「面白いのがですね、
普通、誰かに食事とかを出す時って、
用意が全て完了してから呼ぶものじゃないですか。
ごはんできましたよー。。って。
それが神様の場合、
先に降りて来てもらってから用意を始めるわけですよ。
供物に関しては。おかしいでしょ?(^_^)
それと下げるときもですよ。
普通は相手がいるうちに食事を片付けたりはしないじゃないですか。
それが神様の場合、目の前で片付けちゃったりするんですよ。
帰ってもらう前に片付けちゃうんです。さっさと。
変ですよね?
それとですね、
どーも直会(なおらい)っていうのは、元に戻る、とか、
正気に戻る、、みたいな意味もあるようなんですよね。
それって、神祭や神事って、
どっか狂ってて人が正気じゃない状態だって!?
ことを指してるような気もするじゃないですか―――――――」
意外や意外!?(o゜ー゜o)
コレ、もう一回ですな。。つづく~♪
神職で鋭い霊能を持つMさん。流石に面白い視点での話です。
聞きながら僕も思わず
「そーだねぇ......確かに。
不思議って言えば不思議だねぇ。
今までそんなこと考えたこともなかったよ。。」
と考え込んでしまいました。
その後もこのことに関して2人で少し話し込んだのですが、
電話の向こうでMさんのカワユイお子さんが
ニャーニャーと泣き出してしまったので、
この話は一旦切りあげて、元の話に戻り、
「今週にでも近所の神社の宮司さんに張り紙をお願いをしてみるよ」
と、そんな感じで電話を切りました。
実は、この直会(なおらい)や式次第(しきしだい)に関して
Mさんが個人的に不思議に思っているという話......
———————何故?神様の目の前で供物の準備をするのか。
———————何故?神様がまだ居られる前で供物の片ずけをするのか。
という話を聞いている時、
その理由に関して僕には一つ明確なイメージが湧いていました。
確かにこの次第(しだい)は、
お客さんや目上の人に食事を出す時の常識としては
少々不思議な感じがします。
しかも相手が神様!というわけですから、それはもう
「失礼千万!もってのほか!」
なんていう不思議さを感じられるということも良くわかります。
ただ、この不思議さを感じない前提条件が一つだけあるのです。
例えば、
親しい友人たちとバーベキューに行ってワイワイと楽しむ時。
食事を作る時も、食べる時も、かたずける時も。
バーベキュー場に行く前の食材の買い物すらもみんなでします。
中にはココゾ!と、腕の見せ所マン!が全てをやっちゃう!
素敵!助かる♡
なんていうバーベキューもあるかと思いますが、
多くのバーベキューはみんなで楽しく
ワイワイとやる感じではないでしょうか。
親しい友人とホームパーティーなどする時も
こんなパターンがあるかもしれませんし、
親子で夕食を作る時も、夫婦で食事を作る時も、
作業や調理を分担して、片ずけも一緒にやる......
みたいなことも多い気がします。
要は、親しく、身近かな間柄であれば一緒に食事を作ったり、
食べたり、片付けたりもすると思うのです。
実は、
神様って、
そういう感じなのではないのでしょうか。
本当は、
神様が望んでいることって、
そういう感じではないのでしょうか。
上も下も、左も右もなく。
人が想像し、固めてしまった神の形やイメージでもなく。
そういう意味での神や仏やジーザス様でもなく。
神様って、楽しくて、
人と一緒に時間を過ごせることが嬉しくて、
それをとても大切なことなのだと思っているのではないのでしょうか。
そういうことを誰かが神事の式次第に織り込んだ......
そんなメッセージも織り込まれている.......
