塩業株式会社光工場である。当時、食塩は非常に不足していたから、国からの緊急要請もあった。また、やがて引き揚げて来る軽金属社員の救済のためにも必要であった。
工廠は国有財産となり、大蔵省が管理していた。それらを借りる交渉も済んで、I部長は先発隊として、二十一年の六月末に光に出発した。
私もそこへ就職することが決まったが、日時はまだ不明であった。私が光へ出発したのは九月三十日であったが、その間の事情について、最近新しいことが分かった。
NHK文化センターの「自分史講座」を、私と同じく受講していた浜工の後輩E君が、ある日、「おかしいですね。中谷さんと同じ光へ行って、塩を作る仕事をしたことがある人を知っています」と言うのである。しかも同じ浜工の卒業生で、E君より一級上だと言う。私は「アッ」と思った。もう戦後も六十年になり、すっかり忘れかけていたが、戦前編(「Ⅰ 21 召集」68頁)に書いた通り、後輩が連絡船に乗られず,結局、渡航を諦めて工場に赴任できなかった事である。私の召集で部長が「困った、困った」を連発したが、その一人に違いない。E君の連絡により、そのM君に会うことになっった。彼も私との再会を待ち望んでいた。
M君は、戦後の二十一年初頭からI部長の命令で東京支社勤務となり、トレースなどの仕事(彼は機械科出身者であった)をした。そして、部長について光へ行ったという。それが六月だったのではないか。私が引き揚げて来たばかりの頃である。光では旅館住まいで、工廠へ行って海水を汲んで,塩を作ったという。しかし、彼は家庭の事情で、会社をすぐ辞めたので、光も一、二ヶ月ぐらいの滞在で、旅館と工廠の往復以外、光の町は一切知らなかったという。
その後に私が行くようになるのであるが、M君の話は、一度も部長より聞いた覚えはなく、何十年ぶりかに聞くことである。部長は何故、M君の事を私に伏して帯同したのであろうか。後述するが、部長も旅館住まいで栄養失調となり(一つの理由かも知れないが)光を去ってしまうことになる。
光へ出発するまでの間、私は今まで通り、船越の染色工場へ通っていたが、弁当を持って行くような米は無かったので、昼食時は帰宅していた。光行きが決定すると、だんだん勤めに出たり出なかったりというような状態になり、会社から呼びに来たこともあった。さつま芋か雑炊が主食であり、父や母たちは、毎日つてを頼りに、農家へ買い出しに出るのが日課であった。
光へ出発する時も米は無かったので、弁当はふかし芋であった。ところが、車中で乗客がひろげている弁当は、皆銀シャリ(白米)である。あるところにはあるものだと感心して、私はさつま芋の包みを開ける勇気が出なかった。
昭和二十一年十月一日の昼頃、山口県光駅に降り立って、戦後の新しい生活が始まった。
( 「 Ⅱ-31 山口県光市 」に続く )