銀座のうぐいすから

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ラフマニノフのピアノ協奏曲・・・本当の先生(横国大附中=雲井佐和子=芸大卒=様)に出会う

2012-02-20 01:29:56 | Weblog

  皆様、政治の裏側をめぐる汚い話が続いてしまったので、自分でも身を清めたくなりました。これは、きれいなお話です。

ラフマニノフのピアノ協奏曲

 中一のときの夏休みの自由課題として、『古典派の作曲家から一曲を選んで、感想文を書いて来なさい』というのが出ました。1955年の話です。ところが、いつも夢見る夢子さんだった、私は、先生の言葉の中にあった、古典派という部分を聞き漏らしてしまいました。実はバッハとか、ハイドンから選ぶ必要があったのですが、そこをまったく失念をして、全分野から選ぶのだと勘違いしてしまったのです。で、夏休みにラジオで、次から次へと曲を聞いていき、すぐ感想文を書いて準備を始めました。すごく楽しい宿題でした。クラシック音楽が大好きになったのもあの宿題のおかげかもしれません。

 で、9月になって提出しようとしたら、友達が、私の感想文の表題を見て、「うわーい。間違えている。古典派なのに、ラフマニノフなんて選んで」と教室中に
響く大きな声で、はやし立てました。

  このお友達は、実はお母さんが継母(と...いってもおばに当たる)で、そのお母さんが、『どうしても、姉から預かった、この子をクラシックの演奏家にする』と決めていて、小学校のときから芸大に入学するように運命付けられていたお嬢さんですから、音楽に関する知識は抜群に高かったのです。と、同時にどこかで、ゆがんでいたのでした。その『実母ではないお母さんの望みである、芸大に入学して有名なピアニストになる』という目標へ、プレッシャーを感じていたのだと思います。彼女はその後、三浪(途中で別の音大へ一回進学済みだが)して芸大へ入りました。高校に桐朋を選んだのも失敗だったといっていましたが・・・・・・ともかくストレスの多い・・・・・・だがある程度以上に成功した音楽家として一生を終えました。ヨーロッパで音大の教授になりましたから大成功といえるでしょう。
 
  一方の私ですが、お勉強だけは抜群にできて、優秀でした。入学試験もほかの子と50点も差がついていたそうです。が、言葉を自由に出せない人間で、喧嘩なんか一切できない人間でした。だから、教室中に響く声で、からかわれて、恥をかいても、一切抗議もできず、もちろん、泣くわけにも行かなくて、ただ、凍り付いているだけでした。

  授業が始まって、先生が回収をされるときに、恐る恐る小さな声で、お断りというか、謝罪をしましたが、先生はチラッと、レポートを見て、ぎっしりと鉛筆で書かれている小さな字を、期待を持つ様な目で、一瞥なさり「いいわよ。これで」とおっしゃいました。そして、後日返してくださるときに、たくさんいい励ましの言葉が書かれていたと記憶をしています。

  ともかく、その夏の一ヶ月、私は膨大な数の曲を聴き、シューベルトの即興曲にするか、それとも、ラフマニノフのピアノ協奏曲にするかを悩みに悩んで、ラフマニノフの方が、言葉をたくさん使って、自分がどうしてすきなのかを表現できると考えて、そちらを選んだのでした。

  が、その後、一生を通じれば、シューベルトの即興曲の方が好きになっています。でも、あの中一の夏休みには華やかなラフマニノフの方が書きでがあると感じたのです。これは、美術でも同じだと思いますが、傑作を言葉で還元するときに素材が単純であるほど、言葉で変換しにくいのです。

  私ね、あのときの先生の「いいわよ」という、意地悪さが微塵もない感じに救われて、音楽を嫌いにならずにすみました。ずっと、音楽を聴くのは好きで、一生を送って来ています。先生が生徒をかわいがる感じを、見事にお示しになった先生は雲居佐和子先生とおっしゃいます。もちろん芸大出身です。
   2012年2月17日に初稿は書く、雨宮舜  (川崎 千恵子)

コメント (5)
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