そんなことを僕は思うのです。
お供物の準備や片付けも一緒にしてくれる神様というのは、
もしかしたらお米や野菜、海のものや山のもの、
そんな食物を作ったり、
採ったりする時にも一緒にいてくれる様な気がします。
作物を作る時の苦悩や喜びや悲しみも
一緒になって感じてくれているのかもしれません。
一緒になって草むしりをしてくれて、
実の成る木の世話をしてくれて、
矛盾と欺瞞に溢れた商売やオフィスの中でも、
同じように嬉し涙も悔し涙も一緒に流してくれている様にも思えます。
それが本当の神様なのではないでしょうか。
そういうことが、この「直会=なおらい」の
式次第の中に表現されているのかもしれないな......と。
僕はそう思うのです。
万事セットされた食事テーブルにやってきて、
「どれどれ、、おーおー、おいしそーだな。ご苦労様ぁ。。」
なんて言いつついただいちゃって、
「ごちそーさまー。。オイシカッタよー。
お片づけもよろしこーー( ̄▽ ̄)」
なんて、上からスタンスだけを感じるような神様なんて、
もしかしたら神様ではないのかもしれません。
神様のふりをした違うものなのかもしれません。
人が勝手に神と崇め、創り出してしまったものなのかもしれません。
「祀り」は「祭り」である様に、政治なんてものも、
つい最近の江戸時代までは「マツリゴト」と呼んでいた様です。
もしかしたら政治というものにさえも、
祭りの様に賑やかで楽しい国創りをして欲しいのだと、
本当はそんな願いや意味が込められていたのかもしれません。
神のような「徳」を持つ人がタクトを振るったとしたならば、
そんな政治や国を目指して欲しいのだと、
そんな意味が込められていたのかもしれません。
神様って、
子供を育てる「真の愛」を持つ親の様に、
不本意ながら、
時折子供に苦労させるようなこともあるだろうけれど、
そんな時は一緒になって苦しんでくれて、
一緒になって全てを享受してくれる、
そんな存在なのではないかと思うのです。
直会(なおらい)へと流れていく神の儀式に潜む意味深いメッセージって、
実はそんなことかもしれないな......と、
僕はMさんと話していて思ったのでございます(^_^)
青森県、七戸で250年以上の歴史を持つ酒蔵「盛田庄兵衛」。
その「駒泉」ブランドの青ラベル「真心」。
紺碧のガラス瓶に入っています。
名前や色からなんとなくスサノオさんの姿が浮かび、
ついつい買ってしまいました。
スサノオさんの様に?見かけによらず?
フルーティーな味と香り。
直会で飲んじゃいました。
神様に捧げるものはいつも「真心」なのではないかと、
僕はそう思うのです(^_^)
普通、誰かに食事とかを出す時って、
用意が全て完了してから呼ぶものじゃないですか。
ごはんできましたよー。。って。
それが神様の場合、
先に降りて来てもらってから用意を始めるわけですよ。
供物に関しては。おかしいでしょ?(^_^)
それと下げるときもですよ。
普通は相手がいるうちに食事を片付けたりはしないじゃないですか。
それが神様の場合、目の前で片付けちゃったりするんですよ。
帰ってもらう前に片付けちゃうんです。さっさと。
変ですよね?
それとですね、
どーも直会(なおらい)っていうのは、元に戻る、とか、
正気に戻る、、みたいな意味もあるようなんですよね。
それって、神祭や神事って、
どっか狂ってて人が正気じゃない状態だって!?
ことを指してるような気もするじゃないですか―――――――」
意外や意外!?(o゜ー゜o)
コレ、もう一回ですな。。つづく~♪
神職で鋭い霊能を持つMさん。流石に面白い視点での話です。
聞きながら僕も思わず
「そーだねぇ......確かに。
不思議って言えば不思議だねぇ。
今までそんなこと考えたこともなかったよ。。」
と考え込んでしまいました。
その後もこのことに関して2人で少し話し込んだのですが、
電話の向こうでMさんのカワユイお子さんが
ニャーニャーと泣き出してしまったので、
この話は一旦切りあげて、元の話に戻り、
「今週にでも近所の神社の宮司さんに張り紙をお願いをしてみるよ」
と、そんな感じで電話を切りました。
実は、この直会(なおらい)や式次第(しきしだい)に関して
Mさんが個人的に不思議に思っているという話......
———————何故?神様の目の前で供物の準備をするのか。
———————何故?神様がまだ居られる前で供物の片ずけをするのか。
という話を聞いている時、
その理由に関して僕には一つ明確なイメージが湧いていました。
確かにこの次第(しだい)は、
お客さんや目上の人に食事を出す時の常識としては
少々不思議な感じがします。
しかも相手が神様!というわけですから、それはもう
「失礼千万!もってのほか!」
なんていう不思議さを感じられるということも良くわかります。
ただ、この不思議さを感じない前提条件が一つだけあるのです。
例えば、
親しい友人たちとバーベキューに行ってワイワイと楽しむ時。
食事を作る時も、食べる時も、かたずける時も。
バーベキュー場に行く前の食材の買い物すらもみんなでします。
中にはココゾ!と、腕の見せ所マン!が全てをやっちゃう!
素敵!助かる♡
なんていうバーベキューもあるかと思いますが、
多くのバーベキューはみんなで楽しく
ワイワイとやる感じではないでしょうか。
親しい友人とホームパーティーなどする時も
こんなパターンがあるかもしれませんし、
親子で夕食を作る時も、夫婦で食事を作る時も、
作業や調理を分担して、片ずけも一緒にやる......
みたいなことも多い気がします。
要は、親しく、身近かな間柄であれば一緒に食事を作ったり、
食べたり、片付けたりもすると思うのです。
実は、
神様って、
そういう感じなのではないのでしょうか。
本当は、
神様が望んでいることって、
そういう感じではないのでしょうか。
上も下も、左も右もなく。
人が想像し、固めてしまった神の形やイメージでもなく。
そういう意味での神や仏やジーザス様でもなく。
神様って、楽しくて、
人と一緒に時間を過ごせることが嬉しくて、
それをとても大切なことなのだと思っているのではないのでしょうか。
そういうことを誰かが神事の式次第に織り込んだ......
そんなメッセージも織り込まれている.......
そんなことを僕は思うのです。
お供物の準備や片付けも一緒にしてくれる神様というのは、
もしかしたらお米や野菜、海のものや山のもの、
そんな食物を作ったり、
採ったりする時にも一緒にいてくれる様な気がします。
作物を作る時の苦悩や喜びや悲しみも
一緒になって感じてくれているのかもしれません。
一緒になって草むしりをしてくれて、
実の成る木の世話をしてくれて、
矛盾と欺瞞に溢れた商売やオフィスの中でも、
同じように嬉し涙も悔し涙も一緒に流してくれている様にも思えます。
それが本当の神様なのではないでしょうか。
そういうことが、この「直会=なおらい」の
式次第の中に表現されているのかもしれないな......と。
僕はそう思うのです。
万事セットされた食事テーブルにやってきて、
「どれどれ、、おーおー、おいしそーだな。ご苦労様ぁ。。」
なんて言いつついただいちゃって、
「ごちそーさまー。。オイシカッタよー。
お片づけもよろしこーー( ̄▽ ̄)」
なんて、上からスタンスだけを感じるような神様なんて、
もしかしたら神様ではないのかもしれません。
神様のふりをした違うものなのかもしれません。
人が勝手に神と崇め、創り出してしまったものなのかもしれません。
「祀り」は「祭り」である様に、政治なんてものも、
つい最近の江戸時代までは「マツリゴト」と呼んでいた様です。
もしかしたら政治というものにさえも、
祭りの様に賑やかで楽しい国創りをして欲しいのだと、
本当はそんな願いや意味が込められていたのかもしれません。
神のような「徳」を持つ人がタクトを振るったとしたならば、
そんな政治や国を目指して欲しいのだと、
そんな意味が込められていたのかもしれません。
神様って、
子供を育てる「真の愛」を持つ親の様に、
不本意ながら、
時折子供に苦労させるようなこともあるだろうけれど、
そんな時は一緒になって苦しんでくれて、
一緒になって全てを享受してくれる、
そんな存在なのではないかと思うのです。
直会(なおらい)へと流れていく神の儀式に潜む意味深いメッセージって、
実はそんなことかもしれないな......と、
僕はMさんと話していて思ったのでございます(^_^)
青森県、七戸で250年以上の歴史を持つ酒蔵「盛田庄兵衛」。
その「駒泉」ブランドの青ラベル「真心」。
紺碧のガラス瓶に入っています。
名前や色からなんとなくスサノオさんの姿が浮かび、
ついつい買ってしまいました。
スサノオさんの様に?見かけによらず?
フルーティーな味と香り。
直会で飲んじゃいました。
神様に捧げるものはいつも「真心」なのではないかと、
僕はそう思うのです(^_^)
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